みどりの光線
夏休みに入って、友人たちと海へツーリングに出掛けた。女の子に声を掛けるのに熱心な彼らから離れて、ぼくはひとりでヨットハーバーの方へぶらぶら歩いて行った。係留されているヨットはそんなに多くなかったが、少し離れた処に一艘の白い船があった。桟橋からそちらを見ていたら、甲板に長い髪の少女が現れた。
彼女は桟橋の方を見て、足許の双眼鏡を取り上げた。何故か此方を見ているようである。と思ったら、彼女はひらりと海に飛び込み、桟橋の方までクロールで泳いで、梯子を伝って桟橋に上がると、水を滴らせながらぼくの方へ歩いてきた。
白い肌に黒い髪が張りつき、服も体にべったりくっついている。目の遣り場に困って他所を向いていたら、彼女は此方を覗き込んで「見てた」とひとこと云った。
え? と訊き返したら、「船、見てた」と、もう一度云った。片言に近い喋り方である。
「気に触ったかな」
「違う」
「外国人?」
「違う」
顔はどう見ても東洋人なので、言葉遣いが変なのか、もしかしたら知能に問題があるのかも知れない。彼女は船の方を見遣ると、ぼくの腕を摑んで桟橋を歩いて行った。海の家のような建物の陰に来ると、ぺたんと腰を降ろし、着ている服を脱いで絞っていた。水着ではなく普通の下着だったので、慌ててシャツを脱いで手渡した。
「暑いの?」
「そうじゃないけど、そんな恰好じゃ駄目だよ」
「どうして」
「どうしてって、下着じゃないか。恥ずかしくないの?」
「ない」
「こっちが恥ずかしいから着てくれよ」
素直に従ってくれたが、前をはだけたままである。仕方がないので釦を留めてやった。濡れた髪から水滴が手に落ちた。彼女は手に持っていた服を広げて、コンクリートの地面に置いた。暑いのですぐ乾く筈だ。
しかし、何を思って船から泳いで来たのだろう。自分の方を見ていたというだけで、そんなことをするものだろうか。
「なんで泳いで来たの」
「見てたから」
会話にならない。船は誰のものか訊ねたら、おじさんだと答えた。親戚なのかと重ねて訊ねたら、飼い主だと云う。
「飼い主って、なに」
「お父さんが売った」
「はぁ?」
「お父さんが売ったの」
人身売買ということなのだろうか。そんなことは法律で許されていないし、現実にあるとも思えない。借金をして風俗などの商売に拘束されるのは一種の人身売買かも知れないが、それもやはり違法である。外国では娘を売り飛ばすことはよくあるらしいが、先進国では先づない。恐らく彼女の勘違いか思い込みなのだろう。
しかし、歩き出す前に彼女は船の方を伺っていた。
詳しく訊いてみたら、彼女が法で定められた義務教育を修める学校に上がる直前に、父親と思しき人物が知人の男性に売り渡したらしい。それだけの情報を得るのにかなり手間が掛かったが、そんな嘘が云えるほど知能があるようには思われなかった。
なんの為にそんなことをしたのか訊ねたところ、その男は何かの繋がりで父親(らしき人物)と知り合い、性的玩弄物として彼女を金銭と交換したそうである。そこまで具体的なことを話した訳ではないが、だいたいそんなところだった。何かの繋がりというのは、恐らく秘密クラブのようなものだろう。
買った男は大学の教授らしかった。そういった真面目な職業の人間には、世間に云えない秘密を持っている場合が多いらしいが、幾らなんでもこれは酷過ぎる。そもそも自分の娘をよくそんな変態に売り渡せるものだ。実の娘ではなくとも、幼い子供をそんな目に遭わせる人間が居るとは考えたくもない。吐き気がする。
よく訊いてみると、その父親も彼女と同居していた頃に悪戯をしていたらしい。しかし、彼女は自分が何をされているか判っていないようだった。判っていないだけに、されていることを明白地に話すので、此方が赤面してしまう。
「そういうことは厭じゃないの」
「いや」
「なんで逃げ出さないんだ」
「出来ない」
「見張られてるの?」
「部屋から出られない」
監禁されている訳か。それはもう、完全な犯罪である。彼女はまだ十代のようなので、未成年の監禁は罪が重いだろう。このまま彼女を連れて警察に行けば保護してもらえるだろうと思い、それを云ったら、どうやら彼女の「飼い主」は警察の上層部の人間と深い関わりがあるらしく、そんなことをしても無駄なようだった。その警察の人間も、恐らく同じ組織に入っているのだろう。
