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母親

 子供が出来た時、棠野さんは戸惑っているようだった。生理が来なくて体調も悪かったので彼に相談したら、病院へ行ってこいと云われ、行ったところ、妊娠していることが判った。八週間目だった。嬉しくて、メールで伝えたくなくて、うずうずして、彼が帰って来るのが待ち遠しかった。
 帰宅した彼に子供が出来たことを伝えたら、一瞬、呆然としていた。嬉しくないのだろうか、と不安になったが、すぐに普通の顔に戻った。飽くまで普通、である。
 その後はわたしの体のことを気遣い、バンドのドラマーである車折さんの奥さんにいろいろ訊ねたりして、浮腫んだ手足を揉んでくれたり、お腹が大きくなって腰が痛くなると、擦ってくれたりした。もともと家事は分担してやっていたのだが、水廻りのことは殆どやってくれるようになった。
 ただ、子供が生まれることに対してはとても慎重で、性別を知りたいかと医者が云っても断っていた。理由を訊ねたら、まだ知りたくないと答えるだけだった。出産の立ち会いも絶対に厭だと云った。父も、男はそんなのは厭がるものだと云っていた。車折さんは立ち会ったと謂うから、もしかすると棠野さんは臆病なのかも知れない。
 子供が生まれても、あまり嬉しそうではなかった。名前を考える時も、実に面倒くさそうにしていた。美穂とつけたのは棠野さんなのだが、あまりにも簡単につけるので、このひとは子供に対する愛情がないのではないかと思ったほどである。
 しかし、それは杞憂だった。
 彼は美穂の面倒を家事と同じようにやってくれて、閑な時はいつも相手をしていた。女の子は何をすれば喜ぶのか判らないと云うので、ぬいぐるみかなんかで遊んであげて下さいと答えたら、兎のぬいぐるみに紐をつけて、引き摺って歩いていた。美穂はそのあとを追いかけて、かなり速いスピードではいはいするようになった。
 それは笑える光景だった。まるでぬいぐるみの市中引き廻しのようである。美穂は少し大きくなると、棠野さんと同じようにぬいぐるみに紐をつけ、引き摺り廻して歩くようになった。おかげでぬいぐるみはすぐに襤褸襤褸になって仕舞う。
 彼がギターを弾いていると、美穂は傍にちょこんと座って聴いていた。或る時、美穂が歌を唄って慾しいとせがんだら、棠野さんはひとこと、「やだね」と返した。冷たい父親も居たものである。
 バンドでボーカルを担当しているのは彼の幼なじみの玲二さんだったし、作曲する時も鼻歌すら唄わない。音痴なのだろうか。
「なんで唄ってあげないんですか」
「唄いたくない」
「いいじゃないですか」
「やだ」
 子供みたいだ。
 仕方がないので、わたしが童謡を唄ってあげた。棠野さんはそれに合わせてギターを弾いてくれたが、美穂は不服そうだった。彼女はとてもお父さん子で、わたしよりも棠野さんと居たがる。彼が出掛けると暫くぐずっていて、宥めるのに苦労するほどだ。


 二年後にふたり目が生まれたが、その時も特に嬉しくなさそうだった。しかし、美穂で慣れているので、子供の扱いは上手い。この子の名前をつけるのも本当に適当で、夏に生まれたから奈津子とした。漢字はそのままじゃない方がいいと思ったので、届け出る時にわたしが考えた。
 美穂が焼きもちを妬くのではないかと思ったが、棠野さんは彼女とふたりで奈津子の面倒を見るようにして、そう謂った感情を回避していた。なかなか上手いことをやるものだ、と感心する。そうした扱いを受けると、美穂にもお姉さんとしての自覚が芽生えてきて、奈津子の面倒を率先して見てくれるようになった。
 どうも棠野さんは、ぬいぐるみには紐を括りつけるものだと思っているらしく、奈津子にもそうしていた。美穂も父親と同じように紐をつけたぬいぐるみで妹の相手をしている。恐らく奈津子もぬいぐるみだろうが人形だろうが、紐で縛って歩き廻るのだろう。江戸時代の刑罰のようだ。
 美穂が幼稚園に上がる時、入園式には何を着てゆけばいいのか訊ねられた。
「そうですね、やっぱりスーツなんじゃないですか」
「おれ、そんな服持ってないよ」
