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幽霊

 水尾が死んだ時、自分も死んでしまおうかと思った。が、おれの気持ちが通じたのか、彼は幽霊となって戻ってきた。
 そして、ずっとおれの傍に居た。話すことも出来るし、触れることも出来る。だが生きていた時と同じようには行かなかった。彼は体重がなく、体温もなかった。重さがまったくない訳ではなく、体温も空気と同じなのである。幽霊は気体のようなものなのだろうか。
 彼は眠らないのだが、おれが眠りに就くまで傍にしゃがんで此方を見ていた。隣で横になったらどうだと云ったら、眠れないのに横たわるのは虚しいからいいと答えた。気の毒な話だが、本人はあまり気にしていないようだった。
 もともと水尾は物事に拘らない性格をしていた。父親に虐待されても、それを辛いことだとは思っていないらしかった。やるならやれ、殺したいなら殺せと思っていたようである。だからまったく抵抗せず、体は痣だらけで肋を折られることもあった。腹が立って父親を半殺しにしてやると云ったら、彼はやめておけと笑っていた。
「そんなことしたらおまえがしょっぴかれるぞ」
 高校に入学してすぐ、水尾は二学年上の女と同棲をはじめた。様子を訊いてみると、アパートに誘われた翌日、家に帰りたくなくてもう一泊したら、ほろ酔い加減で迫ってくるのを逃げ廻って躱したものの、ベッドに追いつめられ、無理矢理勃たされて相手をしたそうだ。
 呆れたおれは、何故そんな女と暮らす気になったのかと水尾に訊ねた。彼は如何にも投げ遣りな感じで、もう家には居たくないからだと答えた。気持ちは判るが、どう考えてもまともな女ではなさそうだし、十五才で同棲するのは早いような気がした。
 心配したが、彼女とは上手く行っているようで、これならば大丈夫かも知れないと考え直したが、一ヶ月くらい経った頃にとんでもないことが起こった。女は行き先を告げずに家を空け、自分の友人を留守宅に寄越したのである。しかも彼は、ベッドの相手までさせられた。
「なに考えてんだよ、あの女は」
「さあな、玩具だとでも思ってんじゃねえの? もう、どうでもいいよ」
「そんなのよく平気だな。それじゃあ、実家に居た方がましだろ」
「家に戻るくらいだったら女の相手くらい幾らでもするよ。別に死ぬほど厭な訳じゃないんだし」
 女の名前は清水亜紀といったが、おれは決してその名で呼ばなかった。彼の父親に対して抱いた思いと同じ感情が沸き上がった。きれいな顔立ちで、最高レベルの進学校に通っているくらいだから頭はいいのだろう。それなのに、やること成すことが常識外れである。
 会ってすぐ部屋に連れ込み、男を手篭め同然にして、自分の留守中には友人に見張らせ、ベッドの相手までさせるとは普通の感覚ではない。水尾が云うには色情狂ではないし、家のことは完璧と云っていいくらいやってくれるそうだが、その引き換えにはならないほどの負担ではないか。
 留守にしたのは母親の命日に、父親を自殺現場に連れて行く為だったらしい。
「親が自殺してるのか」
「ああ、昨日来た友達に聞いた。ショーコさんっていうんだけど、別に悪いひとじゃなかったよ」
「友達と同棲してる男と寝る奴の、何処が悪くないって云うんだよ。そいつも絶対、頭がおかしいに決まってる」
 亜紀という女には自傷癖があった。手首の内側にカッターナイフか何かで疵をつけるらしいのだが、引っ掻く程度のもので、たいしたことはなかったという。だが、ふたりが同棲をはじめたその年の暮れに、事件は起きた。
 大晦日の前の日、水尾から電話があった。
「どうしてる?」
「親と掃除してるよ」
「おまえの部屋、散らかってるもんなあ。手伝いに行こうか」
「あいつと一緒に居なくていいのか?」
「いいよ、どっかに出掛けてるから」
「じゃあ来て貰おうかな」
 半時間ほどで彼はやって来て、母がにこやかに応対していた。外見は少し変だと思っていたらしいが、頭はいいし礼儀正しくもあるので、両親ともにあの子はいい子だと云い、気に入っているようだった。
