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猫についての覚え書き

 コメとマルが死んで了った。二十二才と十九才だったので、猫としては長生きだが、それがなんだと謂うのだろう。そんなことを人間が身罷った際に、平気で云うだろうか。葬儀に列席して、
「この度は御愁傷様でした。でも、お宅のお爺ちゃん、九十五年も生きたんですもの。もう充分じゃない? 介護も大変だったみたいだし、楽になったでしょ」
 と云うか?
 肚の中で思っている奴は幾らでも居るだろうが、ことほど迄に明白地に云う奴が居たとしたら、面の皮が鉄で出来ている上に鉄条網が巻かれているのだろう。残される者にとって、近しい者の死はいつ如何なる時でも悲しいのだ。それが親だろうと恋人だろうと、猫だろうと変わりはない。
 これで猫の遺影は六枚になった。こんなものを集めて何うなるのだ。
 あとは捨て子四姉妹を残すのみとなった。動物を飼っておらぬひとからすると充分多いではないかと思われるかも知れないが、居なくなってしまうと淋しく感じられる。しかし、残された彼女らも十七才である。こんなことを考えてはいけないが、いつ死んでもおかしくない。
 自分にしても自分以外にしても、「いづれは死ぬ」と思っていては如何なる情熱も持てない。しかしそうなる運命は避けられないことなど判りきっている。その対象へ情熱を持てたと思うのは幻想であろう。それは、いつかは死ぬ者に対して愛を持って応対したと思い込んで、己れの行為に陶酔しているだけに過ぎない。
 動物はいつまでも体験したことを記憶してはいない。種の存続に拘ることでも、何世代も掛かって漸く遺伝子に記録される。個別の情報は深く刷り込まれず、何れだけ大きな出来事でも数年で色褪せる。喉元過ぎれば熱さ忘れると謂う通り、痛みを伴う経験でも忘れ去ってしまう。
 クローン技術は遺伝子の情報だけを複写し、生まれた後の疵や記憶は再生しない。大きな怪我をしても、何を経験しても、それが遺伝子に記録されることはない。我々が生きてゆく上で悩んだりするのは、その程度の些細な出来事なのだ。
 わたしが死んだところで、それをいつまでも嘆く者は居ない。嘆きは感情の上を滑って消えてゆく。拘わった者らは何事も無かったように日常に戻り、記憶する者すら居なくなった後に己れを覚えているのは、名前が彫られた墓石だけとなる。
 途轍もなく厭世的になってしまった。この年になるまでこれほど後ろ向きなったことはない。わたしの死期も近づいていると謂うことだろうか。
 などとポーチのブランコに腰掛けて黙考していたら、何処やらから弱々しい鳴き声が聞こえてきた。耳を澄ませなくとも、あれは猫の声だと判る。しかも仔猫で、更に合唱している。厭でありんす、聞きたくありません。
「清世、ちょっと来てくれ」
 心の弱いわたしである。サッシを開け、部屋の裡へ向かって妻に呼び掛けると、清世はすぐにやって来た。
「どうしましたか」
 庭の隅に仔猫が居るみたいだ、と云ったら、彼女はサンダルを突っかけて啼き声の方へ行ったようだった。猫ではありませんように。鴉が音の鳴る玩具を落として行ったに違いない。きっとそうだ。しかも、幾つか。
 木下さんと呼ぶ声がした。声のする方へ顔を向けても意味はないが、習性として向けてしまう。人間と謂えども動物なのだ。
「仔猫が三匹居ました」
 やーめーてー、おさないでー。
 誰も押してなどおらぬ。何処の誰が横山弁護士を覚えていると謂うのだ。
「どうしましょう」
「慥かに猫なのか」
「とても小さいですけれど、鼠でも土竜でもありません」
 きゃー、いやー。神様、これ以上まだわたしに試練を与えようと謂うのですか。あなたを信じなかった罰ならば、今すぐ信じます。そこの水道で簡易洗礼式を行ってもいいです。いや、キリスト教の神様とは限らないな。天照大神か?
