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捨てられた町にがらんどうの風が吹く

 「吾輩は猫である。名前はまだない」という絶妙な書き出しではじまる小説がある。作者は夏目漱石といって、お札にもなった文豪である。
 この小さな島国の片隅に、苗字を持たないひとびとが暮らす町があった。
 もともとはちゃんと苗字があったのだが、治安の悪化を理由に市政から切り離されてしまった。それから幾星霜、結婚しようが子供が産まれようが届け出る役所がないので、氏などという形骸的なものはいつしか消滅していった。
 考えてみれば、昔の平民には苗字などなかった。店などを営んでいいれば屋号で呼ばれたが、それは通り名であって、まあ云えば「木村屋のあんぱん」のようなものである。呼び名さえついていれば生きてゆくのに不都合はない。
 苗字というのは家柄を表すものなのだから、家柄もへったくれもないひとびとにはそんなものなど必要なかったのである。
 こんな町であったから、不法入国者や犯罪者が身を潜めるのに恰好の場所だった。
 いちいち建て替える資金も気力もないので、築何十年では利かないくらいの古惚けたビルや家屋が軒を連ねていた。法には抜け道というのが幾らでもあって、一応ではあるが電気もガスも水道も使用出来た。ただし、電話だけは通じなかった。
 治安が悪いというが、飛び道具でドンパチという騒ぎは起こらない。何故ならば、ピストルの類いは銃弾を込めなければただの鉄の塊にすぎない。そして弾というものは消耗品である。
 つまりは、何発か撃ったら買い足さなければならない。そんな無駄に金の掛かるものを使わずとも、相手に致命傷を与えられるものは幾らでも転がっている。廃材、コンクリートの欠片、硝子の破片、安物のナイフや包丁。
 安物といっても一応金属で出来ているのだから、研げばひとのひとりやふたり殺せる。殺すまでいかなくても、脅して金品を奪うことくらいは出来る。紐状のものがあれば絞殺出来る。貧乏人を脅したところでなんの足しにもならないので、金目のものには自然と鼻が利くようになってゆく。
 旧市というのが、その捨てられた町の名前である。
 この町のひとつの襤褸アパートに、ひと組の男女が身を寄せ合って暮らしていた。ふたりとも十代半ばで、まだ子供といってもいい年頃である。女は屋台でお好み焼きを作り、男はその材料を新市の彼方此方からちょろまかしてきて生計を立てていた。
 表向きはそうだった。
 男はケイタといい、女はミヅといった。なんと呼ばれようと彼らが存在していることには変わりがない。名前など記号でしかないのだ。
 彼らはひと殺しである。それは趣味だった。
 金目のものを奪うには奪ったが、それは二の次で、ただ、ひとが死ぬのを見たかったのだ。ふたりはひたすら血に餓えていた。
 まるで吸血鬼のように。
 スパナを振り上げ、頭に叩きつける。血が吹き出る。それが面白かった。残虐非道な趣味である。