「水尾君は家のお手伝い、しなくていいの?」
「もう済ませました。今井の掃除を手伝ってやろうと思って」
「まあ、わざわざ。あの子の部屋、汚いから大変よ」
 彼は知ってます、と笑っていた。おれの部屋に来て、雑巾がけをする為に腕まくりをしたら、左腕に包帯が巻かれている。
「どうしたんだ、これ」
「自分で切った」
「はあ?」
「アキがまた手首切ってて、現場見たのははじめてだったからどうしていいか判んなくなって、カッターナイフを取り上げてさ、こう、ざーっと切りつけたんだよ。結構深い疵で、獣医に縫ってもらった」
「獣医だって?」
「近くにそこしかなかったんだよ。早朝でまだやってなかったけど叩き起こしてさ、ただでやってくれた」
 呆れてものも云えなかった。なんでそこまでするのか。あんな女の為に。自分を利用して、ただ喰いものにするだけの奴に、どうしてそんなことが出来るんだ。滾るような感情が迸り出た。
「なんであんな女の為にそこまでする必要があるんだよ、あんな奴に死ぬほどの疵なんかつけらんねえよ。これ見よがしの脅しだってのが判んねえのか」
 自分でも驚くくらいの勢いで怒鳴りつけたら、当然の如く部屋の外まで聞こえてしまい、母が心配してやって来た。
「なに喧嘩してるの? あら、水尾君、その腕どうしたの?」
「硝子で切ったんです」
「まあ、大丈夫なの? 随分切ったみたいじゃない、ちょっと見せてみて」
 母が包帯を取ると、疵は思ったより酷かった。二十センチくらいの長さで、黒い糸がピンピン十一ヶ所つけられている。母は顔を顰めて「これ、酷いじゃない。掃除なんか手伝わなくていいわよ。帰って休んでなさい」と云ったが、彼はたいしたことないから平気ですよ、と答えていた。母が部屋を出て行ってから、水尾に向き直って腕を取り、おれは思わず溜め息をついた。
 彼は痛みを感じない。精神的なことではなく、肉体的に痛みを感じないのである。恐らくもの心つかないうちから父親に虐待されていた為、神経の何処かが麻痺してしまったのだろう。それ以外の感覚は普通だったが、どうにも粗忽でものをよく落としたり、躓いたりぶつかったりする。
「痛くないから大丈夫か……」
「それがさあ、痛いんだよ。痛いってこういうことなんだな」
 驚いて訊き返したら、女が手当をした時に消毒液が沁みたそうである。その感覚はよく判らなかったらしいが、麻酔を打たれた時も針が刺さって痛みを感じたという。
 怪我の功名とはこのことだろうか。水尾の痛覚は復活した。しかし、それまで経験したことがないので、何か衝撃があっても反応が鈍い。とっさに声が出ないらしく、絶句して踞るだけで、痛いところをいつまでも擦っている。もともと血が止まり難い体質だったので父親の暴力がなくなっても、常に痣だらけだった。
 腕の疵は、獣医がよほど薮だったのか、引き攣れた痕が残った。色が白いのでその痕はもの凄く目立ったが、彼は気にすることもなく、夏になったら普通に半袖を着ていた。おかげでそれまで口を利いたことのない奴からも事情を訊ねられたらしい。彼は母に云ったように、硝子で切ったと答えていた。
 水尾には中学の時は友達と云える人間はおれ以外居なかったが、高校に入ったら同じクラスの森という男と親しくなった。二年になると別のクラスになったが、廊下で会ったりすれば挨拶したり会話を交わし、学食では一年の頃から時々一緒に飯を喰っていた。
 高校時代のおれの弁当は水尾が作ってくれていたのだが、肉料理を作らないので実にあっさりしたものである。彼は母親が小学生の後半辺りから家事をしなくなったので、家のことはすべてやっていた。父親の愛人が居たが、そんな女に構って慾しくなかったのだろう。彼の家に行ったことは何度かあるが、父親が会社経営者なので非常に立派な家だった。
 制服以外の服装になると、水尾は浮浪児にしか見えない襤褸くさい身装をしている。当時、なんでそんな恰好をするのか訊ねたら、社長の息子のような服装はしたくないと答えた。恐らく彼なりの厭がらせなのだろう。そんなことでしか抵抗出来ない彼が哀れだった。母親は夫が息子を虐待している様子を見ていて徐々におかしくなってしまい、おれが会った頃にはもう精神が崩壊しており、此方が傍に居ることすら判らないようだった。