「普段着ている恰好だとカジュアル過ぎると思いますし、これからも必要になるでしょうから新調したらどうですか。これまで結婚式とかに出席する時どうしていたんです」
「車折の時はジーパンにジャケットを羽織って行ったな」
「ネクタイは?」
「して行かなかったなあ」
「じゃあ、結婚式の時がはじめてだったんですか」
「あれもスーツって云うのか」
「スーツですよ」
「結婚衣装だと思ってた」
「そうですけど、服の名称としてはスーツになると思います」
 彼は、そうなんだ、と呟いていた。服装に関心がないと、こんな基本的なことも判らないのだろうか。どんなものを選べばいいのか判らないと云うので、一緒に買いに行った。試着してみたら結構似合っていたのだが、棠野さんは着心地悪そうにしている。美穂が「お父さん、かっこいい」と云ったら、そうか? と頭を掻いていた。
 幼稚園に通うようになった美穂は、ぬいぐるみを紐で括って引き摺り廻すのが一般的な行為ではないと知り、かなりショックを受けていた。
「お父さん、ぬいぐるみって紐で引っ張るんじゃないんだよ。知ってた?」
「へえ、そうなのか。じゃあどうやって遊ぶんだ」
「だっこするの」
「そんだけか」
「そうみたい」
「面白いのか、それ」
「面白くない」
「じゃあ、美穂は引っ張って歩け」
「いいのかな」
「ひとに迷惑かけなきゃ構わねえよ。なんか云われたらほっとけって答えろ」
 どう謂う教育をするつもりなのだろうか。


 ふたりの娘は父親に似たのか、かなりやんちゃだった。車折さんの子供たちはおとなしいので、たまに連れてゆくとふたりとも圧倒されていた。息子の惣一君は美穂より四つ上なのだが、下僕扱いを受けている。車折さんは、おまえの娘はまるでお姫様だな、と苦笑していた。
 そんな扱いを受けているにも拘わらず、惣一君は奈津子が三才になる頃には、何故か我が家に足繁く通うようになった。マゾヒストなのだろうか。
 棠野さんは甘やかす訳ではないが、子供の好きなようにさせて何をしても殆ど怒らない。叱ったりお説教をするのはわたしの役目だった。そうすると、子供たちはますます彼に懐いてゆく。損な役廻りである。父親と謂うものは皆そうなのだろうか。
 幹子さんに訊ねたところ、車折さんも声を荒げて叱ったりすることはないそうである。それは彼らの子供たちがおとなしいからだろう。娘たちは目を離すと悪戯ばかりする。壁にはクレヨンで落書きするし、トイレットペーパーを持って部屋中を駆け廻る。枕投げをしてものを壊す。困ったことに、棠野さんはそれを増長させるようなことを云うのだ。
 楽器に疵をつけても悪戯をしても怒らない。此処まで寛容なひとだとは思わなかった。
 父親と謂うよりは仲間と謂った感じで、だから子供たちも慕うのだろう。わたしはどうしても母親として接するので、煙たがられてしまう。棠野さんはわたしに対しても、つき合っている時は妹か友達のようだったし、結婚してもそれはさほど変わらなかった。以前つき合っていた女性にはどんな態度をとっていたのだろうか。
 精神的に子供と謂う訳ではなかったが、どうも自分を夫や父親の立場に置くことが出来ないようである。
 よく主婦は亭主のことを子供だと云うが、そんな風には思わない。寧ろ棠野さんの方がわたしを子供だと思っているのだろう。彼にとっては、わたしと娘ふたり合わせて、三人の子供の世話をしているような気分でいるのではないだろうか。
 娘たちと一緒にお風呂に入っている声が聞こえてくると、中でかなり滅茶苦茶なことをしている気配が感じられる。上がったあとに見ると、湯が半分以上なくなっている。一体何をしているのだろうか。湯船に浮かべる玩具なども買い与えたが、イルカや魚ではなく、潜水艦や魚雷を慾しがった。この先、女の子らしく育ってくれるのだろうかと心配になる。
 娘たちが大きくなってボーフレンドが出来たらどうするのだろう。紐で縛って引き摺り廻したりするかも知れない。ぬいぐるみじゃあるまいし、さすがにそんなことはしないか。それではSMプレイである。
 棠野さんは、バンド活動も煙草もやめなかったが、そのことに対して後ろめたく思っているようだった。生活に支障がなければ何をしてもいいと思う。棠野さんは一家の主として立派にやっている。ぬいぐるみを引っ張り廻してはいるが。


