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人を育てられるのは結局人でしかなかったってオチがこの文明末路の笑いどころだ!

ちょっと前にNetflixで「浅草キッド」を観た。芸人・ビートたけしの自伝。その映画化。「師弟」を描いたドラマだ。監督は、おなじく芸人の劇団ひとりさん。しかしそこで描かれているのは芸人としての情熱より以前に、「師匠と弟子」という関係に流れる愛情、その美しさだ。

この映画を観て、あらためて確認させられるのは、「人を育てられるのは人でしかない!」という事実だ。


人は体だけ大きくなっても人にはならない。人としての大切な部分は、かならず人からじゃないと教われない。なぜなら人は社会で生きているから。人と人の交わりの中で暮らしているからだ。だから、人には、自分を育ててくれる他者がどうしても必要だ。

「師匠」って言葉がある。古い言葉だ。令和の現代じゃ、もはやファンタジーな響きすらある言葉だ。でも、いまこそ必要なのは「師匠」だ!

「先生」って言葉がある。「目上」って言葉がある。「先生」には、「先に生まれた人」という意味がある。「目上」には、「目の上に見上げる存在」という意味がある。どちらも、この世に自分よりも先に生まれ、長い時間を歩いてきた「先輩」「先達者」という意味がある。そういうおパイセンの背中を追いかける経験が、人を人として成長させてくれる。

ときに叱ってくれる「父」として、ときに勇気と元気を照らしてくれる「太陽」として、ときに自分の姿に気づかせてくれる「鏡」として、ときに一切を無視して舞い踊るただただ圧倒的な「憧れ」の対象として、いてくれるのが「師匠」だ。

そんな存在に、出会えた人生はしあわせだ。くすんだ命が輝きだす!


「浅草キッド」の主人公は若き日のビートたけしさんだが、物語の後半は、むしろその師匠・深見千三郎さんの生き様にカメラが向けられる。

「おれは”浅草の深見”だぜ?」と啖呵をきって不敵に笑い、最後まで芸人としての生き様を守り抜いた師匠。愛弟子のたけしさんが自分のもとを去ってからも、テレビへの出演を断り続けて死んだ師匠。

映画では、経営困難に陥っていた劇場・フランス座を売りに出す話を、ギリギリまで断り続ける師匠の姿が描かれている。師匠が劇場を売らなかったのは、劇場が惜しかったからじゃない。売れば「弟子」が露頭に迷うからだ。まだまだ教えきっていないことがあるからだ。技と情熱と生き様を伝えるまでは、劇場を失うわけにはいかない。師匠は師匠であり続けなくてはいけない。その「目下」を想う気持ちがあるからその人は「目上」なんであって、そこに男の誇りがある。約束を守り通す意地がある。

「人を育てられるのは人だ!」と思っていない人生には、誇りなんて生まれないんじゃないか。


自分のための人生、自分のための夢、自分のためのキャリア。平成の日本がバラまいた「世界にひとつだけの花」という個人主義の幻想は、枯れることのない渇いた造花だ。実をつけることのないニセモノの花だ。

自分は死ぬ存在である。あれこれあくせく生きてみても、結局なんにも残せず手にできず、灰になって消えていく。自分なんてむなしい。そう思えているから、人は人に賭けようとするんじゃないのか。それだから、師匠はフランス座を売らなかったんじゃないのか。最後まで、弟子であるたけしさんに、自分の技を伝えきることを、自分自身の使命だと心得たんじゃないのか。

だから、いまこそ「師匠」だ!

自分の人生だと自分で根深く思い込んだこのバカな頭に、そうじゃないと教えてやるのに、こんなにシンプルな目印もない。


この間、専門学校に通っている10代の後輩は「友だちと居酒屋に行くことすら珍しくてちょっとしたビッグイベント」だと言っていた。その前に会った10代の女の子は、大学にひとりも友だちがいないと言っていた。

別に陰気な子たちじゃない。明るくていい子たちだ。それなのに、彼ら彼女らは、想像以上に「人に会えていない」。「人を育てられるのは人でしかない」のに。それは彼ら彼女らが悪いのか?彼ら彼女らの自己責任か?違うだろう。

社会の構造そのものの問題がそこにある。歴史そのものの失敗がそこにある。じゃあ、その責任はだれにある?その社会を生きる人間、その歴史を生きる人間、全員にあるだろう。

「万物師なり」って言葉もある。人はみな、誰かの「弟子」になれるし、誰かの「師匠」でもあるという意味。身の回りのものすべてから、人は教わることができる。自分がそうできるなら、自分以外の他者もまたそうできる。そのとき、自分は誰かの「師匠」にもなっている。そんなのがグルグル回ってる。それでつくられるのが社会であり歴史だ。僕ら自身だ。

もちろん自分の生きる道において、決定的な特定の誰かがあなたの「師匠」になってくれたら、こんなにしあわせなことはないだろう。そこに生きる意味が生まれ、誇りが生まれ、芯が通る。

いろんな人がいる世の中で、強い人はほんの一握りだと思う。一人ひとりは弱い。たけしさんだって、深見さんが師匠じゃなければビートたけしにはなれなかった。人は人に育ててもらうしかない。そこに運命は切り開かれてゆく。そのことを忘れかけている文明の末路に、僕もあなたも暮らしている。もう笑えるくらいに忘れている、人の群れに囲まれて。

だけどその群れの責任は、誰かひとりにあるわけじゃない。誰かひとりが解決できる問題でもない。だけど、自分が変われば世界は変わる。その変化のさざ波は小さくても確実にどこかの誰かに届いている。それでしかないけど、そこに希望がある。人としての希望がある。

だからその小さなさざ波を、まずは受け取ること。変化を歓迎すること。その体験を与えてくれるのが、「師匠」なんだ。

つづく!!




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