 だが、動機のない殺人というものは世の中では幾らでも起こっている。
 退屈だから、むかつくから、なんとなくと、ひとはいとも簡単に命を奪う。死のうと思って置き土産のように赤の他人を次々と殺す人間もいれば、市販の薬や食べ物に毒物を混入したりする者もいる。昔は公衆電話に置かれた炭酸飲料に毒物を入れた無差別殺人もあった。これは愉快犯の類いになるのだろうか。
 こういう輩が銃などを手にしたら、面白がってひとに突きつける。弾が込めてあれば発砲するだろう。
 探検家のスピークがウガンダのムテッサ王に銃を贈ったところ、王はこの武器がどれ程の威力か知る為に、小姓に向かって「誰かを殺してみろ」と云った。命令に従った彼の手で、侍従のひとりが撃ち殺された。王は満足げに高笑いを放った。
 米国ではハロウイーン(の前夜祭)に、子供がお化けなど様々な扮装をして近所の家へ「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と云って廻るのだが、その菓子に毒物を入れることなどしょっちゅうあるらしい。見も知らぬガキではなく、近所の子供である。その子供たちが掲げる袋へ、にっこり笑って毒菓子や危険な細工を施した菓子や果物を入れるのである。
 交換留学生だった日本人の青年がハロウイーンで街が賑わう中、近所の家へ行ったところ、その家の主人は拳銃を構えて「フリーズ」と云った。この言葉は、現在では警察官が犯罪者に向かって発する「動くな」という意味の常套句だと日本人も理解しているが、当時はそれほど一般には浸透してなかった。
 青年は、その言葉を学校で習った「プリーズ(どうぞ)」と思い、庭先から足を踏み入れた。家の当主は、躊躇なくその胡散臭い東洋人に発砲した。留学生のハットリヨシヒロ少年は、一発の弾丸で死亡した。信頼を裏切られ、涙を流しながら。
 ごく普通の住宅街の出来事である。
 場所が悪かったというのもあった。アメリカにはバイブル・ベルトなる地帯がある。南部からテキサスのある西部に掛けて、カトリック教徒が非常に多く、人種差別も激しい地帯を指す。悪名高いK.K.K,団も南部地域で組織された。
 陪審員制度で裁かれる裁判では、東洋から来た黄色い子猿を殺したくらいで白人様が人生を狂わせられては気の毒だと判断したのだろう。ごく普通のサバービアに住むビジネスマンは、無罪放免となった。
 テキサスに入ると、フリーウエイの看板には「ようこそテキサスへ」という看板と共に、「電気椅子発祥の地」という看板も誇らしげに掲げられている。誇るだけあって、死刑判決の数は全米一である。黒人の死刑囚の半数近くは冤罪か軽犯罪だとも云われている。

 殺人犯のすべてが精神異常とは云い切れない。人間にはそういう嗜虐的な本能が備わっているのだろう。殺すのが目的ならあっさり片づければいいものを、拷問紛いのことをしたり、死んだ後でも目を抉ったり手足を切断したりする。
 アパートの部屋に押し入り妊婦を殺し、腹を引き裂き胎児を引き摺り出し、そこへ電話の受話器を突っ込んだ奴もいた。犯人は捕まらなかった。一時は亭主が尋問され、犯人扱いされた。真相は闇の中である。
 ニューヨークで爆弾騒ぎが起きた際、死傷者は出なかったが、この「気違い爆弾野郎」と呼ばれたジョージ・メテスキーは、勤め先のエジソン社の所為で結核になったという手紙を警察に送りつけていた為捕まったが、癲狂院送りになった。
 神戸児童殺害事件の犯人は、「酒鬼薔薇聖斗」という、如何にもゲーム、アニメーション世代の名前で犯行声明文を送りつけた。連続幼女殺害事件で世間を震撼させた宮崎勤も、「今田勇子」という名でマスコミに声明文を送りつけている。多重人格とされ、長い間拘留されていたが死刑が執行された。幼児大量虐殺で有名なのが、フランスのジル・ド・レイ公爵である。
 犯罪は洋の東西を問わない。
 ペニー・ビョルクランドという女は、知り合いともいえない男とドライブに出掛け、連発拳銃で殺害した。彼女は、「ひとを殺して良心が痛むかどうか試したかった」と供述した。試しに殺された方は堪ったものではない。
 ひとに自分のことを知って貰いたい、という理由で殺人を犯す例も多くある。
 若者が学校などで相手にされず、教師や同級生を殺して自殺する事件など幾らでもある。別れた女房につれなくされた腹いせに商店街にトラックで突っ込んだ奴もいた。
 彼は警察に捕まると、死刑にして慾しいと頼んだという。

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 ケイタとミヅの屋台は、それなりに繁盛していた——旧市で暮らせる程度には。
「ミヅちゃん、ふたつね」
 そう声を掛けたのは、冬でも半袖を着ている中年の男だった。
 様々な人間が入れ替わり立ち替わり現れる。商品を買ってゆく者もあれば、世間話だけして去ってゆく者、ただ覗き込んでゆくだけの者。名前を知っている者もあれば、見た事もない者もいる。内には新市の人間も混ざっていた。彼らの住んで居るアパートの一階には雑貨屋を営む女同士の夫婦者等が住んでいた。彼女らもケイタとミヅの屋台の常連だった。
 何もかもが渾然とし、善も悪もごっちゃになっているこの町では、或る意味、犯罪がなかった。

