見出し画像

君とふたりで

 父は非常に真面目で実直な人間なのだが、バイクを乗り廻し、高校時代からバンド活動をしている。だからといって不良じみたことをする訳ではない。考え方は堅苦しいと云っていいほどだし、外見も時代劇に出て来る侍のようであった。
 なるべく拘わらない方がいいと云っているバンドの鈴木玲二さんのことは、言葉とは裏腹に、同級生だったにも拘らず兄のような接し方をする。もうひとり、バンドのベーシストである棠野瑛介さんは、少し暗い感じの玲二さんと違って明るく気さくなひとなのだが、その娘がかなりやんちゃだった。
 赤ん坊の頃から知っているのだが、ふたり姉妹の姉の方は、四つ年下なのに小さい頃はぼくを家来のようにしていた。妹の方はもう少しおとなしい性格をしていたが、姉に影響され傍若無人に振る舞っていた。だが、父たちの知人が躾をし直して若干おとなしくなり、ぼくにあれこれ云いつけなくなった。
 もとから妹の奈津子は可愛らしい子だったが、やんちゃな部分が(若干)少なくなると、おとなしく控えめな自分の妹より好ましく思えてきた。六つも年下だからかも知れない。
 父と母は三つ違いだが、棠野さん夫婦は九つ違う。しかし、友達のような感じだった。棠野さんは別に子供っぽい訳ではなかったが、父に比べると天真爛漫な性格で、彼らが来るだけで家の裡がぱっと明るくなった。
 家が近いこともあって、小学校の中学年くらいになると、彼女らのアパートへ自分で行くようになった。うちより少々狭いものの、くつろげる雰囲気であった。ぼくの母は和食しか作らないが、彼女らの母親はかなり凝った料理をあれこれ出してくれる。だが、それが目当てでよく行く訳ではない。
 何が目当てかと云えば、奈津子であった。
 はじめの頃はまだ幼児なので、やんちゃ加減はまだ発揮されておらず、可愛い子供であった。姉は既にとんでもない性格になっていた。が、ぼくが軌道修正してゆけば、奈津子の方は姉のようにはならない気がした。
 しかし、それは甘い考えであった。
 姉の個性は強く、常に一緒に居る人間に影響されてしまうのは致し方ない。やがて奈津子も姉の美穂のような性格になっていった。が、前にも述べたように、或る人物が教育したおかげで無事彼女は軌道修正された。妹の由希子に比べるとかなり元気のいい子だが、一般的に見れば普通だと思われる。ぼくの家族は全員、とても地味なのだ。


 ぼくが中学に入るのと同時に、奈津子は小学校に上がった。ランドセルを背負いぼくの処へやって来て、自慢げに見せびらかしていた。ぼくの制服を見ると、頻りに恰好いいと褒めた。そして、自分も早く制服が着たいと云った。セーラー服を着た奈津子を想像してみようとしたが、まだちょっと無理であった。なにしろ相手は六才の子供なのだ。
 ぼくは小さい頃から父の弟に剣道を教わっていた。彼は刑事なので、警察の道場で教えてもらうのだが、このひとも実に真面目で一本気な性格をしていた。こういうひとたちに囲まれているので、棠野さんの家庭に惹かれるのかも知れない。美穂は行き過ぎているが。
 奈津子はぼくにとても懐いていた。男兄弟が居ないので、ぼくの存在が頼もしく思えるらしい。剣道の試合もよく見にきた。ぼくが勝つと凄い凄いと云って、折り紙で作った勲章をくれた。負けると馬鹿と罵られたけれど。
 彼女が中学に上がると、ぼくは高校を卒業して取り敢えず大学に進学した。卒業したら警察学校へ行くつもりだった。六ヶ月の研修を終えればキャリアの道が拓ける。叔父のような警察官になりたかったのである。祖父も警察の仕事をしていた。どうも真面目な家系の呪縛からは逃れられないようである。
 叔父は高校を出て警察学校へ行ったが、大学出の人間にはどうしても差をつけられると云っていた。四年制の大学から警察学校へゆけば、自動的に幹部候補生になるとのことである。奈津子に警察官になりたいと打ち明けると、おまわりさんより刑事の方が恰好いいと云う。いずれ刑事になると云ったら、すぐになれと膨れた。
 どうにも堪え性のない性格をしている。そこが可愛いと思うぼくは、少しおかしいのだろうか。
 奈津子が通うことになった中学の制服は、セーラー服ではなく、ブレザーであった。燕脂のリボンがよく似合っていた。
 休日はふたりで出掛けた。父の影響でぼくもバイクに乗るようになっていたが、それには乗せなかった。これも父の考え方に影響されているのだろう。父は決してバイクの後ろにひとを乗せなかった。二輪車は放っておけば仆れるしかない。そんなものに大切な人間を乗せるなど、言語道断な話である。
