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おりおりに

 子供の頃から動物は好きだったが、動物が家庭に居るようになったのは、妻の清世と暮らしだして猫を飼ったのがはじめてである。近所の飼い犬やそこらを歩いている猫と話したことはあったものの、深いつき合いはなかったのだ。
 犬や猫と「話す」と謂うのがひとには奇異に思えるらしく、親にこの子は馬鹿なのではなかろうかと心配されていたらしい。そんなことなど知りもしないので、犬猫どころか、昆虫にまで話し掛けていた。
 二、三才の頃だったろうか。夏に庭へ出ると、あちこちに薄茶色の小さな山が出来ていた。周囲の土とは違う、さらさらで細かい粒状になっており、天辺に穴が穿いている。その穴から黒い蟻が出入りしていて、出てゆく蟻は何も持っておらず、帰る蟻は何かしらか咥えていた。
 よく見ると、巣穴の中から粒にした土を外へ出している蟻も居た。
 外へ隊列を作って出てゆく蟻のあとを追ってみたら、蟬の屍骸が転がっていた。彼らは蟬を分解して、その破片を巣穴に運んでいたのだ。面白いもので、そこまでの道筋を誰ひとりとして外れない。誰かが号令をかけている訳でもなく、粛々と進んで行った。
 或る日、目を覚ますと、外は土砂降りだった。庭を見ると大きな水たまりのようになっている。慌てて外に出て、蟻たちの様子を見た。
 巣穴の周囲の盛り土は雨に濡れて濃い色になっていたが、形は変わっていなかった。しかし、蟻の姿は陰も形もない。死んでしまったのだろうか、穴の中が水浸しになってしまったのかも知れない、と不安になった。
 父の大きな蝙蝠傘をさして、いつまでもそこにしゃがんでいたら、母がわたしの襟首を摑んで家の裡に連れ戻した。こっぴどく叱られた上に、風邪を引いた。
 風邪が治ってから庭に出ると、蟻は何事もなかったように動き廻っていた。
 こんな薄ら馬鹿でも人間関係は良好で、友人にも恵まれた。女にも能く話し掛けられたが、つき合ったのは妻以外だと、高校時代のクラスメイトだけである。彼女とは一年半くらい交際したが、卒業式の日に振られてしまった。その衝撃の所為か、半年ほどで顔も名前も忘れ去った。申し訳ないとしか云いようがない。
 サークルの合宿で長野へ行ったことがある。酒を振る舞われ、皆で雑魚寝した。が、夜中に違和感を覚えて目を開けると、誰かが横に居る。横に居ると謂うか、覆い被さるようにしていた。はて幽霊か妖怪か、と思ったら、女ばかりのバンドでドラムを担当している者だった。
 牧田と間違えているのではないかと思って隣を見たら居ない。この非常時に何処へ行っているのだ。便所ではなく、女の処へしけこんでいたりしたら絞め殺してやる。と思いつつ、自分は木下亮二だが、君は何か間違えていないか、と云ったら、間違えていないと答えた。何をしているのだと訊ねたら、そんなことも判らないのかと呆れられた。
 そこまで云われて判らないほどの野暮天ではないので、彼女の手を引いて外へ出た。
 地べたに腰を降ろし、適当に持ってきたアコースティックギターで、リクエストされる曲を弾いてやった。眠かったが致し方ない。弾かなければキスをすると脅しやがるのだ。別に減るもんじゃなし、どちらかと云えば難有い話ではあるが、好きでもない女と、こんな状況で致したくはない。
 夜が明けるまで宿泊所の犬走りに座り込んで、請われるままギターで弾き語りをしていた。この精神的苦痛に見合うだけの金を払ってくれまいか、と思った若き日のわたしである。
 それに近いことは何度かあったが、すれすれのところですべて躱した。長野の件以外、既に清世とつき合っていたので、そんな女の相手などする気になる訳がない。「すれすれ」まで行って仕舞うのは、わたしが鈍いからであろう。気がつくとそう謂う状況になっていた。
 おれに近づくな、この淫乱が、と云いたいのを堪えて、穏やかにやんわりとお断りするのは、非常に疲れる。
 清世は実に控えめな性格をしているので、自分から何かをしたことはない。せいぜいわたしの腕を取るくらいである。それも、しっかり触るのが汚いとでも思っているような仕草なのだ。腕を組みたいのか組みたくないのかどっちなんだ、と訊ねると、漸くおずおずと腕を絡めてきた。此処まで奥ゆかしいと、男女関係に積極的ではないわたくしと雖も、強引に組み伏せ威丈高に脅してみたくなる。
 当然、斯様なことは致さないが。
 彼女と連れ立って動物園へ行ったことがある。うちの親はそう謂った処へわたしを連れてゆくことがなかった。子供心が判らない訳ではなかろうが、それよりも救世軍のバザーや慈善コンサートの方が好ましいと思っていたのであろう。ひとの感覚はそれぞれである。
 で、動物園に足を踏み入れて先づ思ったのは、「臭い」と謂うことであった。獣臭もさることながら、排泄物の臭いがもの凄かった。しかし、嗅覚はすぐ馬鹿になる。なるが、風が吹いたり別の臭いがすると元に戻ってしまうのか、また感じるようになる。
 悪臭と戦いながら見た動物たちは、滑稽で哀れだった。
 百獣の王ライオンは不貞腐れて伸びていた。精悍で美しい黒豹は、神経症患者のように檻の中を同じ動きでうろつき廻っていた。穴熊は何を考えているのか、仰向けに寝転がって自分の左手首を右手で摑み、左の手のひらをずっと舐めていた。
 動物園に行ったと謂うよりは、精神病院を訪れた気がした。
 しかし、中には泰然自若としている動物も居た。麒麟などは、映像で観る様子と変わらなかった。胡獱や海驢も、悠々と泳いで鰯を喰っては午寝していた。が、二度と行くことはなかった。