少し考えて、彼女の手を取って立ち上がった。服はもう乾いていたので、バミューダパンツを穿かせて、バイクを停めた駐車場へ向かった。彼女を逃がしてやろうと思ったのである。学生に出来ることなど多寡が知れているけれども、取り敢えず匿う場所はあった。
バイク仲間のひとりが金持ちの息子で、アパートの部屋を一室持っている。当人は女の処に居て滅多に戻ってこないので、皆がそこを利用していた。合鍵は壊れたタイルの下に隠してある。
ヘルメットはひとつしかないし、ぼくの長袖シャツを着ているとはいえ、裸足である。転倒すれば大怪我をするだろう。慎重に運転しなければならない。まあ、普段から乱暴な運転はしないし、後ろにひとを乗せているなら安全運転は当然のことである。彼女はバイクに乗ったことがないらしく、かなりおっかなびっくりだった。こちらに摑まれと促しても意味が判らないようで、腕を取って腰に廻させた。
もう、後戻りは出来ない。キックスターターを蹴り込み、スロットルを廻して発進させた。車体を斜めにして駐車場を出る時、彼女が転げ落ちるのではないかと思い、バイクと反対側に体を傾けろと注意した。それは理解出来たらしく、云われた通りにしてくれた。
四十キロ以上は出さないようにして、海岸線を抜けて街に戻った。アパートはビルがごちゃごちゃ建ち並ぶ入り組んだ処にある。ゴロツキが溜まる場所でもなく、貧民窟でもない。先づ見つからない筈だと踏んだ。あとは此処に来る奴らに口止めするだけである。悪い奴は居ないので、それは巧くいくだろう。
玄関脇の廊下の隅を足で突つくと、タイルが僅かにずれる。指で引っ掛けると一枚外れ、その下に鍵がある。知らなければ絶対に判らない。
+
薄暗い部屋は閉め切ってあるので、むっとする空気がどんより篭っている。エアコンの電源を入れ、カーテンを開けた。
前に来た奴が片づけていかなかったらしく、塵芥が散乱している。そうしたものをそこらにあったコンビニ袋に入れている間、彼女は興味深げにあちこち見て廻っていた。
コンドームまで落ちていたので、彼女がぼくの傍に居なかったことに感謝した。ちゃんと処分しないなんて、何を考えているのだろうか。一応ティッシュにくるんであったけれど、気持ちのいいものではない。
ひと心地着いて、彼女に喉は乾いていないかと訊ねたら頷くので、冷蔵庫を見るとビールしかない。仕方がないので、コップに水を汲んで渡した。相当喉が乾いていたらしく、ごくごくと飲み干した。ぼくの方はビールを飲んでいたが、まだ慾しそうにしているのでもう一杯汲んで戻ってきたら、置いてあったビールの缶を手にしていた。
「飲んだの」
「飲んでない」
駄目だよ、と云って返してもらった。取り敢えず、此方の云うことに逆らったりはしない。恐らく逆らうと酷い目に遭わされていたのだろう。ただ、何かに怯えている様子はなかった。
部屋には食べるものが殆どないので、何か買いに行かなければならない。近くにスーパーマーケットもコンビニエンス・ストアーもあるが、彼女を連れてゆく、或いは置いていっていいものかどうか判らない。能く考えてみたら、ぼくだってずっとついていられる訳ではないのだ。
このまま此処に置いておける筈もないし、ぼくのアパートに連れて帰るのも考えものである。単なる衝動で行動を起こしてしまったが、どうしたらいいのか判らなくなってしまった。
ふと名前を訊いていないことに気がついて、訊ねてみたら判らないと云う。判らない訳はないと思ったが、何度訊ねても知らないと云うばかりだった。仕方がないので、ヨットハーバーのある処がグリーンパークだったので「みどり」と呼ぶことにした。彼女は何度もみどりと繰り返している。やはり知能に問題があるのかも知れない。
もしかしたら何かの薬物でおかしくなっているのだろうか。ぼくの名前を云ったら、それも水谷秋生と繰り返している。それもフルネームで「ミズタニアキオ」と云うので、下の名前だけでいいと云ったら「アキオ、あきお」と繰り返していた。やはり脳味噌がイカれているのだろうか。
