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日記、2023,01,08。

 昨年の秋口から初冬に掛けて、かなりの鬱状態に悩まされた。じっとしていることはそんなに苦にならない。風呂(シャワーだが)に入れないのも何時ものことだから気にならない(否、気にはするし、不快でもある)。
 この風呂関係を避ける、或いは面倒と思うことについて、以前調べてみた。そうしたら借金玉と謂う方の『発達障碍サバイバルガイド』に行き着いた。わたしが躁鬱病になった頃は、こんな病気はなかった(と思う)。単純に積極的ではなく協調性のない落ち着きのない子供、としてあしらわれていた筈だ。
 この方の苦しんでいることのすべてに合致する訳ではないが、かなり当て嵌まるところがあり、目から鱗が落ちるようだった。
 躁鬱は二次障碍だったのだ。
 ただ、それが判明したところで如何なるものでもない。ああ、そうか、と思うだけである。他人に打ち明けたとしても、「だからどうしろと?」と返されるだろう。発達障碍は「出来ないこと」「やらかしてしまうこと」に対する免罪符ではないのだ。

 それはさておき、昨年の鬱期には過食嘔吐が酷く、家計を圧迫するほどであった。なにしろ鬱なので家事など出来ない。そして、午前中に動き廻ったりも出来ない。夕方も陽が翳った頃から活動的になるのだ。すると、外出が可能になる。
 で、スーパーで惣菜を買ってきて、焼酎なども手にし、晩飯にする。これが弁当ならそこまで金は掛からないだろうが、わたしは白い飯が子供の頃から苦手なのである。
 子供の頃の偏食振りは、よく大きな病気もせず育ったものだと思えるくらいで、白い飯も野菜も肉も嫌いだった。そして子供なので嫌なものは口にしない。しかも甘いものすら苦手だったのだ。親戚の伯母に「この子は霞でも喰っとるんかね」と云われたほど、好き嫌いが激しかった。
 今ではゲテモノと思われるような食材でも一応、食べてみるし、白い飯を美味しく思えなかったのは日本人特有の「追いおかず」をしていなかったことが(元)連れ合いと知り合って判明した。
 わたしは口の中のものを完全に咀嚼し、嚥下してから次の食べ物を口に入れていたのだ。連れ合いに云わせると、
「そんな飯だけ喰ってたら子供の舌が白米を旨いと感じる訳がない。まあ、上品な食べ方ではあるけど」
 と謂うことであった。
 昔の食育では「三角食べ」が推奨され、教室に張り出されてもいた。それを几帳面に遵守しすぎていたのだろう。
 ただ、世界的に見るとこの「追いかけ喰い」はマナー違反と謂うか、汚らしい食べ方に思われることがある。コース料理や会席料理などを体験すると判るだろうが、一品づつ出てきて「ひとつひとつ片付けてゆく」と謂った形式なのだ。お隣の韓国では、白い飯におかずをぶっかけ、徹底的に混ぜくって食すそうな。
 これはつまり、口の裡で混ぜ合わせるなどありえない精神の最もたるところではなかろうか。ところ変わればあれこれ違うものなのである。

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