目の前に自分だけで作ったものはあるか?
人生には、たった一つだけ、超大切な事実がある。
もはや法則と言ってもいいだろう。
覚えておいてほしい。
これは師匠から教わった大切な話。
一生の宝になる、「人生はすべてプレゼント」の法則のお話だ。
おれの師匠は、いつも大切なことを教えてくださる。
師匠はいつも言うんだ。
「おまえたち、自分が何に支えられているか、分かってるのかい?」
って。
「色んなもんに支えられて、立たせてもらってることを、忘れるんじゃないよ」
って。
これは、すっげー深い話だけど、
誰にでも通じる、とっても身近なお話だ。
小学生だって、お年寄りだって、関係なく、
誰の人生にも大切なお話だ。
自分が、いろんな人に支えられて、ここに立てているということ。
それを忘れてしまう時、人はバランスを崩す。
オレだってしょちゅうだよ。
日本語には昔から、「踏まえる」って言葉がある。
「ありのままの事実を踏まえて」
とか
「今回の失敗を踏まえて」
とか
どれも、「足で踏みしめる」って意味から派生した使い方だ。
つまり、「一番下にあるものによって、支えられていることを忘れない」って意味が、この「踏まえる」って言葉には込められている。
「一番下にあるものを大事にする」って感性は、日本人になじみ深いもんだ。
「お辞儀」や「礼」の文化は、その最たるもの。
一番上にある「頭」を、一番下まで下げていく。
その所作には、「一番下にあるものを忘れない」という感性が込められている。
つまり、「自分ひとりでなんて生きてない」ということを、忘れないようにするってこと。
その逆が、「うぬぼれ」だ。
「うぬぼれ」は「自惚れ」って書く。その字を読むと、いわゆる「ナルシスト」だと思ってしまう。
それはもちろんそうなんだけど、その意味はもっと深いんだと、師匠は教えてくれた。
「自分ひとりで生きれていると思っていること」
それが「うぬぼれ」ってことなんだって。
アイタタタタ!、って、これを聞いて思ったよ。
オレはよくあるんだよ。
人に聞いた方が早いのに、なかなか質問しようとしなかったり、
なんか自分でキレイな正解をみつけようとしていることが。
そういうのが、「うぬぼれ」っていうんだよな。
それが、「ナルシスト」ってことなんだよ。
「自分だけで生きれている」って、カン違いしてるんだ。
そういう時には、「支えられていることで生きれている」ってことを、忘れてるんだ。
師匠に教えてもらったことで、ぜひやってみてもらいたいことがある!
これは、これまでにも何度か書いてきたことだけどさ、
「目の前に、自分でつくったものがあるか?」
を、確認してみてほしんだ!
机、とか。パソコン、とか。スマホ、とか。マグカップ、とか。
「これ、自分でつくったかな〜?」って。
一個づつ、指さしながら確認してみてほしいんだ。
そうすると、30秒もあれば、気づくだろう。
あれ?自分でつくったもの、なくねえ?
ほとんど全部が、誰か他の人が作ってくれたものだってことに。
「自分の」机、とか。「自分の」パソコン、とか。
「自分の」って思っていたものから、その「名詞」がはがれ落ちていくだろう?
そこにあるのは、「つながり」なんだよ。
「誰かが働いてくれたおかげで、今の自分の生活はあるんだ」っていう、当たり前の事実に気づくんだ。
それが、「踏まえる」ってことのはじまりなんだって。
そうすると、ビックリくらい、ただ「支えられて」しか、生きれていないんだってことが分かるだろう?
それが、すごく大事なことなんだよ。
なぜなら、このことが人生の基礎中の基礎だからだ。
植物でいえば根っこだし、野球でいえばキャッチボールだよな。
根のない草は枯れちゃうよ。
キャッチボールできない選手は試合に出れない。
それと同じなんだ。
あ、安西先生、バスケが……したいです……!!