仲間に云わず勝手に帰ったので、電話が掛かってきた。
「秋生、今何処に居るんだ」
「ごめん、先に帰った。岸田のアパートに居る」
「なんだ、そうだったのか。あっちこっち探したよ。おれたちもそっちに行くから、なんか要るもんないか」
そう云われて少し考え込んでしまった。彼らは不良ではないし、悪いことはしないが、なにしろ年頃の男たちなので、みどりを見たらどんな反応を示すかだいたい予想がつく。彼女は割と可愛らしい顔立ちをしていたのである。年齢は訊いていないからはっきりしたことは判らないが、恐らくぼくたちと同じか下くらいだろう。用があるから自分のアパートに戻ると伝えて電話を切った。
こうなったら彼女を自宅へ連れてゆくしかない。家なら喰うものくらいあるし、目も届くからいいだろう。ぼくの住むアパートは此処から少し離れた処にある。再びバイクに彼女を乗せて帰宅した。
岸田のアパートに比べたらかなり見劣りするが、ものがあまりないので狭苦しくはない。六畳一間の部屋に炬燵があるだけだ。寝床は煎餅布団で、日中は押し入れに仕舞ってある。炬燵の布団は夏なので外しているから、その分広く見えると思う。
彼女は腰を降ろして、不思議そうに此方を見遣った。
「此処はぼくの家。狭いけど、暫く此処で匿ってやるよ。どうするかまだ考えてないけど、取り敢えず此処で我慢してもらうしかない」
「ずっと一緒に居たい」
「そういう訳にはいかないよ、ふたりで生活して行けるほど金もないし、もし捜索願いでも出されたら、警察に誘拐犯として捕まっちまう」
彼女は首を傾げて、ふうんと云うだけだった。此方の云ったことを理解しているようには思えなかった。
夜になって食事を作り炬燵に並べたら、手をつけない。腹が減っていないのかと訊ねたら、いつも食べさせてもらうから箸の持ち方が判らないと云う。スプーンがないので仕方なく喰わせてやった。赤ん坊の世話をしているような気分になる。風呂も入れてやらなければならなかったが、湯船で手をぱちゃぱちゃやって遊んでいた。まるで幼児である。
布団で一緒に眠ったが、いつもそうしているのかぺったりくっついて足を絡ませてきた。何故かそんなことをされてもおかしな気分にはならなかった。ぼくの裡で、彼女は既に庇護する対象になっていたのだろう。子供にしか思えなかった。
彼女の着替えがなかったが、他人の服を揃えるほど金に余裕がなかったので、ぼくのものを着せた。大きかったが、おかしく見えるほどではない。下着もトランクスで我慢してもらったが、こればかりは買った方がいいだろう。
朝食になるようなものがなくてカップスープにしたが、それは自分で飲めるようだった。水をコップから飲んでいたので、液体は自分で飲めるようだ。
スーパーマーケットが開店する頃にアパートを出て、下着などを買い求めた。こうした処に来たのもはじめてだったらしく、目につくものをいちいち触っている。どんなものがいいのか訊ねても首を傾げるばかりで、仕方なくぼくが選んだ。パンツのサイズくらい判るが、ブラジャーは判らないので買わずにおいた。シャツを着せておけば目立たないだろう。食材も適当に買った。
「飼い主」に判らないようにする為に伊達眼鏡を買い、部屋に戻ってから髪を短く切った。男みたいに短くしたので、少年のようになってしまった。だが、これなら先づ判らないだろう。眼鏡を掛けたら元の面影はまるでなくなった。よくよく観察しなければ、女にも見えないに違いない。男が追ってくるかどうかは判らないが、用心するに越したことはない。なにしろ相手はサディストの変態なのである。
夏休みなので学校へは行かなくてもいいが、アルバイトに出掛ける時は、絶対に外へ出ないで、誰かが来ても応対しないようにと云った。それを理解してくれたかどうか判らないが、帰って来たらちゃんと部屋に居た。
+
奇妙な同棲生活が続いていた。此処から連れ出してどうすればいいのか考えつかなかったので、そのまま住まわせていたのである。時々彼女はぼくにキスをしてきたが、それ以上のことは求めてこなかった。