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 ドラキュラ伯爵のモデルとして有名なルーマニアの国王である「ウラジミール串刺し公」、ロシアの「イワン雷帝」、ナチスに依るホロコースト、大日本帝国軍の南京大量虐殺、アメリカ軍に依るベトナムのソンミ村襲撃事件……。枚挙に暇がない。
 ソンミ村の件は軍部が隠蔽し、「南ベトナム解放戦線のゲリラ部隊との戦いだった」と報告されたが、翌年『ニューヨーカー』の記者、セイモア・ハーシュによって無抵抗の村民五百四人を殺害したことが明らかにされた。
 この虐殺に拘った兵士十四名は殺人罪で起訴されたが、隊を率いていたカリー中尉以外は罪に問われなかった。大日本帝国陸軍の南京大量虐殺は、自国の人間でも知っている者は少ない。中国側は当然語り伝えているのだが。
 広島、長崎に原爆を落とした米国は、その数十年後、爆弾を搭載したエノラ・ゲイを展示した。この名は機長だったポール・ティベッツ大佐の母親の名前からとられた。原子爆弾は『リトル・ボーイ』といった。
 とんだリトル・ボーイも居たものである。
 広島に落とされた原子爆弾は実戦で使われた世界初の核兵器に依る攻撃であり、仕掛けた方もあまりの威力に愕然したという。数十万の一般市民が死亡し、誘導放射能で急激に上昇した雲から降り注いだ雨は黒かった。
 偵察した米兵も被爆した。この行為は、これを使うとどれくらいの規模に被害を及ぼすかという実験を兼ねていた。実験で一瞬のうちに数十万人の民間人を殺した米国と、じわじわとユダヤ人やポーランド人を追いつめ虐殺したナチスドイツのゲシュタポのどちらの罪が深かったのかは、判らない。
 ただ、ドイツ人はナチスの行ったことを罪悪と感じ、幹部の行方を探し、裁判に掛け断罪した。米国は「あれは戦争を終わらせる為には仕方がなかった」と開き直り、数十年後、その原爆を投下した「エノラ・ゲイ」を誇らしげに一般公開したのは、国民性の違いとはいえ、実に興味深い話である。
 ユダヤ人でありアメリカに亡命したアインシュタインは、マンハッタン計画に関わったことを生涯悔やんだという。彼の天才的な脳味噌は、スライスされて保存されているが、アルツハイマーに罹っていたことが判明している。だが、晩年も彼は呆けていたりはしなかった。脳に関しては、いまだにその働きの一部しか医学的にも解明されていない。
 第二次世界大戦の際、無差別爆撃を命じたカーチス・ルメイは、「米国が敗けていたら、わたしは戦争犯罪人として裁かれただろう」と語った。喜劇王、チャールズ・チャップリンは、戦争で大勢殺せば英雄だが、個人的にひとをひとりでも殺したら犯罪者であると映画の中で訴えた。
 『時計じかけのオレンジ』という映画では暴力に耽溺する若者たちが描かれる。金持ちの家に押し入り暴虐の限りを尽くす場面でベートーベン作曲の第九、「歓喜の歌」が流れる。彼らにとってはまさに至福の時だったのだ。
 主人公のい如何にも凶悪そうな面相の青年は逮捕され、特殊な器具をつけられて暴力的な映像を強制的に見せつけられる。洗脳という名の拷問である。昔はロボトミー手術という乱暴なことが、精神病院では法の許により医師の手で行われていた。

