貧困日記、7。
五日振りに外出した。
厳密に云えば二日前に洗濯物を干す為、ベランダへ出た。それ以外、外気を吸ったのは、今日が正味の、五日目だ。
五日前に何処へ行ったかというと、図書館である。本を読むことが生き甲斐というか、読んでいない時はどうぶつの森で労働をしているか寝ているか、それ以外だと死んでいる。
それくらい本が欠かせないのだが、今後は古本すら購えない。しかし近隣(歩いて三十分、バスは一時間に一本)の図書館は所蔵数がお粗末すぎる。わたしがこれまで所有した書籍を合わせたら、余裕で凌いでしまいそうな蔵書なのだ。
なので、地下鉄を乗り継いで三十分。炎天下のなか駅より歩き、県の図書館へ赴いた。
規模が違う。
しかし、所蔵数はもっとあって慾しかった。これでは足りない。こんなものまであるのか、という驚きがないのだ。もう、実家からわたしの本を持ってこられるのであれば、寄贈したいほどだ。無理だけど。
五冊借りたけれども、読んでしまった。三週間の貸し出しで六冊とは、少なすぎやしまいか。その冊数では、四、五日で読み終えてしまう。屡々行くには遠すぎる場所だ。
それでも、読みたい本を購うことは出来ぬ。金がないからだ。はっきり云って、そこらを歩いている小学生より金がない。
金がないから五日間も、家、というより、自室から一歩も出なかったのだ。
世間は誘惑に満ちている。
わたしのように自制の効かぬ人間が、ひと度外へ出れば、目も当てられぬ結果になる。
「買い物(ショッピング)」は寧ろ嫌いだが、モノを手に入れることは大好きなのだ。田舎に住んでいた頃は、目的は映画館へ行くだけなのに、必ず何か買って帰った。
それが自分に有益なものだったかといえば、まったくそうではないと思う。その頃「土産」として購った駄ものは現在、殆ど残っていないのだ。
残っていない理由は、わたしが極度に忘れ相が良く、二十代後半に雑貨屋で買ったインド製の烟草入れなど、出かける度に失くし、購入した店がうろついている範囲内にあるので再度購い、そしてまた置き忘れる。それを繰り返していた。
気に入って買ったものも、衝動的に買ったものも、何処かへやってしまう。
ものを大切にしない訳ではない。これはもう、粗忽としか云いようがない。持って行った先で必ず、何故かひとつは失くす。有り得ない話だが、家で保管しているのに失ったら最後、探しても見つからない。
後者の場合、引っ越しなどの強制捜査(?)をすれば見つかりそうなものだが、それでも発掘出来なかった。
こうなると発見ではなく「発掘」である。既に見失ったものらは、何処かに埋もれているのだから。
五日間も外へ出ないで、食事はどうしていたのか。疑問に思う方も居られるだろう。
備蓄してある食料で賄った、それだけである。
何があるかというと、雑穀米、オートミール、フリーズドライスープ、出汁茶漬けの素、ふりかけ、レトルトカレー、シーチキン、コーンクリーム、諸々。
今回この中で使ったものは、雑穀とレトルトカレーのみである。雑穀は午前四時に浸水し、午前五時から炊飯開始、約三十分弱で炊飯が終了したのち、箆でほぐし、気温が高いので粗熱が取れたら冷蔵庫へ内釜ごと入れて終了。
因みに、我が家で使用する炊飯器は大同電鍋である。
それへレトルトカレーや出汁茶漬けを投入するだけの食事なのだ。
毎晩の飲酒も途絶した。
これは辛いのではなかろうか、と思ったが、水だけでも平気だった。
この水だが、都会の水は不味いしヤバいと自宅に押し掛けて来たウォーターサーバー屋に煽られた所為で、金を払って汲んで来ていたが、譬え2リットル五十円とはいえ、わたしは一日、余裕で3リットル飲む。
これだけ節制して、水如きに金を払っていられるか。日本の水は安全が売りものなのだ。
で、調べてみると、水道水の基準はミネラルウォーターより厳しく、味は兎も角、より安全な水であることが判った。不味さの原因は消毒に因る塩素なので、これを除去すれば問題ない。
どうすればいいのか。
調べてみれば簡単なことで、汲み置きすれば塩素はほぼ消滅する。しかしこの季節、容器に入れて放置するのは不安なので、他の方法はというと、冷蔵庫に入れる。それだけであった。
塩素の検査薬を用い、写真でもって証明しているサイトがあるので、それを信頼することにした。そうしたものすら疑う根拠を、わたしは持っていない。そもそも、水道水が汚染されていると知らなければ、普通に使用していたのだ。
究極的な倹約生活を始めて二週間ほど経つが、特にしんどいと思うことはない。
部屋から出ないでいた五日間、誰とも話さず、生きた人間を見ることもなかった。それでも、なんとも思わない。これはわたしが他人をあまり必要としていないからだろう。
ひとの中に浸かり、ひととの交流を求め、己れを主張しまくりたい人間は、家に篭っていることなど、苦痛以外の何ものでもない筈だ。修行なのか、と思うかも知れない。
しかし、常にひとから隔絶し、ひととの交流が苦痛に思える人間からすれば、なんの困難もない。
ひとことも言葉を発せないのは、多少、辛く悲しいかも知れない。幸い、わたくし方には猫が居る。猫に話し掛けることで、まったく発声しない訳ではなかったのだ。
こうした事態に陥り、今までしていた散財が「病」だったのが、つくづく判る。
買っては捨てていた。
どう考えてもおかしい。
何故、慾しくもないもの、否、その時はどうしても慾しいと思ったその感情は、一体、なんだったのだろう。
病としか云いようがない。
これを予防するには、発病する場所を避けるより他ない。それは外出、世間である。つまり現在のわたしは、図らずともこの病を癒し得る状況なのだ。
即ち、金がない。
金がなければ、幾らなんでも必要のないものを購入はせぬ。借金してまで慾しいものはない。
世間的に褒められたものではない現在の状況であるが、わたしにとっては長年の苦しみであった過食嘔吐と、買いもの依存から脱却出来そうな感じがする。このふたつは業の深い病で、完治することはないと云われている。
それが貧困に立ち至ったことで解消されそうなのだ。貧乏も悪いことばかりではない。
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