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何かを「見る」ことは、何かを見落とすこと。恋は盲目で、三葉虫は残酷。止まらない季節は夏へ向かってかけてゆく。

朝、目を覚ます。

まぶたを開け、カーテンを開け、パジャマのボタンを開け、部屋のドアを開ける。

数日前に満開だったソメイヨシノは、もう緑色の葉っぱをつけている。

足元では、灰色のアスファルトに、ピンク色の花びらが散りばめられているのをぼくは見る。

「見る」とはなんだろう。


ぼくの丸い頭蓋骨の中には、プリンのようにやわらかな脳みそが入っている。

その数センチ先には、1対の球形レンズがはめ込まれている。

そのレンズは光を捉え、電気信号に変換された情報は、脳細胞で映像として処理される。

朝。窓の外の公園。鏡に映る自分の顔。葉桜。アスファルトに張り付いたピンク色の花びら。

そうした映像が、頭蓋骨の前面に備え付けられた球形レンズからの情報として、脳内のスクリーンに映し出されてゆく。


「目」「眼」「eye」

このシステムを応用することで、人間は望遠鏡をつくり、天動説というカトリック教会の嘘を見破ったし、カメラをつくり、大勢の人間を暗い箱の中に集めて笑わせたり涙させたりする、さまざまな物語を編み上げたりもした。

ぼくらは目で見ることで、毎日さまざまなものを発見している。


「発見」とは、見えなかったものが見えるようになること、である。

コロンブスは、それまで地図上に存在しなかった西回りのインド行きの航路を「発見」した。

アメリゴ・ヴェスプッチは、それがインドではなく新大陸であることを「発見」した。

ピサロはその新大陸に膨大な金銀があるのを「発見」し、そこに暮らす濃い肌色をした民族のことを「発見」したが、彼らが奴隷や野蛮人ではなく、西欧人と共通の祖先をもつ人間であることを「発見」することはできなかった。


何かが見えるということは、同時に何かを見落とすことでもある。

すべてを同時に見ることはできない。

そんなことは誰にもできない。

それを可能とする存在——全知全能な存在——を、人は「神」と呼んだが、そんな存在はどこにもいない。

いるのは、ぼくらだ。

何かを見ながら、常に何かを見落とすことになる、ぼくらがいるだけだ。


夏目漱石は後輩に向かって、「I love you.」を「月がきれいですね。」と訳せ、と言ったという。

この話は元ネタ不明のいわゆる都市伝説らしいが、いかにも文豪らしいエピソードとして21世紀に広く流布している。


ふたりの男女が、見上げた先に月がある。

暗い夜空にしずかに浮かぶ、ぼくらの衛星である。

それはいつの時代も変わらず、明治時代でも、江戸時代でも、弥生時代でも。

古代ギリシアでも、アステカでも、ケルトでも、恋人たちが見上げた先には月があった。


恋は盲目で、だから月を見上げる恋人たちも、もれなく盲人だっただろう。

それでも構わない。

何かを見ることは、そもそも何かを見落とすことで。

何かを見ないことは、他の何かを見ることだから。

恋が盲目ならば、それはそれまで見えなかった何かを見ることになるのだから。


この丸い頭蓋骨の前面に備え付けられた球形レンズの起源は、今から5億4200万年前のカンブリア紀にさかのぼる。

「目」「眼」「eye」

そう呼ばれる器官を、この惑星ではじめて手に入れたのは「三葉虫」だと言われている。

平べったいフォルムに固い甲羅、そして無数の脚をもったこの動物は、今日のすべての昆虫の祖先にあたると言う。


「三葉虫」がどのようにしてその器官を手に入れたのかは分からない。

しかし、その「目」によって地球上の生物の進化に、かつてない大変動が生じたことを、動物学者のアンドリュー・パーカーは著書『眼の誕生』の中で語っている。


それまで目を持たなかったぼくらの祖先は、食うか食われるかの自然界において、とてもゆるやかな生存競争の中を生きていた。

実際のところ、それは競争とも呼べないような時間だっただろう。

そこにはたしかに食う者と食われる者がいたはずだが、その捕食行為はとても穏やかなものだった。

その様子を一変させたのが「三葉虫」であり、つまるところそれは「眼」によって引き起こされた変化である。


三葉虫は「眼」で「見る」ことにより、優秀な観察者、ハンター、捕食者となり、ほかのどの生物よりも効率よく獲物を発見し、捕まえ、食うことができた。

まだ「眼」をもたない他の多くの生物も、すぐにこの危機を察知することになる。

捕食されるものは、その身を守るために、固い外骨格で体を覆った。

それは選択の余地のない自然の選択であった。


「眼」の誕生。

そして「外骨格」の誕生。

地球上の生物のフォルムはたちまち変化し、苛烈な生存競争の幕が上がった。


このとき、「眼」を得ることもなく、「外骨格」で身を覆うこともなかったかつてのぼくらの友人は、5億4200万年前の遠い時間の中に消えてしまった。

ついに目をあけることのなかった彼らは、今日も時間の中で眠ったままだ。


時間の流れの中で生物はそのフォルムを変化させ、新たな機能を手に入れ、または失いながら、その情報はゲノムとして、細胞核の中、二重螺旋構造に刻まれている。

それを読み込むことで、役割を与えられた細胞の群れは、人体の各パーツとして機能することになる。


丸い頭蓋骨の前面に、1対のレンズが備え付けられたぼくら。

それが捉えた光を、映像として処理するタンパク質性のコンピュータをもつぼくら。

見ると同時に、つねに何かを見落とすぼくらである。


桜は咲き、かと思えば散りはじめ、緑色の葉っぱをつけて、季節の止まらないことを告げている。

季節の変化を見ながら、季節の変化を見落として、見えていると思いながら見落としていることを忘れ、見えないことを嘆きながらすでに見えているものを忘れているぼくらの上を、春は不完全なまま夏に向かってかけてゆく。

誰のためでもなく。

春は春らしく春を脱ぎ捨ててゆくことを。

ぼくらは見るともなくずっと知っている。





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