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あひる

 秋も暮れるころに、あんなに暑かった夏は何処へ行ってしまうのだろうと、毎年思う。何故か真冬には、夏の暑さを思わない。今年の夏は、特に暑かった。それも、毎年思うことかも知れない。秋は瞬く間に過ぎたような気がする。今や寒さに耐えかね、布団に潜り込み、左を下にして横になって本を読むわたしの後ろ頭に体をぴったりくっつけて、あひるが猫が香箱を作るようにふくふくと羽毛を膨らまし、眠っているのだろう。嘴は胸に埋めているか、羽根の内に突っ込んでいるのか、それは見てみないことには判らない。あひるのその時の気分で変わるからだ。
 外からの陽射しは既に傾いているが、天気は良さそうだ。食料も底を尽きかけているし、家に篭ってばかりでは体にも精神にも悪い。最近、外へ出るのがますます億劫になってきているので、ひとつ此処は我が身を叱咤鞭撻し、散歩に出掛けようではないか、と仰向けになってみた。わたしの頭の位置が変わったので、あひるも目を覚ましたようだった。
 あひるの方へ少し顔を向け、散歩に行こうかと云ってみたら、「ガア」と応じた。
 寒いので重ね着をして寝ていた為、寝間着の部分を葱でも剝くようにすっぽり脱いで、後はそのまま外へ出ても不審者に思われない姿にする為、そこら辺にある小ましな服を身に纏い、あひるには知人がくれた柔らかく適度な細さの組紐を首につけ、財布をコートのポケットに突っ込んで部屋を出た。

 外は慥かに寒かったが、凍てつくほどの寒さではなく、日当りの良いところなどは暖かく感じられさえした。
「吃驚するような寒さじゃないね」
 足許のあひるに云うと、やはり「ガア」と答えた。そして、わたしはふと考えた。あひるは天然自然に発生した動物ではないが、寒さに強いものなのだろうか、と。まあ、それは帰ってから調べることにして、アパートの敷地内から出た。そう書くと大層なところに住んでいるように思われそうだが、築三十五年の古い建物で、わたしが住まうのは一階。そして、車が二台しか停められない駐車場を突っ切ってゆくと、やはり車が二台がすれ違える程度の道がある。その向こうの道は、片側二車線で交通量も多く剣呑な為、あひるとの散歩には向かない。
 ちょっと蜥蜴を思わせる緑色の組紐を持って、ふたりで歩き出す。歩幅が違うのにお互いのペースで歩いても支障をきたさないのが不思議だが、考えても判らないことだし、恐らく誰に訊いても「変だねえ」と云うだけであろう。だから、この件に関しては、脳味噌の中にある『解決不可』の抽き出しに収めてある。
 あひるにとってアスファルト舗装の道が快適だとは思えないのだが、久し振りに広い処へ出て嬉しいのか、あっちを向いたりこっちを向いたりしては、「ガア、ガア」と云っている。時々、道の端に生えている雑草を嘴をぱかぱか云わせて食べたりもする。尾を振りふり、水かきのついた黄色い足をよたよたと動かして歩くあひるは、滑稽だが実に可愛らしい。
 時間的なこともあるのか、ひと気がまったくない。鬱陶しいから滅多に時計を嵌めないので何時なのか判らないが、正午でないことは慥かである。
 然し、住宅街を散歩しても面白いことなどあまりない。畑があったりもするが、そこにもひとは居ない。知らないうちに人間だけ蒸発する爆弾でも落とされたのかとすら思うが、大きい方の通りから車の音が切れ目なしに聞こえてくるので、そんなことはないだろう。
 暫くゆくと、住宅街にありがちな児童公園がある。あひるのお気に入りの場所だ。と云っても、ブランコに乗ったり、滑り台で楽しんだりする訳ではない――滑り台は一度試したのだが、途中で怖くなったのか飛び降りてしまった。
 あひるが好きなのはその滑り台の麓にある砂場だ。この砂場は子供も遊ぶが、猫の便所でもある。実に不衛生な場所なので遊ばせたくないのだが、行きたいと云ったら行きたいのだ、と謂う態度を漲らせているので、仕方なしに連れてゆく。砂場ではなく池でもあればそちらへゆくだろうが、子供が遊ぶ小さな公園にそんなものはない。
 さくさくとあひるは砂場の内へ這入ってゆき、腹を揉み込むようにしたり、足で砂を掻いたり、嘴を突っ込んでみたりする。そして、猫の干涸びた糞を掘り出してしまう。わたしは「ああ、やってしまった」と嘆息する。池はないが水飲み場があるので、後で洗ってやらねばなるまい。

 名残惜しそうな風情のあひるを公園から連れ出し、住宅街を抜けて、左に曲がった処に昔よくあった長屋形式の店並びがある。『長屋』と云っても、一階部分が店舗になって居るだけで、その上はアパートと謂う、五階建てのビルヂングだ。スーパーマーケットにはない、鄙びた感じがなんとも云えない。財布を持って散歩に出たのは此処で晩の総菜でも買おうか、と目論んでのことである。
 左側から、雑貨屋(文房具から古本まである)、駄菓子屋のようなパン屋のような店、総菜屋、肉屋、魚屋と、五軒の店が連なっている。ビニールの紅白の軒があるので、店の外にも商品が出ているのが難有い。あひるを連れてスーパーマーケットには這入れない。
 雑貨屋をちょっと素見し、パン屋は飛ばして総菜屋の硝子のケースの中を覗く。雪花菜の炒りつけは買うことにしていたので、あと一品。法蓮草のおひたしが安い。このふた品で決定。あまりいい客とは云えない。肉の気分ではないので、魚屋へ。「本日、ハマチが特価」と、手書きで書かれた紙が貼ってある。が、さくで買っても食べ切れないかも知れないので、食べるばかりに切り並べられているパックを購入。
 店の並びを左から右へ進んで行ったので、今度はそこから右に折れて、アパートへ戻る道をゆくことにした。が、あひるの方を視ると疲れているようだったので、抱き上げる。首をへたっと此方に傾けてきたので、だいぶ草臥れていたのだろう。「今日はハマチの刺身だよ」とあひるに云うと、あひるは「ガア」と答え、わたしはわたしの足取りでアパートへ向かった。

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