第九席

お金を払ってきたんだ。どうか払う価値がありますように。

一人目は小太りで坊主の若い男だ。
座布団の上に乗っていると、大福のようだ。

男は前、斜め右、左に頭を下げた。
どうやら客全体に軽く頭を下げるしきたりらしい。出てきても真正面にしか頭を下げない威張った音楽会とは違うらしい。

伝統芸能とはいえ、何かへりくだったような気安さを感じた。

男は有名なある落語家の弟子だと話した。
今日の主役となる落語家は師匠の兄弟子だという。

いくつかのエピソードを話したのち、自然な流れで落語に入った。

長屋に住む男(多分主人公)は、大家に賃料を取り立てられる。

大家はケチで、家の最低限の修理さえ、渋る始末。
主人公は周りに住む仲間たちと「あいつは独身で趣味ひとつありゃしない。相当溜め込んでるはずだ」と陰口を叩く。

そんな大家は死の間際、あることをする。
主人公は大家を背負って、真夜中、火葬してくれる寺を目指して山をいくつも越える。

落語家は一人なのに、舞台上で何人もの人を演じた。身振り手振り、話し方、口調、体の角度で、話すたびにその人が憑依したかのようだった。

社会にも、顔が悪く不細工と言われる人たちと、顔が悪いが何か魅力のある舐められない振る舞いをする男がいる。
顔の造形を見ると大した違いがない。
何がちがうのかというと、仕草や「自分はイケメンだ」というような確固たる自信だ。
その雰囲気に飲まれ、なんとなく顔がいいように見えてくる。

演技の上手い俳優が、役により善人も悪人も、変質者も演じ分けるように、同じ顔同じ声であるのに、まるで違う人がそこに存在するかのように演じる。
その俳優を見ているかのようだった。

血の通った人がいると感じた。その人たちは私たちと同じ弱さを持ち、それでも面白おかしく生きようとしていた。
私はどうだろう、と思った。

心配していた古文をやってこなかったせいで昔の言葉が分からないのではないか問題は杞憂に終わった。
「ひ」を「し」といったり、てやんでえ言葉を別にすれば特に難しい言葉はなかった。

途中、よくわからない単語もあったが、文脈や落語家が扇子で仕草を真似するので、何ら問題はなかった。

数十分の演目を覚え、思い出すのではなく、その場でいるように話し、おそらく客席の様子を見ながら話し方を変えている。
いつも上司から話が分からないと叱責されるわたしには眩しく見えた。

登場人物たちの下世話なところ、欲深いところが笑えたけど、笑えなかった。
腹の深いところで、ジクジクと何か湿気ったものを感じた。
そう、私にもそういうところがあるのだ。
普段フタをしていい人を演じようとしている。

清廉潔白で大きな企業に勤め、平均よりも高い賃金を得ている。お金があり、余裕がある。

そうした仮面の下に、私は汚い姿を隠している。

怒られる私には、それだけ苦しむべき理由があるのだ。
罪深い者なのだ。

どす黒い感情を認識し、回想しながら、落語も同時にきちんと見る。
二人の私が同時進行していながら、その二人は別離していない。どちらも私だ。

不思議な感覚ではあった。
怒られているのをやり過ごすとき、聞き流す私は私自身ではなかったから。
二人の私がいるとき、片方は我慢をして、もう片方は自由気ままに生きていた。

ここにいる私は、片方は自由に落語を見、もう片方は自分の悲しみを直視していた。
どれだけ自分対話をしても出来なかったことだ。

落語はあるエンディングを迎えた。
途中大笑いをして、時には泣いて、自分が登場人物とリンクして、ひどいと一緒に大家を非難して、大家の酷さが自分にあることを感じ腹の底が熱くなって、でも何かその温かさには心地の良いものがあった。
ずっと蓋をしていた感情が、やっと見つけてもらえたと喜んでいるような。いや、ホッとしているやうな。
そうだ、私の根深い感情は、ようやく見つけてもらえたのだ。
今まで干からびて、乾物のようになっていた。

そこに適温の湯が注がれ、カラカラの心に水気が戻ったのだ。


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