 車の免許も持っているので、父の車を借りて出掛けることが多かった。奈津子はバイクに乗りたがったが、理由を説明してなんとか諦めさせた。
 これにはかなり苦労した。仆れるといっても、スタンドを立てれば仆れないし、乗っていれば足をつくのだから仆れる訳がないと云うのだ。仕方がないので事故現場の写真を見せたら、やっと納得してくれた。
 奈津子のことを妹のように思っていたかというと、それは違う。誰にも云っていないが、彼女が高校を卒業したら結婚しようと思っている。気の長い話だが、奈津子が幼い頃からそう決めていた。互いの両親が反対したら、駆け落ちしてでも一緒になるつもりであった。それを奈津子に云ったら、反対してくれた方が面白いと笑った。
 冒険をしたい年頃なのだろうか。
 兎に角、悪い蟲がつかないように用心した。護身術を教えることにして、何かあったら取り敢えず玉を握る、それが出来なかったら体を引いて急所を蹴り上げる。それでも駄目だったら目玉に指を突き立てる。これらのことを教える為にぼくが実験台になったのだが、振りだけして本気を出すなと云ったのに、股間を蹴り上げられて死ぬ思いをする羽目になった。
 玉を握り潰せば再起不能になる筈だ。急所を蹴り上げれば暫くは立ち上がれない。これは自分で経験したから確実である。目玉を突くのは勇気が要るけれども、奈津子は勇気の塊のような娘なので難なくやってのけるだろう。
 彼女は父親のことが大好きだから、ぼくのことを云うのではないかとはらはらしたが、女の子は秘密が好きなのでその心配は必要なかった。あの父親に知れたら何をされるか判ったものではない。
 逆さ吊りにして拷問しそうだ。
 中学生の子供と関係を持つのは、警察官を目指す者として感心出来ることではないので、奈津子が高校へ進学するまで待つことにした。此処まで辛抱強く待ったのだ、あと三年くらいどうということはない。気が長いのは家系でもある。父は母と出会ってからことに及ぶまで二年近く掛けたらしい。ぼくはその数倍待っているが、気にはならなかった。
 奈津子は好奇心旺盛なのでぼくの慎重なやり方が気に入らないようだったが、時間をかけて説得した。最終的なことの一歩手前まではしたけれど、それも彼女が求めなければする気はなかった。自分の父も彼女の父親も恐ろしかったからである。
 父は謹厳実直な人間なので、ぼくたちのことを知ったら半殺しにしかねない。彼女の父親はぼくが見る限り娘を目の中に入れても痛くないほど可愛がっているので、恐らく叩き殺すだろう。ふたりとも奈津子には何もしないだろうが。
 本懐を遂げる前に殺されたりしたら、死ぬに死ねない。

「惣一君は他の女の子とキスしたりするの」
「しないよ」
「なんで」
「奈津子以外の女の子を好きになれないから」
「同じくらいの年の女の子じゃなくていいの?」
「そんなことは関係ない。奈津子が小さい頃からお嫁さんにするって決めてた」
「いつそうしてくれるの」
「奈津子が高校を卒業したら」
「そんなに待たなくちゃいけないの」
「ぼくは散々待ったから、あと五年くらいは平気で待てるよ」
「あたしは待ちきれない」
「我慢して」
「早く大人になりたいなあ」
「急いで大人になる必要はないよ。今を楽しまなきゃ」
「惣一君は楽しんでるの」
「楽しんでるよ、こうして奈津子と居ると愉しい」
「あたしも」


 奈津子が高校に進学して、とうとう最終段階に進むことになった。彼女はラブホテルに行きたがったが、そんな処へ這入る現場を知人に目撃されたら不味いので、普通のビジネスホテルへ行くことにした。部屋に這入った途端、奈津子はぼくに抱きついて唇を重ねてきた。辛抱堪らないといった感じである。
 そのままベッドに押し仆され、立場が逆のような気がしたがしたいようにさせておいた。こんなに元気な娘に逆らっても仕方がない。それにこの状況ならば、親にばれた時に云い逃れが出来ると狡いことを考えていた。少なくともぼくが手篭めにした訳ではない。
 しかし、世間一般からしたら、これは未成年淫行である。学校に知れたら即座に退学だ。勿論、警察官になることは出来ない。別に職は幾らでもあるが、性犯罪者の烙印を押されたらまともな人生は送れない。それでは奈津子に苦労を掛けてしまう。どちらが悪いかと云えば、ふたりとも悪いのだが、女は社会的に弱い立場である。ふたりの関係で云えば、ぼくの方が弱いのだが。
