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愛情物語

 食慾の秋と云うが、秋になったからと謂っていきなり食慾が増す訳ではない。これは作物の収穫時期が集中しているのと、涼しくなってくるので夏のように食べるのもしんどい、と謂うことがなくなるからであろう。
 如何せん、わたしはもともと食慾旺盛な方ではないので、年間を通じてあまり食べない。年を喰ったらますます食が細った。それに伴い、あちこち衰えてきた。もう、衰えていないところはない、と謂うくらい衰えまくっている。衰え大王だ。
 キング・オブ・衰弱。国民は息も絶えだえの蚊蜻蛉である。国旗は美しくも果無げな純白だ。国歌は「我が心に日は沈む」。どうだ、明日にも滅びそうだろう。最初から白旗を揚げているのです、だから攻め入らないで下さい。
 そんなくだらないことは置いておいて、食が細い男、と謂うのは、女性からすると頼りなく思われる。こんなざまでは体力に期待出来ないし、いろいろ弱いに違いないと思うのだろう。慥かにわたしはひとに誇れるほどの体力の持ち主ではないし、いろいろ弱いと云われれば、そうかも知れない。恐らく女性の期待に添うことは出来ないだろう。
 何を期待するかに依って違ってくるが。精神面なら幾らでもお応え出来ると思います。
 食べることに対して子供の頃からあまり関心がなかったので、外食する際など、品書きを選ぶのが億劫だった。種類がひとつかふたつにならないのだろうかと思ったものである。それならば何も考える必要はない。ひとつだったら何も云わずとも出してくるだろうし、ふたつなら適当に指をさせば済む。
 昨今は、猫も杓子も美食家になって、旨いものを喰おうと目の色を変えて調べている。まるで喰うことしか考えない餓鬼のようである。料理をするひとも増えているらしい。それはいい傾向だと思う。わたしが若い頃でも料理の出来ない女が結構居た。
 それだけでひとを判断してはいけないが、やはり女性ならば作れる方がいいだろう。妻は料理が下手だった。あまりにも下手すぎて、喰えないほどであった。それでも最初のうちは我慢していた。しかし、我慢にも限界がある。限界を超して、わたしが作るようになった。
 まだ結婚しておらず、襤褸アパートに暮らしていた頃のことである。
 懐かしい思い出だ。わたしも彼女もまだ若かった。二十代と謂ったら、霞の掛かった遠い昔である。それほどに年齢を重ねてしまった。別に年を取ることが厭な訳ではない。なんなら惚けてしまっても構わない。惚けたことは当人には判らないものである。そんな気楽なことはない。
 何も判らなくなったら愉しいとも感じないか。
 大学を卒業して就職してから数ヶ月ほど経って、わたしと妻の清世はともに暮らしだした。アパートで暮らすのはふたりともはじめてである。他人と暮らすのもはじめてで、親元から離れるのもはじめてだった。はじめてづくしで、実に初々しい限りである。年寄りにもそう謂う時代があったのだ。何も最初から爺いなのではない。
 清世と会ったのは大学一年の時で、わたしが十八、彼女は二十一才であった。今からすると、社会にも出ていない子供である。可愛らしいものだ。やることも可愛らしかった。恋人同士と云える間柄になっても、暫くは何もしなかったくらいである。
 何故なのかと問われたならば、そりゃあ、あなた、大切だったからですよと答えるだろう。自分が大切だと思っている女性に、あんなことやこんなことが出来ますか? 結局したんですがね。それも責められることではなかろう。愛するが故のことですから。
 愛と謂う言葉を彼女に云ったことはないが。今後も云わぬであろう。普通、云いますか? 恋人や女房に「愛してる」なんて。云ったとしたら、そのひとは日本人ではないか、恥知らずなのであろう。そんな断定をしてはいけないか。しかし、そう思うのだから仕方がない。
 心の中で思っているのだから、口に出さずともいいではないか。わかって下さい、因幡晃です。すみません、いろいろと。
 清世の料理の腕が上がっていたことが判ったのは、それから十八年後だった。判明するまでわたしが料理を作り続けていた。あまりに長いこと炊事をしていたので、彼女に任せるようになってからも時折作っていた。何うやら趣味になってしまったようである。
 しかし、現在は料理などしない。もともとやらなかったが、他の家事も一切しない。典型的な日本の親父である。親父と云っても子供は居ない。が、猫の「とーちゃん」なので、親父と云っても間違いではなかろう。別に清世が猫と浮気をして産んだ訳ではない。拾った猫である。
 猫は現在七匹おり、それ以外にも金魚と兎を飼っている。兎を飼うことになった時は頭がぐらぐらした。関東大震災級の衝撃があった。ディープ・インパクトである。滑らかになりつつあった脳味噌の皺が、一気に増えたような感覚を覚えた。この年になっても惚けないのはこの所為かしら。清世に感謝するべきであろうか。
 誰がするかい、ぼけ。
 とは云っても、動物は好きだし可愛い。毎日遊んでいる。近所の子供たちとも遊ぶ。愉快な暮らしである。楽しいったらありゃしないぜ。
 自棄糞になっている訳ではない。