 奈津子が幼稚園に上がる頃になると、ふたりの暴君ぶりはいや増した。車折さんの息子の惣一君などは、完全に彼女たちの奴隷である。年上なのに惣一と呼び捨てにして(それは美穂の方だけだが)、なんでもやらせる。向こうの両親も呆れ果てていた。注意してもやめないし、棠野さんはいいんじゃないか、と取り合わない。申し訳なくて、穴があったら入りたいほどである。
 こんな彼女たちを制御出来る男の子が、果たして現れるのだろうか。あの車折さんですら、うちの娘たちの対応に手子摺っている。彼にとっては異次元の存在なのだろう。奥さんは非常に奥ゆかしいひとだし、子供たちもおとなしく礼儀正しい。教育がゆき届いている感じである。
 棠野さんの両親に訊ねると、彼も子供の頃は相当やんちゃだったらしく、よく学校から呼び出されたそうだ。大抵それは幼なじみの玲二さん絡みで、彼を守る為に揉め事を起こしていたらしい。まだ幼稚園の時に、玲二さんを苛めた子供たちを叩きのめして、母親が大目玉を喰らったという。
 これから娘たちがどんなことをしでかすかと思うと、考えるだけでどっと疲れてしまう。恐らく棠野さんは、彼女たちが何をしようと笑って躱してゆくのだろう。見習いたいとは思うが、わたしには無理な気がする。悪いことはしないだろうが、傍若無人過ぎた。誰かに相談したいがその相手が思い当たらない。
 ふと、以前彼に連れられてライブを観たバンドのひとを思い出した。ちょっと変わった雰囲気のひとだったが、棠野さんは彼に対して一歩引いたような態度をとっていた。車折さんに訊いてみたら、その木下亮二というひとは以前図書センターに勤務していたが、現在は転勤して上条グループの本社に勤めているとのことである。
 バンドをやっているひとがそんなもの凄い企業に勤めているとは意外だったが、会いにゆくとあっさり面会に応じてくれた。前に見た時と違って、きちっとスーツを着て髪も短くなっていた。背が高く痩せていて、実に冷たい顔つきをしているのだが、気さくなひとだと謂うのは判っている。
 課長職に就いているとのことで、立派な応接室で待っていると、暫くしたらやって来た。
「お忙しいところを申し訳ありません」
「いや、いいよ。棠野の彼女だったよね。あ、結婚したんだな」
「はい、結婚式にお呼びしなくて申し訳ありませんでした」
「呼ばれないのは判ってたからいいよ、玲二君が居るから」
「玲二さんが居ると、どうして駄目なんですか」
「すげえ嫌われてるんだよ。理由は判んねえけど」
 思い出した。そのことは彼とつき合いだしてからはじめてバンドのメンバーと飲んだ時に教えてもらった。玲二さんがこのひとを嫌うのは、「馬鹿だから」と謂うのが理由だった。それを伝える訳にはいかない。なにしろ殆ど知らない相手に子供の相談を持ち掛けようとしているのだ。機嫌を損ねてはならない。
「で、なんの用だったの」
「その、こんなことをご相談するのはおかしいかも知れないんですけど、うちの娘がもの凄くやんちゃで手を焼いているんです」
「はあ、そうなのか。棠野に似たのかな」
「そう思います」
「まあ、子供の扱いは慣れてるから、いっちょ躾けてやるか」
「お子さんがいらっしゃるんですか」
「居ないよ、子供の友達が多いだけ」
 なんだかよく判らなかったが、次の休みの日に来てもらうことにした。棠野さんには云わなかったので、木下さんが訪ねてきた時にはかなり驚いていた。
「木下さん、何しに来たんですか」
「なんだよ、その云い草は。おまえのカミさんに頼まれたんだよ」
「秋子が? なんの為に」
「おれのおふくろと同じ名前なんだよなあ」
「そうなんですか」
「まあ、そう謂うよしみで。子供に手を焼いてるから、なんとかして慾しいんだとさ」
「木下さん、子供居ないじゃないですか」
「扱いに関しては熟練者だ」
 娘たちは物怖じしない性格なので、木下さんにもひと懐っこく寄って行った。彼はふたりに先づ自己紹介をして(フルネームで年齢、職業まで云っていた)、娘たちにも名前と年と何処の幼稚園、小学校に通っているかを云わせた。そして部屋を見渡し、娘たちにやったことを元通りにしろと命令した。彼女たちは戸惑っていたが、はじめて会う大人で、しかも木下さんはちょっと恐い顔立ちをしているからか、おとなしく従った。