 誰でもいい、わたしを試すのはやめてくれ。


 猫は雉子虎で、生後ひと月ほどであった。
 そうだよ、飼うことになったんだよ。笑わば嗤え。わーはっはっは。
 わたしが笑ってどうする。
 しかし、掛かりつけの獣医に診せたところ、「ちゃんと飼えるんですか」と、暗に目が見えぬ者に動物の世話が出来るのかと心配された。
 うむ、それは慥かに、などと殊勝に考えていたらば、すかさず清世が「わたしが世話をするので、大丈夫です」と云った。彼女がこれほど敏速に反応することが出来るとは思いもよらず、小便をちびるほどびっくらこいた。それくらい、間髪入れずに返答したのだ。
 そして彼女は、わたしの手をぎゅっと握りしめた。このような積極的な行動をする性格ではなかった筈だ。手を握りしめる程度で『積極的』とは謂えないかも知れぬが、彼女は非常に恥ずかしがり屋で、若い頃から男に恐怖心を抱いている節があり、心を許した(であろう)わたしに対しても、此方からすると一線を引いている、否、一線どころか壁を築いているくらいの隔てを感じていたのだ。
 そんな彼女がわたしの手を握り、耳許で「気にしないで下さい」と囁いた。
 獣医師が述べた、「障害者を抱えた家で動物の世話が出来るのかよ」と謂った含みのある言葉くらいで疵つきはしない。わたしの神経はナイロンザイルのように強靭なのだ。指をさされて目盲と云われたって平気さ。だって本当のことだもの。指さしたって見えないもの。
 小さな三匹の猫はごりごりに痩せており、毛も何かで固まっているのかばさばさしている。注射器を使って猫用のミルクを与えるしかないらしく、こればかりは清世ひとりでは無理で、応援を頼んだ。
 誰にと云えば、一緒にバンドをやっている牧田俊介である。一度猫の世話をしてもらっているし、マルが死んだ時は駆けつけて涙まで流した(らしい)。その上、現在彼には連れ合いが居る。正式に婚姻関係を結んではいないが、そんなことなど何うでもいい。わたしと清世だって十五年ほども結婚せずに同棲していた。世の中には事実婚と謂うものがあるのだ。
 彼らが夫婦の関係なのか何うかは知らないが。
 牧田はふたつ返事で瑛子とやって来た。仲がお宜しいことで。若い恋人と謂っても年齢的にはおばさんである。それもやはり何うでもいい。姿形が見えないのだから、声が麗しければそれでいい。幸い瑛子は、煙草を喫っていた割には可愛らしい声をしている。
「また猫を拾ったのか」
「拾ったって謂うか、庭に居たんだよ」
「おまえんちの庭、出産所になってるからなあ。何すればいいんだ」
「清世に訊いてくれ」
 三人掛かりで三匹の仔猫にミルクを与えているようだった。王侯貴族並みである。しかし、栄養を与えなければ死んでしまう。我が家で引き取ったからには長生きをしてもらわなければ困る。最初に飼ったコロを除けば全員長生きしているのだ。猫界に於ける長寿国なのである。タンゲなど、隻眼でありながら二十五年生きた。
 能く考えてみると、二十年以上生きられたら此方が先にくたばってしまう。こう謂う場合、誰に頼めばいいのだろうか。江木澤の息子か、棠野の娘か。すぐそこに居る牧田の連れ合いか。そこに居る女性は、我々の年齢に十一足せば猫の寿命に間に合いそうだ。
「瑛子ちゃん、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
 彼女は、なんだよ、と云いながら此方へやって来た。以前ほどではないが、言葉遣いは悪い侭である。
「ものは相談なんだがね、君は猫が好きかな」
「嫌いじゃないけど」
「我々が死んだあと、残った猫の世話をしてはくれまいか」
「自分が面倒みきれないの判ってて、なんで拾うんだよ。あんた、馬鹿じゃねえの」
 慌てて牧田が此方へ来て、「こら、瑛子」と叱っていた。その様子は叔父と姪のようである。いとこ同士くらいにしておくか。
「牧田ちゃん、あなたのお姫様は随分冷たいのね」(亮二)
「薹の経ったお姫様だけどな」(牧田)
「勝手にぬかしてろ」(瑛子)
「ぬかしてもらってるけどね」(牧田)