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 ケイタは退屈していた。それも極まっていた。
 叫び出したいほどに。
 この町に娯楽というものはない。電気もガスも川向こうの市と新市からこっそり配給されるだけである。電話は通じない。やることといえば、カツアゲと喧嘩と性行為くらいだった。
 ミヅは娼婦である。まだ、十四才だった。相手は物見遊山気分で入り口辺りだけを覗いてゆく新市の者たちだ。
「なんにもすることないんだよ」
「此処では誰だってそうだよ」
 ふたりが出会っても退屈が二倍になっただけだった。しかし、ケイタはミヅが体を売ることをとても哀しいと思った。女の子のからだはとても繊細で、大事に扱わなくてはならない。それを売り物にするなんてとても考えられない、と彼は思った。
「なんか、店でもやろうよ。適当な喰いもんの店だったら、材料はおれが調達してくるし、新市の奴らが面白がって買ってくだろ」
「儲かるかな」
「儲かるよ、きっと」
「そしたら、もう、知らない男のひととやらなくていいの?」
「いいよ。そしたらもう、そんなことはしなくていいんだ」
「お金はどうするの?」

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 米国のカリフォルニア州サン・ベルナルディノで起きた事件では、五人の若者が意味もなく十代のカップルを殺した。
 ウオトカの瓶をラッパ呑みしながら車を流していた彼らはふたりに目を留め、同乗させた。町外れの淋しい場所で女の子に彼らは襲い掛かった。青年が彼らのひとりを蹴り仆そうとした行為が彼らの内なる爆弾の導火線に火を点けた。
「本当の強姦ってやつを拝ませてやる」
 チンピラどもはそう云った。
 青年は、恋する少女が三人の男から同時に陵辱された揚げ句、散々弄ばれ、無惨にも殺される姿を見せつけらた。そして彼は「もう必要がない」とばかりに、いとも簡単に射殺された。少女は男性をまだ知らなかった。
 動物は繁殖の度が過ぎるとストレスを感じる。自分の居場所が狭くなると肝臓の脂肪変性やアドレナリンの過剰分泌で死んでしまう。レミングというげっ歯類は、一定数を超えると水に飛び込んで集団自殺する。
 陸地が三分の一しかない惑星に、何十億もの人間が犇めき合って居たら殺し合いを始めてしまうのも自然の摂理かも知れない。
 残虐な行為の源は、脳にある扁桃核という微小な物質である。此処を電気的に刺激すると、穏やかそうに見えるひとでも攻撃反応を示す。この作用は薬物やアルコールに依っても働く場合がある。
 動機のないと思われる殺人を犯す人間の殆どが、平均か、或いはそれ以上の知能の持ち主である。と或るカルト教団に入信した若者の多くは有名大学を出て、ひと並み以上の頭脳を持っていたが、干した蜜柑の皮を万能薬だと売りつけていたような男の指示に唯々諾々と従い、地下鉄で猛毒のサリンを巻き散らした。良いことと悪いことの判断くらいつくだろうに、信ずる者の為にそれを決行した。
 地下鉄に乗り、毒液の入った袋をさりげなく足元に置いて傘の先で突く。
 その車両に乗り合わせたひとびと、そして、彼らを避難誘導した駅員が死んだ。
 ヒトラーも弁舌巧みにひとを惹きつけた。
 ナチス・ドイツ、第三帝国を掲げ、精神病者やアルコール依存症患者を「粛清」した。ユダヤ人、ジプシー、同性愛者、障害者などを、「清浄化を維持する為」として抹殺した。
 ユダヤ人の経営する商店が破壊し尽くされた街は割れた硝子で光り、「クリスタル・ナハト」、水晶の夜と呼ばれた。
 そして、カルト教団の教祖である何処からどう見ても胡散臭い人物は、ヒトラーの『我が闘争』を愛読していたという。
 ナチスの残党はブラジルなどに逃げた者も多くいたとも云われた。それを小説化したのが、アイラ・レヴィンだった。
 その『ブラジルから来た少年』は、映画、ラジオドラマ化されたが、クローン技術を扱ったサイエンス・フィクションに過ぎない。現実では、ナチス首脳部はニュルンベルク裁判で裁かれた。
 ベルリン・オリンピックの記録映画を撮った映画監督のレニ・リーフェンシュタールや、フランスに駐在して居たナチス高官と親交の深かったデザイナーのココ・シャネルは活動を禁止された。
 それでも、他人種を排斥しようとするナチズムは、ネオ・ナチとして現在も残っっている。
 しかし、彼らはヒトラーが掲げた「スラブ民族を劣等化する」信念とは別方向に進み、偏向した他国人排斥に向かった。判り易い例では、移民である(第二次大戦後、屈強な若者を無理矢理つれてきたという説もある)トルコ人の墓を倒して廻り、ペンキのスプレーでスヴァティカ(逆卍、鍵十字)、ナチスドイツの象徴であるハーケンクロイツのマークを印した。
 日本でも関東大震災の後に、「韓国人がこの隙に襲ってくる」という風聞に依って、罪もないひとびとが警棒で撲殺された。やられた側にもやった側にも、民間の日本人が含まれていた。愚かとしか云いようがない。
 普通の人間は暴力を嫌う。血を見るのを厭う——それなのに何故、銃を持ち、刃物を振り翳すのか。

