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猫日誌 其の捌

 人生の壮年期に当たる四十代も終わり、とうとう五十才になった。中年と老年の境目になるのであろうか。気分的には既に爺いである。もともと若々しい部分が少なかった。少ないものがどんどん目減りして、今では若さなど欠片もない。
 若さがないのに、若者相手にロックをやっている。まあ、観客は三十代が多いのだが。
 バンドなどと謂う浮ついたことをやっていても、職場では部長である。そんな柄ではないのだが、名刺の肩書きはそうなっている。やっていることは転属されてから変わっていない。図書センターと謂う施設に所蔵される作品の認可管理、そこに収容する作品の提供者に会ったりデータソフトの企画をしたりしている。
 忙しく働いているが、家庭と趣味を疎かにはしない素晴らしき人間なのだ。自分で云って何うする。誰も云わないから自分で云うのだ。悪いか。
 家庭には妻と猫が居る。妻はひとりだが、猫は五匹居る。一般的な家に比べて、大所帯である。これだけの家族を養っているのだ。自分で自分を褒めて何が悪い。誰も褒めてくれないんですもの、いいじゃないの。
 持ち家なので家賃が要らないし、税金も安い。譲り受ける際の手続きは、親がすべてやってくれた。相続税も贈与税も払っていない。とーちゃん、かーちゃん、蟻が蝶。あなた方に足を向けて寝たことはありません。ちゃんと方位磁針で調べました。
 猫は雄が三匹、雌が二匹、妻は女である。当たり前の話だが。今のところ、男が優勢である。だから何うと謂うことはないが。
 妻と結婚したのは三十七の時なので、十三年になる。一緒に暮らしだしてからだと二十八年。会ってからだと、なんと三十二年にもなる。もう、歴史と云ってもいい。子供がおぎゃーと生まれてから大人になって、そのまた子供が生まれるくらいの年月である。
 それだけ一緒に居ても厭きないのが、我ながら凄いと思う。何故飽きないかと云えば、やはり相手が興味深いからであろう。自分と感覚がかなり違うので、物事に対する反応や考え方が面白く感じられる。面白いと謂っても、馬鹿にしている訳ではない。
 尊敬しておりますとも、ええ。こんなわたしにつき合って下さるだけでも感謝感激雨霰でござります。何か贈るべきだろうか。なんとか婚式と謂うのは何年目だ? 別に節目でなくとも、感謝の気持ちはいつ表してもよかろう。
 しかし、わたしは贈りものと謂うのをまともにしたことがない。ひとの家を訪問する際は手土産を下げてゆくし、会社員なので中元歳暮も出す。が、誰かの誕生日に何かを贈ったことはない。わたし自身も誰かから特別なものを贈られたことがないような気がする。
 と謂うのも、わたしの家はそういった祝い事を一切しなかったのだ。正月だろうが大晦日だろうが誕生日だろうが、何もしない。それをそのまま受け継いでいるので、妻とも何もしない。これは女性にとってはつまらない伝統かも知れない。
 とは云っても、妻に何も買ったことがないと謂う訳ではない。屢々服やら鞄やら買っている。入籍した時も指輪を買った。わたしはそんなものをしたくなかったのだが、妻がお揃いのものを装着したいと申すので嵌めている。それまで腕時計すら嵌めたことがなかったので、非常に鬱陶しかった。
 ギターを弾く際に、そう謂った装飾品は邪魔になるのだ。特に腕時計はもの凄く邪魔だと思う。したことがないので断言は出来ないが、髪を縛るゴムを手首にしているだけで邪魔くさく感じるのだから、それよりも重量のあるものをつけていたら相当鬱陶しいと思われる。
 しかしわたしは、その指輪を外したことがない。外したいのは山々なれど、彼女の気持ちを考えると、外すのは非道に過ぎる。そして、こんなにずっと嵌めていると、いい加減慣れてきて気にもならなくなる。
 それにしても、金属を恒常的に身につけていて大丈夫なのだろうか。金なら体に良さそうな気がするものの、白金である。何うなのだろう。なんとかイオンとか、プラチナパワーとかがあるのだろうか。
 まあ、そんなことは何うでもいい。
 妻に何かを贈られたことはあるだろうか、と考えて、つい思い出し笑いして仕舞った。
 彼女がわたしにはじめてくれたものは、菓子折りだった。何処かへ旅行した土産でもなければ、わたしの家を訪れた際でもない。彼女が揉め事に巻き込まれているのを助けた「お礼」だった。妻としても、こんな野郎に何をくれてやれば喜ぶのか判らなくて悩んだのだそうである。
 なにしろわたしはロックバンドをやっている人間には珍しく、指輪もしなけりゃネックレスもピアスもしない。服装もいい加減で、靴もスニーカーしか履いたことがなかった。特別親しかった訳ではないので、身の廻りのものから判断するしかなく、その身の廻りのものがお粗末過ぎたのだ。
 これはわたしの知り合いのバンドマンにも共通していることで、頓狂な身装をしている者はひとりも居ない。云わなければバンドをやっているとは思えない奴らばかりである。バイクを乗り廻すような者でも、革ジャンを着ることもなく、ブーツも履かない。バイクに乗る時はそう謂ったものを身につけた方がいいような気もするが、どうも革製品が好きではないらしい。
 わたしも主義主張がある訳ではないが、革製品は財布とベルトと、通勤する時の靴だけである。
 会社勤めをしていると、服に金が掛かる。稼いでいるのに、出て行く金も多い。本社に勤務する前は服装が自由だったので、安上がりであった。転勤する際、背広から靴から買い揃えねばならなかったので、うんざりするほど金が出て行った。
 一応、役職についているので粗末な背広は着られない。服に関して疎いので、そう謂ったものはすべて妻に選んでもらっている。もう、ワイシャツからネクタイから靴下に至るまで任せている。ただ、わたしは標準より痩せているので、背広は直してもらわねばならない。注文服など買えるかい。
 猫がものをくれたこともあった。何をくれたのかと云うと、塵紙とか蟲の屍骸とか、或る時はかみさんの下着を持ってきたこともあった。手に携えてくるのではなく、口に咥えてくる。たいてい地べたに座り込んでギターを弾いている時なのだが、サンタクロースの如く、枕元にゴキブリが置かれていたこともあった。
 贈りものではなくて厭がらせであろうか。
 わたしが彼らに贈ることが出来るのは、愛情くらいである。それなら只だ。いや、金銭の問題ではない。ものにそれほど価値があるとは思えないので、愛情と謂う形のないものを持ち出したが、それより尊いものはないのではなかろうか。しかも、尽きることがない。
 と思う。