余程酷い目に遭わされていたのだろう。体にはあちこち疵があった。擦り痣くらいは消えていったが、刃物で切られたり、何かで縛りつけた痕などはいつまでも残っていた。こんなことをする人間が同じ男なのかと思うと憤りと共に吐き気すら覚えるのだが、もう関わってこないのなら、考える必要もないと思った。
夏休みが終わろうとする頃、アルバイトから戻ったら部屋の鍵が開いていた。玄関の三和土には男物の革靴があった。慌てて部屋に上がると、炬燵を挟んでみどりの前に痩せた背広姿の男が座っている。
直感的にこいつが『飼い主』か、と思ったらむかむかと腹が立ってきた。ぼくに気づいて顔を上げたその男は、子供を陵辱して乱暴を働くような顔をしていなかった。
「君がこの子を連れ去ったのか、返してもらうよ。どうやって手懐けたのか知らないが、帰りたがらないんで君からも説得してくれないかな」
「そんなことする訳ないだろ、帰ってくれ。帰らないと警察呼ぶぞ」
「呼べばいいだろう、君は誘拐犯だ。捕まるのはそっちだよ。わたしは彼女の保護者なんだ、そこのところを判っているのか」
「保護者が聞いて呆れるよ、人身売買が罪になることくらい判ってるだろ。自分の職業を考えておとなしく帰れ」
「はあん、随分詳しく訊き出したもんだな。おまえもこいつと寝たのか」
かっとなって男を殴りつけたら、みどりがその腕に取り縋って止めた。
「なんで止めるんだ。こんな奴、ぼこぼこにしてやらなきゃ気が済まないよ」
「だめ、あきおが悪いひとになっちゃう」
『飼い主』は殴られた頰を擦りながら立ち上がり、ぼくらを見下ろした。
「くだらない。こんなものは君に譲ってやるよ。払った金の分は愉しませてもらったからな。他の男に毒されたんじゃあ、価値もない。まあ云えば、生ゴミかな? 学生の分際でふたり暮らせるだけの稼ぎがあるとは思えないが、好きにすればいいさ」
そう云って男は帰って行った。気が抜けてしまい彼女の手を取り、はじめて自分から抱き締めた。それでもやはり子供のようにしか思えず、髪を撫でてやるくらいしか出来なかった。
男が云う通り、アルバイトの給料と親の仕送りだけではかつかつの生活である。だが、贅沢をしなければなんとかやってゆけるだろうし、彼女は少食でものも碌に慾しがらない。維持費がかかるのでバイクは売り払った。乗りたい時は、仲間に借りた。彼らにもみどりを紹介した。
「へえ、可愛いじゃん。名前は?」
「みどり」
「みどりちゃんか、幾つなの?」
「十七」
「おれらよりふたつ下か、高校生?」
彼女は黙って首を振った。十七だということはこの時はじめて知った。自分の年くらいは判っていたのか。彼らはぼくの恋人だと思って、馴れ馴れしくしたりせず、勿論、誘ったり触ったりはしなかった。みどりの知能が低いことも、彼女が殆ど喋らないので判らなかったようである。
これからふたりの生活がどうなってゆくのか判らないが、彼女を放り出す気にはなれない。保護者のような気持ちだったが、それだけに守ってやらなければならないと思えた。
些細なことでけらけら笑って、どんなことでも面白そうにする。無邪気で屈託がなく、酷い目に遭わされていたようにはとても思えない。頭が悪いと思っていたが、それは教育を受けていないだけで、物事を学ぶ知能はあった。
ただ、言葉遣いはそのままで、片言で話す。友人たちはそこが可愛らしいと彼女を構うようになった。皆もみどりのことを頼りない妹のように思っているようだった。どのようなきっかけで知り合ったかは話したが、当然その過去については云わなかった。彼女も以前のことは何も云わないし、忘れる訳はないだろうがさして気にしている風でもなかった。
+
みどりの誕生日は判らなかったが、出会った日をそうすることにした。彼女は誕生日の意味すら知らなかった。
「自分が生まれた日を誕生日っていうんだよ。生まれたことに感謝して、お祝いするんだ」
「どんなことするの」
「プレゼントを貰ったり、ごちそう食べたり、ケーキを食べたり」
「ケーキってなに?」
そう訊ねられて、少し悲しくなった。女の子でケーキを知らない者は居ない。特別な日ではなくても、ケーキなど幾らでも食べられる。コンビニエンス・ストアーだって、百五十円くらいで買えるのだ。
