ディド通りの女主人

正直どぎまぎしてしまった。
そりゃ下宿屋の女主人は異国に独りできた貧乏学生の僕を親切からお茶に招いてくれたのだ。
日曜日の昼下り。
一番清潔でマシに見えるシャツを着て、もう少しで震えそうになる指を堪えながら僕は美しいリモージュ焼きのティーカップを手にとる。
白髪の混じる金髪を結い上げた女主人は瞳を細め、優しい笑みを口元に浮かべている。
そこに不自然なところは少しもない。
「デルフィーヌ、そんなにじろじろ見ては失礼でしょう」
女主人の声に僕は思わずティーカップを落としそうになる。但し気持ちの中で。
「ごめんなさいね。東洋の方がこの子にはめずらしいの」
デルフィーヌ。女主人がそう呼んだのは紛れも無く僕のはす向かいに淑女然として座るビスクドールのことだ。
そう、何の不自然さもありはしない。但し、人形が生きている少女のように扱われてさえいなければ。

ジャンの忠告は正しかった。いくら安いと言ったってあそこに下宿するのは酔狂ってもんだ。
彼はそう言って自分の頭の横を人差し指で軽く叩いてみせたのだ。
だけど折角のパリなのだし、僕はやっぱりこのフランス窓のある石造りの古風な館に住んでみたかったのだ。例え主が人形と暮らす少々頭のいかれたご婦人であるとの噂があったにしても。
「絵を勉強なさっているのよね?」
「え?」慌てて聞き返す僕に女主人は厭な顔ひとつせずにゆっくりと繰り返す。
「デルフィーヌが今度あなたの絵を見てみたいそうよ」
「よければ、今、スケッチしましょうか?」断る代わりにそう応える。僕はいつでも大きなスケッチブックと鉛筆を持ち歩いている。
「まあ、なんて嬉しいことでしょう」
嬉々とする女主人に僕の方はといえば次のお茶の招待はぜひとも断らなければと思いながらビスクドールのスケッチを始める。
しかし手早く仕上げようと思いつつも女主人の温かいまなざしに見守られていては真剣にならざるを得ない。漆黒の巻き毛に女主人と同じ藍色の瞳をしたビスクドールを丁寧に描いていく。
出来上がったスケッチを見せると女主人はとても喜んでくれて、ビスクドールにもスケッチを見せ、貴女はとても魅力的に描かれていてよ、と話しかける。そしてまた感嘆して、ええ、そう、本当に、生きているようだわと小さく呟く。そしてこれは絶対に飾らなければと立ち上がる。つられて立ち上がる僕を見て、女主人は微笑むと、いらっしゃいなと誘ってくれた。

その部屋は油絵でいっぱいだった。
若い花嫁と花婿。教会で誓い合うふたり。赤子を抱いての洗礼式。ブランコに乗る少女。ピクニック。海水浴。ポニーの乗馬。遊園地。クリスマスツリーをバックに同じ男女と小さな少女がまるで家族のように描かれて、それらの絵画で天井までの総ての壁が埋め尽くされている。それは例えるならまるで家族のアルバムのようだった。眺めていると絵の中に描かれた家族のうちの金髪の女性には女主人の面影があることに気づく。さらに少女の顔の方はビスクドールにそっくりだ。軽い目眩を覚え、視線を下に向けると低い飾り棚の上に置かれた兵服姿で黒髪の若い男の小さな写真が目に入る。その写真の男も絵の中の男によく似ている。
「アルフォンスと言うのよ」
女主人の声に振り返ると彼女は僕の傍にやってきて、アルフォンスの写真に微笑しながら言葉を継いだ。
「アルジェリアに行って市街戦の犠牲になったの。たった24歳で。こんなに愛している私を残して」
女主人はそう言うと再び微笑して、アルフォンスと同じ色の髪と彼女と同じ色の瞳をしたビスクドールを愛しそうにいつまでも撫でていた。

***

モンパルナスのディド通りをゆくと古い建物の間に細い路地がある。
その奥に白いフランス窓のあるこぢんまりとした石造りの館は今はもう残ってはいない。
若い頃、あのフランス窓に立って夫になるはずの恋人の帰りを待っていた女主人は、彼を失った後は、きっと得られたかもしれないもうひとつの人生を絵にすることで、ひとり生きてきたのだろう。

あの日、女主人とビスクドールとのささやかなお茶を共にした僕は、自分の部屋に戻ってから、日本で僕の帰りを待っているであろう彼女のことを想い、その夜、初めて長い手紙を書いた。

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