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街角の吸血鬼

 大切な、たいせつな、幸運の魔力を、接着剤でくっつける、展望。
 「happy charm glue vision」という名の店。
 真夜中の午前二時。 
 カウンター・バーに、スツールが十三。
 不吉な数字?
 いいえ、素敵な数字。
 隅でアコースティックギターを爪弾いて、気怠い曲を弾き語っている男が居る。
 弟が好きそうな、腺病質な青年。
 指差すと、彼は口許だけで幽かに笑った。
 酒を飲み、グラスを干し、皆上機嫌だ。
 上気した顔。
 火照る頬。
 脈打つ心臓。
 そこを流れる、赤い、血。
 着飾った女の子たち。
 ひとりで来る娘は居ない。
 女友達と、男友達と、恋人と。
 信心の欠片もない街。
 神様など忘れたひとびと。
 好都合な話。
 なんて素晴らしい世界。
 誂えたように、わたしたちに寄り添って、隠してくれる。
 カウンターにひとりの女の子。
 バーテンダーと親しげに話している。
 目当ては、彼。
 彼女はひとり。
 彼は仕事に忙しい。
 モスコミュールを傾けている。
 隣のスツールに腰掛ける。
 何気ない振りを装って。
 弟はギターを弾いていた青年に話し掛けている。
 何が起こるか、誰にも判らない。
 誰も知らない。
 女の子はひとり。
 バーテンダーの手が空いて、自分の処へ戻って来て、話し掛けてくれるのを待っている。
 男は馬鹿だから、彼女の気持ちに気づきやしない。
 赤い飲みもの。
 ブラッディ・マリー?
 ロバート・バーンズ?
 ロブ・ロイには赤いチェリーが沈んでいる。
 何がいい?
 そんなものは決まっている。
 赤い赤い、真っ赤な血。
 輸血用の、鮮度の悪いのは要らない。
 迸る、生暖かい、ぬくもりが慾しいだけ。
 ルーマニア。
 トランシルバニア。
 ヴァンパイア。
 そんなものは関係ない。
 わたしたちは病気。
 遺伝体質。
 二十才で生物的な成長活動が止まって、どれくらいの時が経ったのだろう。
 太陽が照らしても燃え上がらない。
 鏡にだって映る。
 十字架など恐くない。
 何故ならば、
 わたしたちは何も信じていない。
 すべてを疑っている。
 いえ、疑ってすらいない。
 何もない。すべては白紙。
 何処にも、何も、
 ない。
 神も、悪魔も、
 はじまりも終わりもない。
 善も悪もない。
 でも、犯罪には夜が似合う。
 溺死した夜の街。
 弛緩したひとびと。
 弓張月の夜空は、街灯りで心許なげにしている。
 星など見えない。
 人工的な灯りが消してしまう。
 悪い想像から生まれた街。
 悪い想像でも思いつかない、わたしたち。
 ゼラチン質の空気を吸って、とろけた慾望に漂う。
 琥珀色の、紫水晶の、孔雀石の灯り。
 滴る血の色の灯り。
 バーテンダーは注文を訊き、赤い飲みものを差し出した。
 女の子は嬉しそうに話し掛ける。
 水に差し入れた手をすり抜ける魚のように、他の客の処へ行ってしまうというのに。
 ギターの生演奏が終わった店内には、静かに古いジャズが流れていた。
 弟は青年とまだ話している。
 煙草を喫っていいかと断ってみる。
 どうぞ、と彼女は微笑んだ。
 ライターは銀。
 銀の弾丸で殺されるのは狼男。
 燃え上がる炎に焼き殺されたのは、冤罪の魔女。
 罪はない、罪はない、罪などない。
 暗幕の向こうで演じられる、道化芝居。
 残虐を好む、人間の本性。
 アルコールの、アカデミックな、アルカディアの、アステロイド。
 ケロイド状の月面に立つ愚か者。
 オパールの中に光る美しい色。
 すべてが同じ時系列に在る。
 歪で、奇妙で、可笑しな世界。
 狂っている。
 善悪の此岸。
 狂気のダンス。
 蝶が舞い飛ぶ夢の裏側に、何が在るのか。
 皮膚の裏の脂。
 外側からは青く見える血管。
 卵の殻の中で静かに死んでゆく雛鳥。
 蜥蜴の煌めく鱗。
 夏の陽ざしに揺らめくフレアースカート。
 くるくる廻すレースの日傘は、凶器。
 じりじりと焼きつく思い。
 火傷をしてしまうほど熱い、バイクのエンジン・タンク。
 バックファイアで覚醒する。
 バーテンダーが此方へ来ないうちに、彼女の気を惹きつけなければ。
 可愛らしい、小さな兎のペンダント。
 細くて、白い、首筋。
 健康的に脈打つ血管。
 グラスを持つわたしの手は、まるでチアノーゼ患者のよう。
 何気ない会話。
 何気ない素振り。
 バーテンダーは彼方側の客と話し込んでいる。
 夢が見える?
 それが何処に在るのか判る?
 それが何処から来るのか知っているの?
 何故、ひとりで来ているのか。
 独占慾。
 ひとりじめにしたい、ひとりよがりな、孤独な慾望。
 彼女は孤独なのだろうか。
 誰も見ていないところで泣いたりするのだろうか。
 花柄の、安物の、化繊のワンピース。
 厭味にならない程度の化粧。
 男に合わせているのか、彼女の好みなのか。
 水底のような溟い店内。
 通低音のように響く、ベースが刻む、ジャズのリズム。
 水槽の中の、ゆらめく魚のようなひとびと。
 影のように揺らいでいる。
 逃げ出す臓器。
 鼓動して、のたうつ心臓。
 喀血する犬。
 脈動を感じる。
 わたしは餓えているのだ。

 清らかな乙女の、ガーネットのような赤い血に。

2010,5,

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