ケーキは甘くて白いクリームが載っていて、それに蝋燭を立てて、願い事をして火を吹き消すのだと教えたら、やってみたいとみどりは云った。
コンビニエンス・ストアーやスーパーマーケットに売っているようなものでは可哀想なので、ちゃんとした洋菓子店でケーキを買った。みどりは硝子ケースの中にある菓子を見て、これは食べ物なのか玩具なのかと訊いてきた。
「お菓子だよ。どれもみんな、食べられる。これがケーキ。柔らかくて甘い。どれがいい?」
彼女は小さなタルトを指差した。果物がゼリーでコーティングされてきれいだったが、ケーキという感じではない。でも、気に入ったものを買ってやるのが一番だろう。
それとは別に、誕生日らしいホールのケーキも買った。予約していなかったので特別なことは出来なかったけれども、蝋燭に火を灯すと彼女は手を合わせ、祈りの言葉を声に出して云った。
「あきおにいいことがありますように」
自分のことではなく、ぼくのことを願うとは思いもしなかった。その言葉にぼくは、譬えようもなく、計り知れないほどの罪悪感に駆られた。それが何に対してだったのかは、ぼく自身にも判らない。
ただ、恥ずかしかったのだ。
寝息を立てる彼女の子供のような顔を見ていたら、堪らない気持ちになった。みどりはぼくのことを全能の神のように思っている。当たり前のことだが、ぼくはそんな存在ではない。それに近いことすらしてやれないのだ。
月に一、二着服を買ってやったが、金に余裕がないので古着屋やユニクロのような店だった。それでもみどりは喜んで、ぼくに抱きついてキスをした。店でそんなことをされたら此方は恥ずかしくて堪らない。羞恥心がないというか、彼女はいつまでも子供のようだった。
料理も少しづつだが覚えた。火を使わせるのが恐かったので電子レンジを使った調理を検索して教えた。帰って来て温かい料理があるというのは、体の真底から温かい心地にさせる。箸もちゃんと持てるようになった。酒は呑ませなかったが、ぼくのグラスにビールを注いでくれたりした。
ままごとのような生活だったが愉しかった。いつまでもこの状態が続くと思っていた。
或る日、アルバイトから帰って来たら、アパートの前にパトカーが停まっていた。何事かと思ったら、夕方頃、ベランダから若い女性が落ちたという。聞くところに依ると洗濯物を取ろうとして、誤って転落したらしい。まさかと思って部屋へ行ったら、そこにみどりの姿はなかった。
慌てて階下に駆け降り、警察官に女性の特徴を訊ねた。
それは、みどりだった。
パトカーで病院へ行った。霊安室に横たえられた彼女は、一見、疵ひとつなく、生きている時のままだった。死因は脳挫傷とのことである。
ぼくでは遺体を引き取ることが出来ないと云われた。無理もない。法的にはなんの関係もない、赤の他人である。かといって、父親の消息も判らなかった。様々な手続きを経て、親の手も煩わせて彼女を家に連れ帰った。葬式などは出せず、ただ火葬だけして、骨壺を抱いてアパートに戻った。彼女はまだ、十八才だった。
写真の一枚もなかった。
彼女と暮らした一年あまりは、大変だったが充実していた。ぼくは元通り、ごく普通の学生生活に戻ったが、気が抜けたような感じだった。何もかも色褪せて見える。
どれだけ思っても彼女は戻ってこない。ぼくは何もしてやれなかった。屈託なく笑うみどりの顔を思い出すと、遣る瀬ない気持ちになってくる。
もっと大切にしてやれば良かった。色んなことを教えて、共に楽しめば良かった。何処にも連れて行かなかった。まったく金に余裕がなかった訳ではないのに、贅沢なことは一切させてやれなかった。
今更、何を思っても仕方がない。
友人にバイクを借りて、みどりと会ったヨット・ハーバーへ行った。季節外れの海はひとけがなく、うら淋しい様子だった。日が暮れるまで防波堤に腰掛けていた。沈む夕日を見つめていたら、オレンジの太陽が水平線に消える瞬間、緑の光が煌めいた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?