 そんな母親を水尾は甲斐甲斐しく世話をしていた。髪を梳いてやり、手を擦ったり肩を揉んでやったりする。勉強も彼女の傍ですると云っていた。自分の部屋はあるにはあったが、そこへはものを取りに行ったりする程度で、眠る時も母親の隣に床を延べ、本を読み聞かせてやったりするらしい。それを聞いておれは胸が詰まってしまい、思わず涙が出てきた。
 彼はそんな母親を置き去りにして家を出たことを、いつまでも悔やんでいた。もしかしたら自分の代わりに殴られているのではないか、誰も世話をしなくなって糞尿垂れ流しになっているのではないかと。そんなに心配ならば家に帰れと云いたかったが、あんな家庭に戻すのは気の毒な思いがした。
 高校二年になった頃から、水尾の生活は更に無茶苦茶な状態になっていった。女は留守中にショーコさんとやらを寄越すのはやめたらしいが、水尾の疵が癒えたら夜になると若いサラリーマンをナンパしに出掛け、帰って来ないことも多くなったそうである。そして、自分が居ない間に友人知人をショーコさんと同じように部屋へやり、相手をさせたのだ。
 これにはさすがの彼もうんざりして、顔色も悪くなり窶れてきた。もとから胃が弱かったが、この頃になるとストレスで酷い胃炎になってしまった。
 可哀想だがどうしてやることも出来ない。彼は自分で選択したことには他人に口を挟ませないし、見掛けに依らず頑固なところがあった。しかし、気が弱い訳ではないがひとのやることに無抵抗で、何をされても逆らうことが出来ないらしい。だからこそ父親の暴力を黙って受け入れ、殴り返しもしなかったのだろう。
 彼が抵抗したのは中学二年の時に、上級生に搦まれた時だけである。
 最初は殴られても痛くないので殴り返したりしなかったが、三人掛かりで蹴るわ殴るわと調子に乗ってきたので、幾らなんでも腹が立ってきた彼は、摑みかかってきた相手の腕を取って引き摺り仆した。華奢で痩せ細った男がそんなことをするとは思いもしなかった彼らは、少し怯んだらしいが、余計酷く殴りつけてきたそうだ。が、彼も相当頭に来ていたようで、三人相手に応戦し、水尾が意外と強かったのか向こうが疲れたのか、上級生は退散して行った。
 水尾が柄の悪い三人組に呼び出されたと聞いて体育館の裏へ駆けつけたら、彼は泥だらけになって地面に横たわっていた。唇の端から血が流れ、シャツも釦が千切れて、他の部分も擦り傷だらけだった。起き上がらせて保健室に連れて行ったが、養護教諭はおらず、鍵が掛かっていた。おれの家の方が近かったので彼を自転車に乗せて連れてゆき、手当をした。
 彼がシャツを脱いだら、あちこち新しい疵が出来ていた。父親がつけたものは薄くなり掛かっている。骨の浮いた白い肌がやけに艶かしく見え、目のやり場に困った。水尾はシャツを広げて溜め息をついていた。首を傾げて此方を見遣り、予備の釦と裁縫道具はないかと訊いてくるので、どうするのか訊き返したら、外れた釦をつけ、裂けた処を繕うのだという。
「そんなことが出来るのか」
「出来るさ、そりゃ。おまえは出来ないの?」
「そんなことやれないよ。普通だろ、そんなん」
 そういうもんかな、と彼は呟いていた。母親の裁縫道具を持ってきて、その中にシャツの釦も入っていたので渡したら、実に器用に釦をつけ、ほつれた箇所も丁寧に繕った。彼が女に生まれていたら父親もあそこまでの暴力を揮うことはなかっただろうし、母親の気が狂ってしまうこともなかっただろう。もしそうだったら、おれが水尾と親しくなることもなかっただろうが。
 どちらにしても彼は顔立ちからして女性的で、眉毛は薄いが大きな瞳で、下向きに生えているので目を開いていると気づかないが、驚くほど長い睫毛をしている。髪を自分で顔が隠れるように切り青白い顔をしているので、意地の悪い奴らは陰で妖怪だの悪魔だのと云っていたが、それは不気味に思えるほど美しかったからだろう。
