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発達障害とは何か?日本型雇用慣行が作り出す魔物

お疲れ様です。アヒルです。三連休がいよいよ終わりそうだなということで、最後のアウトプットとして、そもそも発達障害とは何か、なぜ発達障害という障害が出てくるのかという点について書いてみようと思います。

発達障害者とは何か?

私は医者ではないので、発達障害者が医者の間でどのように扱われているか知りません。法律上で、例によって発達障害についての定義を調べてみると、発達障碍者支援法では、次のように発達障害が定義されています。

自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの

なんのこっちゃという定義ですが、これを更に政令まで見ていくと以下のように述べられています。

第一条  発達障害者支援法 (以下「法」という。)第二条第一項 の政令で定める障害は、脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもののうち、言語の障害、協調運動の障害その他厚生労働省令で定める障害とする。

ここでの法律上の発達障害者の定義のポイントは、「通常低年齢において発現」するものとされていることでしょう。どうも発達障害者における対策は、所掌が厚労省と「文科省」になっていることからもわかるように年少期の教育にもかなりの重点が置かれているようです。

ですが、これは必ずしも実態とあっていません。発達障害者がその苦しみに直面しなければならないのは、むしろ学校卒業後、社会に出てからだからです。発達障害者とレッテルを張られる人々の多くは、学校生活(中でも大学等)で自由に生きているうちはさほど問題視されず、実際に社会に出てから発達障害者の烙印を押され、その苦しみに直面する人々が多いです。

自分もその一人で、子どもの頃から様々なことにおいて苦痛を感じつつも、社会に出るまでは、まあちょっと変な子供としてどうにか生きてしまい、社会に出てから摩擦に耐えられずに一度破滅し、いまゾンビ(?)としてこれを書いている現状にあります。発達障害者は当人が障害を自覚せず、発達障害者である苦痛を感じていないうちは、さほど問題になりません。むしろ、社会に出て自己の特性を理解しないまま就職活動をしてしまい、自己の特性に合わない職を選んだ挙句破滅するパターンが多いと思います。

なぜ日本では発達障害になりやすいのか~日本型雇用慣行~

日本は発達障害者が多い国だと思います。元々発達障害者と健常者は厳密に分けられるものではなく、スペクトラムだというのが持論であり、多くの人が指摘しているところですが、全ての人には多かれ少なかれ、集中力不足等の発達障害者的傾向があります。また発達障害者は発現する障害の類も様々で、一人に当てはまる症状がほかの人々にも当てはまるとは限りません。したがって、一般的に、発達障害者が社会に出て成功する一番良い方法は、自分の特性に合った仕事を見つけることだと言われています。ところがこの自分の特性に合った仕事を見つけることが、ジョブ型の欧米社会とは異なり、メンバーシップ型の日本社会では困難なのです。

ジョブ型の欧米型、メンバーシップ型の日本と言いましたが、これは両者の雇用慣行の違いを端的に表すべく濱口桂一郎氏の著作などでもよく用いられている言葉です。ジョブ型とは、特定の職務内容等が厳密に規定された「ジョブ」があり、その仕事を資格や経験を持った人々を必要に応じて補充(リクルート)する雇用慣行を示します。それに対して日本の「メンバーシップ型」とは、職に就くことを意味する「就職」という言葉とはまるで異なり、仕事内容はあらかじめ定まっておらず、まずは会社の「メンバー」として企業に入り、異動を繰り返しながら、新しい職務をどうにかこうにかこなしすことで一人前の社会人になっていくという総合力(職務遂行力・応用力)が求められるのです。この人間的な総合力ということが曲者で、これが発達障害者にはまるでありません。発達障害者が苦しむ理由の一つだと思います。

日本は全般として健常者にやさしい世界だと思いますす。「健常者にやさしい」の意味するところは、大学時代は特に入社してからの業務に役立つことをしてこなかったけど、就職した企業で仕事を押し付けられた場合、四苦八苦しながらも何となく空気を読み同僚の力を借りつつこなせてしまう、そういった健常者にはまっとうにやさしい社会であるという意味です。ようはぶっつけ本番が得意な人にやさしいのです。これに対してパターン化で対応する発達障害者は致命的にこの日本型雇用慣行にあいません。これが原因となり、社会における「健常者」枠に入れない発達障害者が量産されていくことになります。

空気が作る発達障害者とそのスティグマ

先ほどの節でのべた通り、発達障害者は日本型雇用慣行には合わず、本来なら(というか諸外国のジョブ型雇用慣行なら)健常者のラインに入りうる人までもが発達障害者として認識されてしまうことになります。発達障害者を作るのは、当人の症状もさることながら、社会の許容度です。社会の空気がどの程度の人間を「健常」として許容するかで発達障害者は作り上げられていくことになります。

それゆえ、発達障害者は普通から外れた人として、社会不適合者の烙印を押されることが往々にしてあります。これは半分あっていますが、半分間違いです。あまりに多くの人々が自らを発達障害者として烙印を押されざるを得ないのであれば、社会そのもののあり方に目を向けることも考えなければらなないと思います。

そうはいっても社会は変わらない

とはいえ、世の中で発達障害者大革命なるものを起こすのは不可能です。結局発達障害者が生きていくには、発達障害者自らが少しでも自分の特性を理解して仕事や家庭を築き上げていくことが必要になります。そのためのライフハックはたくさんあります。社会が変わらない以上、変わっていかなくてはいけないのは我々です。今日もえっちらおっちら生きることを頑張っていくしかない。そう思うアヒルでした。

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