 大学時代、学園祭があるとサークルの者らは模擬店を出した。参加していたのは軽音部で、わたしはステージに出る為あまり手伝わなかったが、客引きをすることはあった。お好み焼きやホットドッグなどを売っていたが、美味しいのかと訊ねられても味見をしていないので、判らないまま「旨いよ」と答えていた。詐欺に近い行為である。
 嘘をつくのは好まないが、致し方ない。此方も素人とは謂え、商売である。
 とんでもない嘘をついたのは清世をホテルに連れ込んだ時だけである。自慢出来る話ではないが、「此処で致しますか」とも云えまい。判って下さい。
 ホテルであることを知った彼女は、母親に電話して「木下さんとホテルに泊まるね」と伝えた。頭がくらくらした。恥ずかしさのあまり地中深く潜ろうとしたが、如何せん、地上を遥か外れた高層階である。掘っても下の階へ「こんにちは」だ。
 彼女に申し訳ない気がして帰ろうかと云ったら、市内でホテルに泊まったことなどないから面白いと、わたしより先に部屋へ這入っていった。何をされるか判っていなかったのだろうか。
 ふたりとも親元に居たので、わたしがひとり暮らしを始めるまではその「面白いこと」を何度もしたのだが、所謂ラブホテルには一度も行かなかった。そうした施設はすべてに於いて如何わしく、自分は兎も角、彼女を連れ込む訳にはいかないと思ったのだ。
 ビジネスホテルも顔を覚えられたくなかったので常宿とする訳にはいかず、市内の手頃なホテルの殆どを利用したのではなかろうか。
 これが役に立ったのは、就職してからだった。
 他所から出張してくるひとに宿泊場所を訊かれると、適当なビジネスホテルを幾つかすぐに挙げることが出来たのだ。しかも近隣の安い居酒屋や、コンビニエンス・ストアーの位置まで懇切丁寧に教えた。
 難有がられたが、同僚(ではあるが、先輩)の草村紘に「随分詳しいねえ」と感心され、あらかじめ調べておきました、と嘘八百を答えておいた。真面目な彼に何で利用して熟知しているかは、さすがのわたしも口に出せなかった。
 最初に利用したホテルが就職先と同じ系列会社の経営だと知った時は、妙に腹が立った。当時の社長とはかなり親しかったのだが、あのひとのお膝元であのようなことをしたのかと思うと、恥ずかしさよりむかつきが先に立ったのだ。そもそもひとに恥ずべきことなどやってはいない。しかも、何処より高かった。
 金持ちの癖して貧乏人から搾取するな。
 その時の社長は、自分の経営するホテルの最上階を改装して住んでいた。そこへ行ったことはないが、後で同じ部屋に住むことになった山田一要に聞いたところ、最低限の家具しかなく、簡素なものらしい。が、生活はすべてホテルのサービスを享受していると本人の口から聞いていた。庶民を馬鹿にしているのかと腹立たしく思ったものである。
 社長の実家には、兄貴の方に招かれて何度も行ったことがある。阿呆のように立派な家で、個人の邸宅と謂うよりは、記念館か寺院のようだった。広大な庭には池があり、橋が掛かっていた。生活する場所ではない。あまつさえ、使用人まで居た。
 動物は飼っていなかったが、動物に近い息子が居た。喧しく騒がしく、落ち着きのない子供で、ひとりで十人分くらいの存在感があった。動物が居たならば、圧倒されて脱走したであろう。その前に殺されていたかも知れない。本人に殺意がなくとも、弄り廻しているうちに死に至らしめたに違いない。