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「殺しちゃうの?」
「だってそうしなきゃ、おまえはずっと自分を売りものにしなきゃならないだろ。それでもいいのか」
「いやだよ……」
「じゃ、やんなきゃ」

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 悪名高きチャールズ・マンソンは黒人と白人の間で紛争を起こさせようと画策しており、自分を認めない社会やブルジョワ層の者たちを蔑み「豚」と呼んだ。
 彼が率いる「マンソン・ファミリー」に、妊娠中だった妻を惨殺された映画監督のロマン・ポランスキー(彼もユダヤ人の亡命者だった)は、その後に撮影した映画を演出する際、「もっと血を、もっと血を」と繰り返し口にしたという。シャロンはもっと血塗れだったんだ、と。
 ゼブラ殺人なるものもあったが、この犯人は男も女も子供も無差別で殺した。その「死の天使」には規定の人数を殺さなければ仲間に入れないという掟があった。
 何を信じようと個人の勝手だが、自然の事物に精霊がが宿ると考える土着信仰は健全である。日本でも八百万の神が居ると伝えられていた。器物も百年経てば魂が宿ると昔のひとは考えていたのだ。万物に敬意を払えばそれを損ねようとは考えないだろう。
 社会的に成功した人物も、世間の時流が何を求めているか判断する能力が優れているだけで、知的レベルでは犯罪者とそう変わらない。捌け口を見つけられなかった人間が他者を痛めつける行為に走るだけのことである。自分自身の負の投影、認められない憤怒の感情が、火山の様に噴火するのだ。宗教も哲学も彼らを救うことは出来ない。そんな事柄から遠く離れた処へ行ってしまっているのだ。
 目的や理由がないように見える殺人も、凡ては慾望に裏づけられる。
 性慾や支配慾、あらゆる慾望が渦巻いているのだ。公衆の面前で殺人を犯す者は自己顕示慾に囚われている。だが、それを見物して居る人間の殆どが止めに入ったりはしない。自分の身が大切だと考えるからである。傍観していたひとびとも、実は何もしないが為に犯罪の片棒を担いでいることには気づかない。
 大昔、水車小屋に押し入った山賊の一味は、主人を殺し、妻と女中を強姦した。そして、死んだ夫の腹の上に乗せた卵焼きを喰えと女房に命じたのである。
 絞首執行人のハンス・シュミットはこのような凶悪犯罪者を幾人も幾人も取り扱った。呆れ、飽きるほどに。
 チョーチラという町で、スクール・バスを乗っ取った男がいた。乗っていたのは二十六人の児童とひとりの運転手だった。彼は、運転手に百六十キロ先の地下牢に這入れと命じた。そのマデーラ郡の他の小さな町に復讐するのが目的だった。
 『ダーティ・ハリー』という映画の犯罪者も、同じように黄色いスクールバスを乗っ取り、怯えて泣き出す子供たちに、無理矢理歌を唄わせていた。狂気の沙汰である。しかも、これは実際に起こったかも知れない出来事だった。
 いまだ犯人の捕まらない「ゾディアック連続殺人事件」の犯罪予告をもとに、この映画は作られたのだ。しかし、犯人は予告したこの「スクールバス乗っ取り」を、実行には移さなかった。
 この実際に起きた「ゾディアック連続殺人事件」は未解決のままで、それを新聞社に勤める風刺漫画家がたったひとりで真相を突き止めようとする、という映画も公開された。
 映画の中で、既に警察でも真剣に取り組む関係者はひとりだけ、マスコミも過去の事件として取り沙汰しなくなっていた頃に公開された犯罪アクション映画『ダーティー・ハリー』を、恰度担当の刑事とその事件にとりつかれた風刺漫画家が観にゆくシーンがある。
 ふたりともこんなくだらない映画で何が判るものか、といった感想を虚しく抱いて帰ってゆく。この事件は、「ゾディアック」と名乗る者が手を下したのは最初の二件だけで、後は「コピーキャット」、模倣犯の仕業とも云われている。