      +

 そんなわたしの五十才を祝ってか、家族が増えた。
 子供が生まれた訳ではなく、庭で仔猫を見つけたのである。春先のことで、いつも庭の樹に登って遊んでいた白猫の子供らしい。気がついて観察していたら、どうも親が世話をしていないようなのだ。世話をしていないと謂うか、来なくなった。
 仕方がないので餌を置いておいた。まだ子供なので、わざわざ缶詰を買ってきて、流動食のようにして設置した。我が家の猫には固形の餌をやってる。安いからだ。それに、固形のものの方が栄養価が高く、歯にもいい。
 云い訳ではない。
 仔猫は四匹で、わたしが庭に出て行くと寄ってくるようになった。基本的に全員白いのだが、尻尾だけ雉子虎のもの、ぶちのもの、純白のもの、頭の天辺にちょんと点があるものと、バラエティに富んでいる。慣れてきたところで名前をつけた。
 しっぽ、ぶち、タマ、テン。誰にどの名前をつけたかは、だいたい判るのではなかろうか。
 何う考えても母猫は帰って来ないだろう、と思った時点で、彼女ら(全員雌だった)が家族になることは決定した。もう、こうなったら自棄糞である。五匹が九匹になったぜ。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ。掛かりつけの獣医も呆れ果てていた。
 妻は喜んでくれたので、いいではないか。わたしだけが阿呆なのではない。家族全員馬鹿なのだ。それでいいのだ。柳の上に猫が居る、だから、猫柳。頭がうろってきた。
 ほっといてくれ。
 これで我が家の勢力地図は塗り替えられ、男が劣勢になった。ゴンタは人間年齢にすると百才を超すおじいさん。目も殆ど見えず、歯も弱ったので流動食に近いものを喰っている。コメもタンゲも爺いになって、寝てばかりである。わたしも家に居る時は寝ていることが多い。無気力な男たちだ。
 女性陣は年を喰っても元気である。クツシタはおばあさんなので高いところへひらりと跳躍することはなくなったが、マルはよく下駄箱の上に乗っている。四姉妹は以前のクツシタに代わってわたし登りをする。小さいので四匹乗っても重くはない。百人乗っても大丈夫。って、わたしは物置か。
 女に囲まれているからと云って、それが嬉しい訳でもない。相手は獣である。獣のような女なら嬉しく思うかも知れないが、正真正銘の獣では喜べない。いや、可愛いですよ。妻も猫も。
 これだけ居ると、猫の収容所のような状態である。来客は、猫の数を見て先づ驚く。猫たちは人間に慣れているので、お構いなしに齧りついたり膝に乗ったりする。我が家に一番よく来るのは一緒にバンドをやっている牧田俊介だが、彼にやたら懐いているのがマルであった。
 牧田が来ると真っ先に寄って行き、傍から離れない。彼もそうされると可愛く思えるらしく、一度、譲ってくれないかと云ったことがあった。断ったら、意外そうな顔をしていた。たくさん居るからひとりくらい良いだろうと思ったのかも知れない。
 そう謂うものではない。彼らは家族なのだ。自分の兄弟を譲ってくれと云われて、はいどうぞ、と云う人間が何処に居ると謂うのだ。それを云ったら、彼も納得していた。
 うちは近隣のひとびとから「猫屋敷」と呼ばれているらしい。何やら化け猫でも出てきそうである。健全な猫ばかりなので、安心して頂きたい。


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