「あらやだ。惚気てるわよ、このひと」(亮二)
「おまえらいい加減にしろ」(瑛子)
「揉めないで下さい。大声を出すと猫が吃驚します」(清世)
「清世、こいつらえらい盛んだぞ」(亮二)
「仲が良いのは結構なことじゃないですか」(清世)
「わたしたちも頑張りますか」(亮二)
「余計なことは考えないで下さい」(清世)
「女は冷たいわねぇ」(亮二)
「てめえについていける女はそうそう居ないよ」(牧田)
「此処に居るだろ」(亮二)
「ほんとに臆面もなく云うんだな。しかも人前で抱きしめて」(瑛子)
「すみません」(清世)
「なんで清世さんが謝るの? おかしいのは木下さんじゃん」(瑛子)
「そうだよね」(清世)
「爺いってのは、ほんとに箍が外れると始末に負えないな」(瑛子)
「ほんとにねえ」(清世)
「清世さんも大変だね」(瑛子)
「大変じゃないよ、全然」(清世)
「……前から思ってたけど、清世さんって変わってるね」(瑛子)
「そうかな」(清世)
「こんなんとつき合っていられるだけで尊敬する」(瑛子)
「木下さんは立派なひとだよ」(清世)
「まあ、このひとは尊敬出来る部分もあると思ったけど」(瑛子)
「そうでしょ」(清世)
「最近そう思っただけだよ」(瑛子)
「昔から凄いひとだったよ」(清世)
「そう思ってたのは清世さんだけだと思うよ」(瑛子)
「わたしが思ってればいいの」(清世)
「はあ、そうか」(瑛子)


 仔猫たちは、清世と救援隊のおかげで窮地は脱したようである。少しづつ肉もついてきて、よろよろした足取りも確乎りしてきた。先輩の四姉妹も母性を発揮して世話をしてくれた。ソファーに横たわっていると、全員が腹の上でおとなしく眠っている。
 何故か猫たちはわたしの腹を寝床だと思っているらしい。歴代の猫でわたしの腹で寝なかった者は居ない。教え合っているのだろうか。口コミでわたしの腹は寝心地がいいと広まったら、通りすがりの猫まで寝にくるやも知れぬ。そんなことになったら蚤に喰われまくるだろう。
 元気になった三匹の猫は、「ヨキ」「コト」「キク」と名づけられた。問い質すまでもなく、横溝正史の『犬神家の一族』から考えついたことは一目、ではなく、一聴瞭然である。引用かつ命名したのはわたしではない、清世だ。何故こんな禍々しいものを彼女が思い出してしまったのかと云えば、猫を見つける数日前から読んでもらっていた所為であろう。わたしが不意に読み返したくなったのは、運命と謂えるのかも知れない。
 我が家の三種の神器は、骨肉の争いも殺人事件も齎すことはなかった。神に祈った割には、取り立てて幸運を運んでくれる気配もない。まあ、何事もないのが一番ではある。
 猫が増えたと謂うことで、遠藤周作の動物に関する随筆を読んでもらった。このひとの小説はクリスチャンだっただけに深刻なものが多いが、狐狸庵先生に変身した途端、阿呆になってしまう。阿呆だと思いつつ、考えることややることが自分に似ていると感じる。
 つまり、このひとが周囲に迷惑がられたように、わたしも周囲に迷惑がられている訳だ。
 遠藤周作も動物が好きで、特に犬が好きだったようである。わたしと同じように雑種を好んだらしい。血統書になぞ価値を見いだすことが出来ない。獣に家紋をつけて何うするのだ。人形の久月か。
 清世からすると、探偵小説を読まされるより、斯う謂った軽い随筆を読む方が気楽らしい。そりゃそうだろう。随筆に濃厚な濡れ場が描かれることはあまりない。なるべくそう謂った場面のないものを選んではいるが、ごく普通の小説でもそのような場面は出てくる。動物の生活に生殖行為は欠かせない。人間は生殖の為のみに行う訳ではないが。
 パンは生くる為にあらず、行為は実る為にあらず。勝手な云い草ではある。
 遠藤周作が畑正憲に聞いたところに依ると、動物でも発情して手当たり次第交尾する訳ではないらしい。ちゃんと好みで相手を選んでいると謂う。それは知らなかった。と謂うことは、わたしが獣であったとしたら、選ばれる可能性はかなり低い。清世は動物であろうと選んでくれるかも知れないが、それは希望的観測に過ぎないだろう。