「先づ、散らかったもんを片づけろ。足の踏み場もねえだろうが」
 娘たちは「はい」と云って、玩具を箱に入れていった。彼はわたしの耳許で、実はおれも片づけるのがもの凄く苦手なんだけどな、と云った。思わず笑ってしまった。棠野さんが手伝おうとすると、余計なことをするな、と注意していた。わたしでは出来ない。
 片づけ終わると、次は壁の落書きを消すように云った。一度張り替えて、ビニールコーティングのものにしたので、比較的簡単に落ちる。ペンも油性のものではなく、すぐに消えるもので書かせていた。娘たちは手分けして雑巾で壁を拭いていた。その間、ふたりはひとことも喋らなかった。こんなことは今までに一度もない。さすが熟練者と云うだけはある。
 ふたりが雑巾を持って出来たよ、と報告したら、出来ましたと云え、と注意した。木下さんは声が小さいのでさほど恐くないのだが、そんなことを云われたことがないので、娘たちは少し怯えていた。それでもちゃんと「出来ました」と云い直した。
「よし、じゃあ雑巾を片づけてこい」
「木下さん、そんなに厳しくしなくてもいいですよ。まだ子供なんですから」
「子供だからって甘やかしていい訳じゃねえよ。今、躾けておかねえと、あとで悔やむぞ」
 棠野さんは、「はあ、そうですか」と呟いていた。子供たちは部屋に戻ってきて、木下さんの前に並んで立った。まるで兵隊のように直立不動である。
「おれがなんで此処に来たか判るか」
「判んない」
「判りません」
「……判りません」
「おまえらがかーちゃんの云うことちっとも聞かねえから、もうやってけないって泣きついてきたんだよ」
「ほんと、お母さん」
 泣きついた訳ではないのだが、此処でペースを崩してはいけないと思い、そうだと答えた。するとふたりは、わたしの傍に寄ってきてごめんなさいと云った。こんな風に謝ったのははじめてだった。木下さんの教育効果には唖然とするばかりである。
 彼は夕方まで娘たちふたりと遊んでいたが(棠野さんに教えられて紐のついたぬいぐるみを振り廻していた。父親ですらそんな過激なことはしない)、何か云ったりしたりするごとに注意して、帰る頃にはすっかり先生扱いされていた。
 車折さんの息子に対する態度を教えたら、目上の人間になんて扱いをするんだ、と怒っていた。そう謂えば、彼の恋人は実に丁寧な態度だった。しかし彼女は木下さんより三つ年上である。なんとなく言動不一致なひとだと思ったが、一応感謝すべき相手なので黙っていることにした。


 それ以来、ふたりはやんちゃなことには変わりなかったが、手を煩わすようなことはしなくなった。棠野さんは、やる時はちゃんとやらなきゃいけないんだなあ、と感慨深げに云っていた。そう云いつつ、やはり紐のついたぬいぐるみで相手をすることはやめなかった。これが今後、どのように娘たちに影響を与えてゆくのだろうか。やはり、ボーイフレンドを紐で括って連れ歩くようになるのかも知れない。
 車折さんの家に行くと、これまでの娘たちの態度とまったく違うので、驚いてどうしたのかと訊ねてきた。木下さんのことを云うと、さすがだな、と感心していた。彼らにとって、木下さんは一目置く存在らしい。わたしからすると、どうにもいい加減なひとに思えるのだが、これは男と女の感覚の違いなのだろう。
 奈津子は美穂より若干控えめなので、惣一君はそちらを可愛がっているようだった。美穂は彼を下僕扱いしなくなった代わりなのか、妹の由希子ちゃんにぬいぐるみを縛ってぶら下げることを教え込んでいた。そんなことを他所の子供に伝授していいものだろうか。車折さんの方を伺うと、微笑ましそうに眺めているので、かなり耐性がついてきたことが察せられた。
 取り敢えず、いい方向に向かったのは喜ばしいことである。また手に負えなくなったら木下先生に頼めばいい。娘たちも彼のことは嫌っていないようである。なにしろ遊んでいる様子を見たら、子供より子供らしかった。おかげで棠野さんが父親らしく思えてきたほどだ。譬えぬいぐるみを引き廻そうとも。
 何が幸いするか判らない。これからも四人でなんとかやってゆけるだろう。

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