 人生の黄昏時に、このようなのんびりした生活を送れるのは幸いである。世の中にはひとり淋しく老後を送り、誰にも知られず死んでゆき、発見された時は腐乱死体か白骨、と謂うひとも居るのに、妻も居れば猫も兎も居る。金魚が頼りになるとは思えないが。
 死んだ時まで周囲に迷惑がれることほど悲しいことはない。しかも腐乱死体だったら、迷惑な上に臭いと思われる。処分するひとたちも、きっと生塵芥のように扱うだろう。生きている時に何れほど美しく、香しい匂いを放っていても、最後がこれでは台無しである。
 今のところ加齢臭を指摘されたことはないし、若い頃も臭いと云われたことはない。香水の類い必要としたこともない。美しいか何うかと申せば、醜いとは悲しすぎて云えないが、美しくはない。男前だと云われたことはあるものの、普通の感覚をしているひとは、面と向かって「おまえはなんと謂う不細工なのだ」とは云わないであろう。
 客観的に見て、自分の姿をいいと思ったことは一度たりとしてない。どちらかと云うと劣等感を抱く部分が多かった。背は高い方だが、痩せすぎていた。実に貧相な体型である。面構えも地味で、典型的な日本人の顔だった。
 だった、と謂うのは、現在何うなっているのか判らないからである。何故なら、目が見えないからだ。年をとってから失明した。これについては特に気にしていない。不自由さにも慣れたし、見たいと思うものもそうない。なにしろ劣等感を抱いていたくらいなので、自分の姿を見たいなどと思う筈もない。
 けれども、妻の顔を見たいと思うことはある。彼女の顔を見ると和むのだ。何れだけ気持ちがささくれ立っていても、その顔を見るだけで気持ちが和らいだ。清世は老いた顔を見られなくてよかったと云うが、皺だらけになってもその印象は変わらないと思う。
 彼女の顔をもう一度拝めるのならば、すべてを擲ってもいい。その一瞬の為に命を落としたとしても、後悔はしないだろう。
 この愛情深さはどうだ。どうだと云われても困るだろうが、自慢したい。自慢出来ることが殆どないので、これくらいは自慢させて慾しい。もし七十才未満の盲人男性、愛妻家コンテストがあったら、わたしは間違いなく優勝する筈だ。ウィー・アー・ザ・チャンピオンならぬ、アイ・アム・ア・チャンピオンである。
 クイーンはいいバンドだったが、フレディー・マーキュリーは気色悪かった。死んだ人間を悪く云ったら地獄に墜ちるな。マゾヒストではないので、地獄の悪鬼に責め立てられたくはない。
 年を喰ったら、知人が亡くなることが多くなった。櫛の歯が零れるように居なくなってゆく。淋しいことではあるが仕方がない。人類全員がいつまでも生きていたら、迷惑が掛かるばかりではなく、世界全体からしても深刻な事態になる。
 わたし自身もそう長くないだろう。それを悲しいことだとは思わない。出来ればさっさとくたばりたいとさえ思う。それでは無責任極まりないので、贅沢をせず、残される者が不自由しないよう貯蓄に励んでいる。
 年金以外の収入がないので微々たるものだが、老人ひとりと動物数匹なら賄えるであろう。足りなかったら借金でもすればいい。どうせ老い先短い身の上である。全額返すこともない筈だ。それ以前に貸してくれないか。
 けちくさい。
 今となっては遺言書の作成は出来ない。誰かに代書してもらってそれが有効なのか判らない。調べようにも調べる手立てがない。妻に調べてもらうことは出来るが、遺言に関して彼女が喜んで調べてくれるとは思えない。
 友人に頼んで調べてもらえばいいか。その場合、清世に通じない人間を選ばねばならない。つらつら考えてみて、そんな人物には思い当たらなかった。わたしと妻は、大抵ふたりひと組で居る為、どのような知り合いにもふたり揃って親しくしているのだ。
 仲が良いのも考えものである。隠しごとが出来ない。そもそも、わたしは隠しごとが苦手なのだ。嘘も下手である。
 非常にしんどい嘘をついたのは、何うしようもならないくらい目が悪くなった時であった。三年ほど清世に隠していたので、日常生活のすべてが嘘と隠しごとになった。これは本当に疲れた。心労で病気になるかと思ったほどである。
 それなら正直に打ち明ければいいではないかと思われるだろうが、これほど大きなことを云うのは、かなり勇気がいる。臆病だと云われればそれまでだが、余計な心配を掛けたくないと謂う気持ちもあった。
 この優しさを責めるような者は、人間の皮を被った鬼である。節分でなくとも豆を撒いて退治してやりたい。豆の中に高性能小型爆弾を仕込んでな。そんな小さな爆弾、あるのだろうか。そもそも爆弾を何うやって手に入れるのだ? Amazonで購入出来るかしら。サインインした途端に指名手配されそうだな。
 閑話休題。
 結果的に云わなかったことが却って彼女を疵つけることになったので後悔したが、過ぎたことは何うにもならない。それ以外で妻に嘘をついたことはない。
 いや、あった。
 若い頃、騙くらかしてホテルに連れ込んだことがある。この場合は罪とも謂えないが、どうもわたしは彼女に非道なことばかりしているようだ。悪気はないので許してたもれ。ミ・アモーレ。こんばんは、中森明菜です。
 巫山戯すぎてごめんね。
 清世がわたしに嘘をついたことはない——と思う。嘘が云えるような性格をしていないのだ。わたしに対する気持ちも、此方が赤面するようなことを平気で口にする。彼女なら「愛してる」と幾らでも云えるかも知れない。ちょっと聞いてみたい気もするので頼んでみようか。「愛してると云え」とか脅してな。
 これは映画『ブレードランナー』で、ハリソン・フォードがショーン・ヤングに云った、「キスしてくれって云え」(Say,kiss me.)と、接吻を強要した場面の科白を捩ったものである。恐らくこの映画を観た男の殆どが、この科白をいつか使いたい、と思った筈である。実際に云ったら阿呆だが。
 愛していないから云えない、と返されたら恐い。やめておこう。



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