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死びととともに

彼女の歩みはぼくより遅い。
時々、苛々して、置いてきぼりにする振りをした。

そんなことをすれば彼女が発狂寸前になって、
ちいさくほそい目を、眦りが切れんばかりに大きく見開き、
口許は今にも叫びだしそうな形になり、
迷子になった童女のようにきょろきょろと忙しなく辺りを見遣って、
泣き出しそうになるのが判っているのに、
嗜虐的な気分を刺激され、
ぼくはその様子を離れたところから眺めるのだった。

そうして或る時、戯れに、本当に置いてきぼりにした。

彼女は、子供のように泣いてないて、しゃくり上げ、
洟水を垂らして靴の踵を引き摺り乍ら、
うろうろぼやぼやと歩き、
ひとびとはそんな彼女を遠巻きに眺め、
指をさし、ひそひそと話している。
そんな様子に気づきもせず、
彼女は肘を上げ、拳で涙を拭い、
おいおいと泣きながら歩いてゆく。

いい年をした女が、子供のように泣いているのだ。
洟水を垂らし、えずくような声をあげながら、とぼとぼ歩いているのだ。
奇妙な、不審な者を見るような態度は当たり前であろう。
ひとびとの反応は、それで正しかった。

悪かったのはぼくなのだ。

それ以来、彼女は外へ出るのを怖がった。
仕方あるまい。
ぼくは彼女の気持ちを考えず、鬼のような仕打ちをした。
それは重々、判っている。

ぼくのしたことは、途方もなく彼女を疵つけ、その心を苛んだ。

何故そんなことをしてしまったのか、と悔やんでも、
今更遅くて、
面白半分だったと云うのは尚更、不謹慎で、
だからと謂って外を怖がる彼女を置いてゆく訳にもいかず、
ぼくらは無人島に住むふたりきりの人間のように、
粗末な狭い部屋の中、身を寄せ合って床に座り込んでいた。

彼女の裡にある殆どすべてを、ぼくは完膚なき迄に叩きのめし、打ち壊した。

それは殺人と同じくらいの、罪深い仕業だった。

彼女の目は空ろにさまよい、もう、ぼくを視ることもない。
灰色に濁った瞳には、何も映っていない。
彼女が受容するすべてを遮断したのはぼくなのだ。

恐ろしいのは、その空隙。
ぼくを責め苛む、彼女のその空隙だった。

2015,04.

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