 実際、大学に入って電車通学になった途端、水尾は痴漢に遭った。相手は男である。吃驚して逃げたらしいのだが、後ろから見たらルンペンにしか見えないのに、その男は何を考えて触ったのだろうか。大学の上級生に襲われかけたこともある。その時は相手の男を張り仆して怒鳴りつけたそうだ。本人は自分のことをまったく把握しておらず、何故そんな目に遭うのか判っていないようである。
 アルバイト先の先輩にも目を掛けられ、帰りに送って貰うので部屋に上げたら抱き締められたらしい。その男は彼を弟のようにして面倒を見てくれており、職場に来ないのを心配しておれの家まで訪ねてきた。


 同棲する女が外泊して、そいつが寄越す友人知人も来ない日には、その女のアパートへよく行った。彼は料理が得意であれこれ作ってくれるのだが、肉を使わないあっさりしたものばかりで、若者にはもの足りなく感じられる。胃が悪いのでどうしてもそうした味つけになってしまうのだろうが、まるで糖尿病食である。
 餃子を作ってくれと云ったら、彼は笑って「なんだ、肉が喰いたいのか」と云った。
「肉が喰いたいってんじゃないけど、水尾が作るのって精進料理みたいなのばっかじゃん。不味かないけど、肉っ気が慾しくなる」
 作れない訳じゃないと云うので、ふたりで近所のスーパーマーケットに材料を買いに行った。女とは此処にしか来ないらしい。仲が良いのに何処へも出掛けないのが不思議に思えたが、彼が云うには「あいつは他の男と出歩くのに忙しい」とのことである。
 餃子といっても肉は使わない。精肉売り場に行くと、水尾が肉は腐っていると云った。腐ってはいないだろうと云ったら、腐っているようにしか見えない色だと云い、これは性器の色だとまで口走る。慌てて口を塞ぎ「肉屋に謝れ」と睨んだが、彼は生活が生活なので、よく際どいことを云う。
 まあ、自分がどういう暮らしをしているのか訊ねられて正直に答えればそうなるのも無理はないが、高校生の生活とはとても思われない。扇情的な記事が載った雑誌にだって、あんな暮らしは載っていないだろう。
 餃子の種は台所で作り、それが入ったボウルと皮を載せた皿、水を入れた小鉢を持ち、水尾は食卓にしている白い座卓へ戻って来た。皮に具を載せふたつ折りにし、襞を寄せ包んで行くのだが、面白そうなのでやり方を教えてもらった。
「真ん中にスプーンで種を載せて、皮の周りに水をつけてふたつに折って、こうやって襞を作る」
 云われた通りやってみたが、彼のようには上手く出来ない。具を載せすぎだとか、そんなに引っ張ったら皮が破れるだろ、と云われながら数個作ったが、諦めた。どうもおれは不器用らしい。
 彼が亡くなって幽霊になると、ものを触ることが出来なかったのに何故かおれの家のものだけは弄ることが出来た。ので、身の廻りのことをあれこれやってもらうことにした。
 水尾にしても何も出来ない状態はかなり退屈だったらしく、掃除から何からすべてやってくれる。申し訳ない気もしたが、愉しそうにしているのでまあいいか、と気を取り直す。
 幽霊になったら気持ちが切り替わったのか開き直ったのか、前より明るくなった。別に暗い人間ではなかったが、雰囲気がどうにも陰気な感じだったのである。おれにはよく笑って巫山戯たことを云ったりしたが、それを他の者が見ると意外に思うらしく、ひとに依っては「水尾君って笑うんだ」と云っていた。
 彼とは幼なじみと云ってもいい間柄なので仲が良かったが、他人からすると度を越しているように見えたらしく、よくからかわれたし、ゲイだと勘違いされてもいた。
 馬鹿馬鹿しいので相手にしなかったが、おれも彼のことを抱き締めたり髪を弄り廻したりして、向こうも手を握ったりしなだれ掛かってきたりしていたので、誤解されても仕方がない。水尾が死んだのちに、皆が巫山戯て撮った写真を見せたら愕然としていた。身に覚えがなかったらしい。
 彼がいつまで幽霊として存在するのかは判らない。思い残したことをやり遂げたら消えてしまうのかも知れない。そうなる前に、生きている時にはやれなかったことをすべてやって慾しいと思った。

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