 正常と異常の境目など誰にも判らない。紙一重という言葉があるが、まさに薄皮一枚の心理なのだ。
 サルトルが「魔術的思考」と表現したが、そんな言葉など及びもつかない処で物事は展開しているのだ。沙漠で傘を持ったアラブ人が、別のアラブ人に「これには魔力がある、雨が降って慾しい時は此れを持たずに出掛けるのだ」という古いジョークがある。
 慾しいものがある時は必要なものを手にしない、そんな裏返しの世界なのだ。
 四国の巡礼には順番がある。それを逆に廻るのを裏打ちという。ひとには云えない頼みごとや、恨みを持った人間が密かに祈る。どうかわたしの希いを叶えて下さいと。お百度参りというのもある。執念深く祈れば望みが叶うと思っているうちは罪がない。
 だが、大量殺人を犯した人間の殆どが、脳に異常があるとは確認されていない。脳味噌がどういう器官であるのかまだ医学的に正確には解明されていないからだ。
 ビッグ・バンが起きてこの宇宙が出来たという仮説があるが、その前は何が在ったのか。広がり続ける宇宙の外側に何が在るのか。何もない「無」という状態を、人間は観念的にしか捉えることが出来ない。
 犯罪はそういった空白の中で行われるのかも知れない。

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「こいつが死んだのは自業自得だ。おまえがなんだかんだ考える必要はない」
「そうだよね。こんな奴、死んで当たり前だよね」
「もう、おまえは解放されたんだ」
「うん」
「なんか、どろどろだな」
「血塗れなんだよ」
「糞の塊りみたいだ……」

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 人間という動物は抑止力が利かないから、道徳やら法律やらが存在する。
 サミュエル・ヨーケルソンとスタントン・セームナウは、常習犯の多くは貧乏人ではない、彼らは「責任の廻避者」であると述べた。この言葉は、被害者からしてみれば、部外者の戯言としか受け取れないだろう。
 或る実験で、猫の聴覚神経にオシロスコープを接続し、ベルが鳴ると反応する様にした。ところが、鼠を入れた籠を入れてもベルを鳴らしても針は動かなかった。猫は事象を感じることを体全体で拒否したのである。犬ならばこういう結果は出なかったのかも知れない。前例に「パブロフの犬」なる実験結果があるくらいだ。この言葉は、条件反射でありもしないものを直結的に連想して涎を流す、知能の劣った者を指す言葉として使われることもある。
 犯罪者も、脳の何処かで自分のしている行動を認識しないよう遮断しているのだろうか。誰にでも発作的衝動に駆られて怒りを向けた相手を殺したくなる時があるだろうが、その感情を遮蔽するスイッチが脳に備わっているのだろうか。実行に移す人間は、遮蔽スイッチが機能しなくなって仕舞うのだろうか。
 「矢羽根職人が矢を引き締めるが如く、賢しき人間は心を引き締める」と仏陀は云ったが、それが出来る者は少ない。犯罪に限らずとも、慾するものを他を排してでも手に入れようとするのが生き物の本能なのだ。
 「反抗的な人間」であったチャールズ・マンソンは、「舎弟たちは兄弟愛からひとの命を手に掛けた」と法廷で述べた。それは真実だったのかも知れないが、彼らに人生を狂わせられた犠牲者は兄弟愛もへったくれもない、と思ったであろう。