 わたしたち夫婦は子供に恵まれなかったが、その代わりとばかりに猫がたくさん居る。子だくさんならぬ、猫だくさんである。きっかけは、弟分だった関広太が拾った猫を寄越したことからはじまる。
 それから、わたしについてきた黒猫、清世が拾ってきた足先だけ黒い白猫、獣医から引き取った毛足の長い黒猫、いつの間にか米袋の上に座っていた猫、道端に喰い過ぎで行き仆れていた猫、庭で母猫に棄てられていた仔猫たち。一体何れだけ飼えばいいのかと、自問自答する。
 好きで此処まで増やした訳ではないのだが、向こうが寄ってくる。寄ってくる者は拒めない。知人の遊木谷左人志と謂う男が、
「木下君は来る者拒まず、去る者は追わずちゅう感じじゃけぇど、今時のもんは、来る者は利用して去る者は追いかけるで。相手のことなん、ひとつも考えん。君は何かと古くさい考え方しょおるけど、まーちょっと狡く立ち廻ることも覚えなあかんよ」
 と云った。
 慥かに来る者を拒んだことはないし、去る者を追いかけたこともない。ひとにもものにも執着心があまりないのだろう。失くして惜しいと思えるのは、恐らく妻とバンドのメンバーくらいである。視力を失った時、周囲の者は同情し、心配もしたが、そこまで辛いことだとは思わなかった。わたしにとって、なくても済ませられるもののひとつでしかなかった。
 人間の感覚は杓子定規で計れるものではない。無くても困らないものや必要不可欠なものに囲まれていると、理解するのはそれが無くなってからだろうが、それに気づくのは悪いことではない。
 実質的な感覚を失うのは恐いことではないが、周囲の人間が居なくなるのは悲しい。
 清世や友人がわたしから去って行ったら、譬えようのない喪失感に襲われるであろう。猫と謂えども同じことである。これまで四匹の猫が手許から居なくなったが、どの場合も悲しみに暮れた。涙を流すことはなかったが、それで悲しみの度合いが計れるものでもない。
 最近、夢をよく見るようになった。以前も見ていたのだろうが、目覚めてすぐは兎も角、起きて何かしているうちに忘れてしまっていた。この頃は脳が視覚に依る刺激に飢えているのか、夢で見た情景をいつまでも記憶している。
 夢の世界は、失った視界を懐かしむかのように、美しい色と光に彩られている。時々は、匂いすらする。一度、香り高い白い花がたくさん咲く場所にひとりで佇んでいる夢を視た。起きてからすぐ、清世にその様子を詳しく話すと、その花は山梔子ではないかと云った。山梔子の花を見たことがあったろうか、と考えていたら、彼女がうちの庭に生えていますよ、と微笑んだ。
 見えもしないのに「微笑んだ」と謂うのはおかしく思われるだろうが、話す口調でそれが察せられる。彼女は、常に微笑んでいるようだった。
 清世の言葉でやっと思い出した。彼女の母親は庭弄りが好きだったようで、花壇などがこさえてあり、その脇に緑の濃い葉を茂らせた低木があった。夏のはじめ頃に肉厚の白い花弁を開き、強い香りがした。昆虫の蛹のような実は、染料になる。濃厚な香りは兎も角、花の佇まいは清世に似ているような気がした。
 今ではもう何も見えなくなってしまったが、そうやって記憶が意識の中へ沈んでゆくと、夢の中へ現れる。
 これまで多くのものを見て、聞いて、体験した。これからはそれらを取り出しては愉しめばいいのではないかと思う。これ以上、何も要らない。