 遠藤周作の話に戻るが、このひとの随筆は若い頃にも好んで読んだことがある。印象的だったのは大連で飼っていた満州犬との交流と、フランスのリヨンに留学していた時に雌猿に惚れられた話である。このふたつは本人にとって忘れ難い思い出だったらしく、何度も単行本に採用されている。今回読んでもらった本にもあった。
 子供の頃に特定の動物と親しく交流した記憶はないが、動物に惚れられたことはある。相手は馬だった。
 若い頃、乗馬を嗜んでおり——否、そんな高貴な遊びはしたことはない。
 乗馬をしたのではなく、父方の伯父に競馬に従事する馬の厩舎を見せてもらったことがあるのだ。彼が競馬と如何なる関わりがあったのかは定かではないが、何やら手蔓があったようである。
 サラブレッドは天然自然の動物ではないだけに、造形の美しさが畸形的であった。脚が長くて細すぎる。これはわたしも云われたことがあった。褒めているのか貶しているのかどちらなのだ。
 一頭の馬、ミヤビノホマレとでもしておこうか。牝の三才馬であった。
 馬の鼻の触り心地は面白い。短い体毛はなめらかで、肉質はぷよぷよと弾力がある。何に譬えたらいいだろうか。泡立て固めた寒天とでも謂うのか、猫の肉球とも違い、独特な感触だった。
 面白くてずっと触っていたら、ミヤビノホマレは顎を上げて歯を剥き出した。歯だけでなく、ピンク色の歯茎までぐわっと剝き出したので、触り過ぎてついに怒ったのかと思い、慌てて手を引っ込めたら、後ろに立っていた叔父が笑って、「亮二、こいつに惚れられたな」と云った。
 歯を剥き出す行為はフレーメンと云って、フェロモンに刺激され、それを更に摂取しようと鼻にあるヤコブソン器官をもっと晒す行為であるらしい。馬の上唇は大きくめくれるのでよく判るが、犬や猫も斯う謂ったことをする。野生の動物は異性の尿の臭いに反応するが、飼育された場合は煙草や揮発油の匂いにも反応するそうな。
 断っておくが、この当時のわたしが小便を漏らしていた訳でも、煙草を喫っていた訳でもない。ミヤビノホマレが何を思ってそんなことをしたのかまったく持って判らない。
 猫のフレーメンは、顔を顰めたり、人間からすると苦笑したような表情をする。どうも「臭い」と思った時の顔らしい。そりゃそうだ。小便の臭いに反応するのだから、うっとりは出来ないだろう。動物の感覚なので判らないが。
 匂いと性慾は密接な関係があるようで、香水の発達した歴史は体臭を隠すことに始まるが、それがだんだん変化して植物の香りだけでなく、麝香など動物性のものも用いられるようになった。それがアチラの方を刺激すると謂う研究結果が出たのだろう。どのようにして実験したのだろうか。
 やはり鼠で実験したのか?
 わたし自身は女性が香水をつけていて好感を持ったことは一度もない。満員電車の裡では寧ろ不快であった。大勢の汗と体臭と人工的な匂いが入り交じり、香しいどころか吐き気がした。食事時のマナーでも香水はつけるなと書かれている。では、香水は何時つければいいのだろうか。
 まあ、寝る時でしょうな。何もそちら方面の話ではなく、睡眠を促すのに有効な香りがあるのだ。安眠を齎すものもあるらしい。牧田に教えた方がいいのかも知れないが、性慾を亢進させる香りもある。
 匂いだけでそんな効能があるのか、と思う方もおられるだろうが、嗅覚と謂うのは感覚を司る裡でも大きな役割を果たすもので、臭いだけで気分が左右されるし、味が判るのも匂いのおかげなのである。
 鼻を摘んで飯を喰ってみれば判る。微妙な味がまったく感じられなくなる。
 外はまだ夏の盛りである。夏は様々な香りがする。生命力が漲っているからだろう。しかし、夏は死の季節でもある。生物は冬と夏によく死ぬ。猫たちは皆、夏に逝った。わたしも冬に生まれただけあって、暑さに弱い。恐らく、夏の暑さにやられてくたばるだろう。
 荒涼とした景色の冬に死ぬよりはいいのかも知れない。


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