素直になったときにだけ
人間は自分の本心に気づくんだ
「支えられていること」を忘れているとき、オレたちは「つながり」の中に入れなくなるんだ。
でも、人間は「つながり」でしか生きていないから、これはものすごい矛盾なんだよな。
そうなると、もう人間はメンヘラってくのさ。
でも、そんなのはつまらないだろう?
健康でいたほうが、生きることはたのしい!
元気に明るく過ごせるだけで、生きていることには価値があるんだって思える!
そういう「踏まえた」生き方のほうが、生きることはずっと気持ちよくて美味しいものだって、オレは師匠に教えてもらっったのさ。
師匠は教えてくれた。
「人生はすべてプレゼントだ」
って。
人生の事細か細部にわたる細部どれもこれも
「己の力だけで為したものなど無い」と断言できる。
と。
だから人生は、いつも誰かの犠牲の上に成り立っているんだぞ、って。
おまえの今の願いが「叶」っているのは、誰かが「死」の先を「見」てくれたからなんだ。
その「叶死見=かなしみ」のおかげなんだぞ、って。
その「かなしみ」の犠牲を想い出すことが、すなわち「感謝」なんだって。
目の前に、自分でつくったものがほとんどないこと。
それはつまり、
たくさんの誰かが犠牲になってくれて、用意された環境が「今」だってことだ。
この現在は、プレゼントなんだよ。
そこには、ちいさな「善意」の連鎖があるんだって、師匠はおしえてくれた。
たとえば、誰かが安全運転してくれたから。
たとえば、誰から早起きして田んぼに出てくれたから。
たとえば、誰かが雪かきしてくれたから。
たとえば、誰かが笑顔で接客してくれたから。
たとえば、誰かが残業してアプリをプログラミングしてくれたから。
たとえば、誰かが深夜まで動画編集をしてくれたから。
今、目の前にはいろんな「安全」や「たのしさ」がある。
ちいさな「善意」が降り積もった結果なんだ、って。
もうね、全員表彰しようぜ
表彰だよ!表彰!!
体育館に全員集合だよ!
だってそうだろう?
ぶっちゃけ、行きたくねー仕事だってあっただろうよ。
気分が乗らない日だってあるだろう?
みんな、オレたちとおんなじ人間だよ。
家でゴロゴロしてるほうが楽だろーよ。
寒かったり暑かったりしただろうよ。
腰とと膝とか肩とか首とか、痛めたりするんだこれが!
それでも、その誰かの仕事がなかったら、オレたちの目の前にある色んなものは、ここまで届いてないんだよ!
すげーバトンリレーじゃん!
箱根駅伝どころじゃねえよ!
なんなんだよ!きっとすげーことなんだよこれは!
なかなか目には見えないけど、すんげえことを一人ひとりがやってるはずだろうよ!
だから、そこにあるのは、いつも誰かの「叶死見=かなしみ」なんだ、って。
そのことを深く感じられることが、「人間の格」になるんだ、って。
誰もみてなくても、誰もほめてくれなくても、文句もいわず、せっせと働いてくれた人がいたんだと思うと、どうよ?
その上に、こうして息してられる自分をかえりみてみると、どうよ?
せめて、目の前のことを一生懸命やろう!
って、おもうよな。
せめて「できることやろう!」ってさ。
昨日のnoteにも書いたけどさ、
「才能」って、やっぱり誰かのために使うから意味があるんだろうよ。
だって、誰かに支えられてしか、「才能」なんてないんだもんな。
支えられた分、支えないと、おかしな話になってくるだろ!
そういう風にできてるんだって、そんなの子どもでもなんとなく分かっちゃう話だ。いわば本能だよな。
とはいいつつ、そんな大切なこともすっぽり忘れちまうのがオレの日常だ!
かなしいかな、それが現実。
もし君もそうだと感じるなら、
そのたびに、よくよ〜く、また思い出していこうな!
それじゃあ、またな!
つづくぅ!!
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