    + 

「誰だ」
「あたし」
「……おまえか。寝床間違えたのか」
「違うよ」
「おれが木下だって判ってんのか」
「判ってるよ」
「牧田は隣だよ。今、居ないけど」
「牧田君に用はない」
「おれになんの用だ」
「云わなきゃ判んないの」
「判らんことはないけど、こんなひとが大勢居る処で何しろって云うんだよ」
「出来ないか」
「当たり前だろ、俎板ショーでもやりたいのか」
「んな訳ないじゃん」
「じゃあ、何がしたいんだ」
「んーと、特別なこと」
「そんな曖昧な云い方で判る訳ねえだろうが」
「普通、察してくれるよ。ってか、この状況で判らないなんてあり得ない」
「判りたくない」
「潔癖症?」
「どんだけ自分本位なんだよ、おれが迷惑してんのが判らんのか」
「……迷惑なの?」
「冷静になって考えろ。夜這いが許されたのは昔の話で、それを行ったのは概ね男の側だ」
「夜這いって……」
「今現在、おまえがやろうとしてることだ。未遂で収めとけ」
「なんなの、それ。酷すぎない?」
「……取り敢えず、外に出よう」
「外ですんの」
「するか、どあほ」

「ギター持ってきて、何するの」
「これで殴ってやってもいいけどな」
「そんなこと出来ない癖に」
「殴ってくれと云われたらやる」
「云う訳ないでしょ。じゃあ、なんか弾いて」
「ひとのアコギ借りてきたから、音が響くんじゃねえか」
「響くって判ってて、なんで持ってくんのよ」
「持ってると落ち着く」
「ならなんか弾いてよ」
「なに弾きゃいいんだよ」
「うーん、そうだなあ。ベルベッツの『Run Run Run』がいい」
「夜中に弾くような曲じゃねえな」
「演らなきゃキスするよ」
「演るよ、演りゃいいんだろ」

「リョウ君の声、ちょっとルー・リードに似てるね」
「あんな蓄膿症みてえな声してねえよ」
「蓄膿症って。うーん、慥かに鼻に掛かった声してるかな。じゃあねえ、次は……」
「まだ演らせるのか」
「一曲しか弾いてないじゃん。今度はカーペンターズの『青春の輝き』」
「暗闇で輝きもねえだろうが」
「じゃあ、キスする?」
「こんな真面目くさった曲が好きなんて、意外だな」
「先輩が好きだったの。すっごく素敵に弾き語りしてた。リョウ君には無理かなぁ?」
「この野郎、侮りやがって。耳かっぽじって聴いとけ」

「明るい歌じゃないけど、リョウ君が唄うと地獄の暗さだね」
「そう思うなら唄わせるな」
「そこがいい。次は……」
「いい加減にしろ」
「そんなこと云っていいの? インポだって云いふらすよ」
「どうぞリクエストして下さい、お姫様」
「じゃあねえ、T-REXの『The Slider』」
「それは得意かも知れない」
「だと思った」

「英語、結構上手いんだね。いつも日本語ばっかだから、出来ないのかと思った」
「出来ないことはないけど、好きじゃない」
「なんで、リョウ君の唄い方だと英語の方が合ってると思うけど」
「日本人だから日本語で唄った方がいいだろ。意味も能く判るし」
「ロックの歌詞なんて、誰もたいして気にしないよ」
「もう寝ようかな」
「ああ、そう。ちょっとー、木下君が……」
「馬鹿か、おまえ」
「あっさり逃げられると思ったら大間違いだよ」
「幽霊か妖怪の方がまだましじゃねえか」
「なに云ってるの」
「いや、ひとりごと」
「んーと、次は何にしようかな」
「もう勘弁して」
「女に恥かかせた罰だよ。じゃあね、RCの『トランジスタラジオ』」
「やっと自信を持って唄えるのを云ってくれたか」
「清志郎とは声質、まったく違うけど」
「路上で演ってた時は、一曲目が必ず『つ・き・あ・い・た・い』だったんだよ」
「それ唄って女の子引っ掛けてたんだ」
「んなことする訳ねえだろ。女目当てでやってたなら、今頃あんたと寝てるよ」
「そうだよね。リョウ君って、もしかしてゲイ?」
「殺すぞ」
「だって牧田君と異様に仲が良いじゃん」
「異様ではない」
「時々、女言葉になるし」
「そうらしいな」
「らしいって、あれ、わざとじゃないの?」
「意識してない」
「本気のおかまなんだ」
「ほんとに殺して慾しいらしいな」
「みなさーん」
「心を込めて唄わせて頂きます。RCサクセション『トランジスタラジオ』」

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