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 ミヅが惹きつけ、ケイタが襲う。彼女は指をさして笑った。彼は誇らしいような気分がした。そして走って逃げる。新市の警官に捕まらない様に、手を繋いで、笑いながら逃げる。安全地帯まで。
 彼らを守る名前のない町へ。
 ケイタは全色盲で、血の色が判らない。黒いものが流れるとしか認識出来なかったのだ。だから血など怖くなかった。自分にも黒い液体が流れているのだろうか、と時々思う。ミヅにも流れているのだろうか。
 黒い髪に、黒い瞳に、黒い血。
 白い肌。繋いだ白い手。灰色の唇。黒い空。灰色の空。白い月。彼女が吐く、白い息。
 白と黒の世界。
 彼はミヅに訊いたことがあった。
「血って、どんな色だ」
「血は赤に決まってんじゃん。……ああ、そうか。赤ってのはねえ、熱い色」
 ミヅはそう答えた。熱い色か、と彼は呟いた。真夏のように暑いのか、熱した鉄板のように熱いのか。
 ストーブの上で薬缶がしゅんしゅん音を立てている。円筒形のストーブの窓からちろちろ揺れる炎が見えたが、あれは赤じゃない、と彼は思った。ミヅは暖かい。でも赤くはない——白い肌に、少し濃い灰色の唇、口の中で柔軟に動く灰色の舌。自分でも何故だか判らないくらい、ケイタは彼女のことが好きだった。
 血の色がなんだって構わない。
 暖かい、あたたかい彼女の内に這入ってゆくのが好きだった。彼女の声が好きだった。色の答えを教えてくれる彼女が好きだった。
 彼女は煉瓦造りの道へ行き、屋台の準備をする。彼は町から一番近い新市のスーパーマーケットへ行く。
 スーパーマーケットからお好み焼きの材料を盗むのは簡単だった。真っ当な客が来る店内とは違って、旧市の建物とさして変わらない倉庫のような搬入口に潜み、まだ店頭に並べられていいない商品を黙って頂戴してくるだけなのだ。それをカブの荷台に括りつけミヅの処へ戻る。
 お好み焼きの材料は、ポリタンクに詰めた水、段ボールに入ったお好み焼き粉、キャベツ、玉子、豚の細切れ肉、ソース。
 ミヅは、昨日の残りのキャベツを刻んでいた。大きなプラスチックのボールは山盛りだった。彼女の作るお好み焼きは結構評判が良かった。安かったし、味も悪くなかった。時々こそこそとやって来る新市のひとびとも買っていった。
 冬にはふたりとも首巻きをぐるぐる巻きにして、重ね着をしまくって、屋台に立った。首巻きは殺した奴から死ぬ前に取り上げたものだった。ミヅのは太い毛糸で編まれており、いろんな色が混じっていた。ケイタにはそれがどんな名前の色なのか判らない——灰色と白と黒、それだけだった。
「ミヅちゃん、出来立てのひとつおくれよ」
 白い息を吐きながら若い男が云った。旧市の人間だが、ミヅは名前を知らなかった。お好み焼きを頬張り乍ら彼は去っていった。
 けれども、隠された苛立ちは何処迄も続く。
 それは、誰の心の中にも潜んでいるのだ。

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「このトランプみたいなプラスチックのカード、なんなの? どいつもこいつも後生大事に持っててさ」
「ただの塵芥だよ、こいつらはプラスチックのもんが好きなんだ。棄てちまいな」
「馬鹿みたい。この男も、この女も、ばかみたいなかっこしてる」
「馬鹿だからだよ」

参考資料=コリン・ウィルソン著『現代殺人百科』

註)現代の医学では「色盲」という言葉は使わず、「色覚異常」と表現する。先天性色覚異常の治療は不可能である。遺伝的なものだと、隔世遺伝の場合が多く、先天性、後天性のどちらにしても、男性に発症する確率が高い。この文章の中に出て来る「ケイタ」は全色盲という設定にしてあるが(視覚が白と黒しか感知しない、という展開にする為)、人間に於いてはごく稀にしか発症しない。

(2017年 某月)

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