 どちらにしても、これで既成事実が出来てしまったのだから、もう後戻りは出来ない。する気もない。奈津子が卒業するまで待つ、と考えて、十六才なら親の承諾があれば結婚出来ることに気がついた。彼女は夏になれば十六になる。警察機構に入る前に結婚するのはいいことなのかどうか考えてみた。
 法を犯している訳ではない。しかし今、此処に警察官が来たら、取り敢えず問答無用で留置所にぶち込まれるのは慥かであった。が、正直に互いの親にことの次第を打ち明けて、関係を認めてもらえば大手を振って婚姻関係を結べるだろう。
 奈津子にそれを云うと、きゃっきゃとはしゃいで賛成した。いいのだろうか。
 彼女の父親に云う前に、自分の父に打ち明けた。父はあまり感情を表に出さない人間なのだが、ぼくの云うことを黙って聞いて、見る見るうちに顔が険しくなっていった。
「惣一、おまえは何を考えているんだ。あの娘のことはよく知っているだろう。好きこのんで苦労を背負い込む馬鹿が何処に居る」
「苦労だとは思いません」
「世の中をなめているのか」
「そんなことはありません」
「兎に角、棠野の娘は駄目だ。あの子が家族になったらどんなことになるか、火を見るより明らかだ。頭を冷やしてよく考えろ。それでも考えが変わらなかったら、おれが棠野に話す」
 そう云って、ぼくの返事を聞かないまま部屋を出て行った。こうなったらもう、何を云っても聞き入れてはくれないだろう。考えが変わる筈などない。変わるものなら十年前に変わっている。奈津子に電話をしたら、なんと彼女も父親に話したと云うではないか。何故勝手にそんなことをするのだろう。
 父親が電話を替わり、車折を出せ、と怒鳴った。ぼくも車折なのだが。
 電話で思ったより短いやりとりを済ませ、数十分で棠野さんがやって来た。バイクを飛ばしてきたらしい。飲酒運転ではないのか? ショックで白面に戻っているか。
 食卓を父と母、棠野さんとぼくの四人で囲み、暫く気不味い沈黙が覆った。口火を切ったのは父であった。
「済まない、まさか惣一がこんな馬鹿なことをしでかすとは思わなかった」
「謝って済むか、馬鹿野郎。奈津子はこの間、高校に入ったばかりなんだぞ。出るとこ出て訴えることだって出来るのが判んねえのか。この馬鹿息子は警察官になるつもりなんだろうが。自分のやったことの罪の重さくらい理解出来るだろ」
「罪じゃねえだろ、強姦した訳じゃないんだから」
「そういう問題かよ、巫山戯んな。こいつは男だからいいかも知れんが、奈津子は女だ。由希子ちゃんがこんなことになったら、てめえはどう思うか考えてみやがれ」
「だから、お互い好き合ってるのに、親がどうこう云う問題じゃないよ。奈津子ちゃんだって、ものの道理が判らないような年じゃないだろ。自分の判断でやったことじゃないか」
「勝手なことをほざくな。兎に角こんなことは許さねえからな。いいか惣一、奈津子に二度と近づくなよ。おれの視界に入ったら命はないものと思え」
 棠野さんは荒々しく足音を立てて出て行った。父は頭を抱えて卓子に肘をつき、母はその姿を困ったような顔をして見つめていた。扉の向こうで由希子が怯えた顔をして佇んで居る。ぼくひとりの為に家族が暗闇に沈んでゆくようであった。
 しかし、こんなことで諦める訳にはいかない。十数年の想いがこれしきのことで潰える訳がない。ぼくは荷物をまとめて深夜、家族が寝静まったのを見計らって家を出た。奈津子の電話は通じなかったが、緊急の場合の連絡方法は打ち合わせてある。彼女もこんな事態になれば呑気に寝てはいないだろう。
 アパートまでバイクで行き、奈津子の部屋の窓にレーザーポインターで丸を描いた。この時間なら同じ部屋に居る美穂は寝ている筈だ。暫くすると、窓が開いた。顔を出したのは、あろうことか美穂だった。彼女は何か白いものを落とした。拾い上げると、腕時計を重しにした便箋であった。
 奈津子は昨日のうちに親戚の家へ移されたとのことである。そこの住所が書かれていた。「わたしは味方だよ」と、汚い字で書きなぐってあった。まさか美穂が協力してくれるとは思わなかった。地獄に仏とはこのことか。
 書かれた住所は隣の市のもので、奈津子の母親の実家であった。バイクで二十分ほどで着いた。高速道路並みの速度を出したのだが。
 部屋までは判らなかったものの、薄明かりのついた窓に一か八かでレーザーポインターを当てた。すぐに窓が開いて奈津子が顔を覗かせた。
 パジャマのまま外へ出て来ると、ぼくに抱きついてきた。
