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日記、2023,01,31。

 二日連続で投稿した亮二の話は、以前のブログでも公開しておらず、今回が初公開である。最終稿を書いたのは七、八年前なので、かなり寝かせたと云える。やはり、自分の分身を失くす話を書くのは辛かったし、それを公開するのも時期を選んだ。
 出来れば、自分が死ぬ寸前に公開したかったのだ。
 しかしそれは、かなり難しい。生命的な寿命が尽きる前に、現代の人間は脳味噌の限界が来る。そうなったら判断や思考は疎か、己れの面倒すら見られない。そうなる前に、わたしが創作した人物で一番、思い入れがある亮二の、最期の状況を描いたものを公開しておこうと思った。
『片羽』は、最終稿のひとつ前のものを選択した。最終稿では、江木澤がふたりから疎外されていた、と心情を吐露するくだりがある。しかしそれは、彼の性格にそぐわない気がして、それがない第七稿を採用した。
 亮二が死んだら、恐らく清世は現実逃避をしてしまうだろう、と謂う伏線は、あちこちに忍ばせてある。『片羽の夢』は、完全に清世の妄想の世界で、二十三才の亮二と暮らしていた東地区のアパートで、永遠にふたりが同じ休日の、バンドの練習がたまたまない木曜日を繰り返すのである。
 悲惨な状況かと謂うと、牧田が判断したように、それほどでもないと思う。
 本人が判っていなければ、他人がどう思おうとそれが不当な幸せであろうとも、口を出す必要はない。生活に支障がなければ。清世は日常のことはそつなくこなし、それを変わりなくしているのが問題なのだが、経済的に許されるのならば、すべてをふたり分用意したところで誰にも迷惑を掛けるものでもない。
 友人の少ない清世にとって幸いだったのは、社交的と謂う訳でもなかった旦那がバンドをやっていたことであろう。対人関係を築くのが苦手なひとからすると、バンドマンは滅茶苦茶コミュニケーション能力が高いと思われるだろうが、そんなことはない。
 内に籠る者が多いし、対人関係に問題を抱える者も多い。そもそも、家にじっとしていることが好きなので、完全なインドア派である。世間的には所謂「リア充」だと思われているようだが、バンドマンはもしかすると、オタクよりも病んでいるかも知れない。
 オタクは世間の認識とあまりギャップがないであろうが、バンドマンは派手で社交的で、明るくて遊び廻っている、そんなイメージはないだろうか。そんなひとはひと握りくらいだろう。鬱屈したものがなければ、作詞作曲など出来はしない。小説家と同じだ。違いと謂えば、人前でやるかやらないかくらいである。
 亮二は人前で唄うことが嫌いだった。カラオケに行ったことなど一度もないし、阿弥陀籤でボーカルを引き当てた際は、不貞腐れて江木澤に丸めた紙を投げつけ、そのまま帰ってしまったくらいだ。
 楽器を演奏することが、特にギターが大好きなだけの、音楽小僧だったのだ。恐らく死ぬまでそうだったのであろう。ひとの精神は経験を積み重ねて学ぶことはあれど、因からの素質は変わらない。
 好奇心旺盛で想像力が豊かで愛情豊かだった亮二は、多くのひとに愛され、一部のひとに誤解されたまま、人生を全うした。それでいいではないか。

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