「惣一君、ごめんね。お父さんがあんなに怒るとは思わなかった。大丈夫だった?」
「大丈夫だよ、早く荷物をまとめて。すぐに行こう」
「何処へ」
「決めてないけど、朝になったら捕まっちゃうよ。出来るだけ遠くへ行かなきゃ」
 彼女は判ったと云って、家に戻った。荷物を解いていなかったらしく、すぐに戻ってきた。はじめてバイクの後ろにひとを乗せた。何かを考えている閑はなかった。スターターを蹴り込み、スロットルを吹かして発進させた。
 これからどうなるか皆目見当がつかない。けれど、ふたりならなんとかなるだろう。もし追っ手に捕まったら心中でもするしかない。まるでロミオとジュリエットのようだと思った。奈津子はぼくの体にぎゅっとしがみついていた。春のまだ冷たい空気を切って夜の終わりがけの道を駆け抜けて行った。


 仙台のうらぶれた旅館に居る処を、五日目で棠野さんに見つかり、何かをする間もなく奈津子は連れ戻された。前後してやって来た父に連れられ、ぼくも帰宅した。大学は当然退学し、暫く家に監禁された。
 二週間が何事もなく過ぎた。誰とも口を利かなかった。食事を差し入れる母は、少し窶れたようだった。様子を訊いても返事をしない。三週間経って父が部屋に這入ってきた。
「惣一、棠野と話し合ったんだが、あいつも考えを変えたらしい。好きにしていいと云っている」
 驚いた。そんなことになるとは思いもしなかった。あれだけ怒り狂っていたのにどうしたというのだろう。父に訊ねたら、奈津子はハンガーストライキをして、現在病院で治療を受けているとのことであった。二週間以上飲まず喰わずで、監禁せずとも部屋から一歩も出なかったらしい。彼女の母親が棠野さんを説得して、親四人で話し合った末、子供の希望通りにさせるのが最善の策だと結論を出したそうだ。
「奈津子は大丈夫なの」
「なんとかな。おまえは自分の心配をしろ。これからどうするつもりだ。学校を辞めて、家庭を持つなら仕事をしなきゃいけないだろ。何が出来るんだ」
「なんでもやれるよ。意地もプライドも捨てればどんなことだって出来る」
「そこまで覚悟しているなら何も云わないが、ひとひとり抱えてゆくのは生半可なことじゃないぞ。きれいごとでは済まない。文字で書かれたこととは違うんだ、判ってるのか」
 そんなことは云われなくても判っている。ぼくも子供じゃない。奈津子が体を賭してまでしたことに応えなければいけない。何があろうと乗り越えて行かなければならないのだ。
 奈津子に面会することは許されなかったが、退院してから会いに行った。痩せてしまって、少し大人びた容貌になっていた。力なく微笑んで、手を伸ばしてきた。その手を握りしめて、必ず幸せにすると約束した。
 そんなことが出来るとは思わなかったが、ちゃんと結婚式を挙げた。花嫁衣装を着た奈津子を見て、棠野さんは苦笑いしていた。ぼくの頭をはたいて、「もし不幸にしやがったら、生き埋めにしてやるからな」と云った。
 ぼくは結局、父の口利きで横山モータースに就職した。父が責任者をしている中古バイクの専門店である。警察官になるものとばかり思っていた祖父と叔父はがっかりしていたが、何もかもが丸く収まったことに胸を撫で下ろしているようであった。
 ぼくたちは周囲を嵐のような混乱に巻き込み、それはやはり周りの力で収められた。自分がまだ子供だということを痛いほど感じた。しかし、そんなところで留まって居てはいけない。ぼくはもうひとりではないのだ。守るべき人間が居るのに逡巡してはいられない。流れに逆らってでも前に進まなければいけないのだ。
 奈津子が不安に駆られないように、どんなことがあってもびくともしない岩盤のような人間にならなければいけない。家庭という建物を確乎り支えて、風雨に晒されても酷い揺れが来ても大波が来ても、びくともしない地面になるのだ。弱さなどかなぐり捨てなければならない。
 これから長い年月がぼくらを待ち構えている。それをどんな色に塗り分けるかはぼくに掛かっている。きれいな絵を描いてみせよう。額に飾ってあらゆるひとに賞賛される必要はない。奈津子が素敵だと云ってくれればいいのだ。
 既に掲げられた帆は風を受けている。海原で何が起こるかは判らないけれど、出発点に戻る訳にはいかない。点々とある小島に碇を下ろし、時々休憩しながら進んでゆけばいい。周りを見渡して、地図のない航海を楽しんでゆくのだ。奈津子とふたりで。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?