弱さと承認欲求と優しさについて。優しいことと強いことは両立するのか?発達障害者の雑感
こんばんわ。アヒルです。本当は今日はもう少し勉強して明日からの仕事に臨むつもりだったのですが、何となくつらーい気分になってしまったので、ノートに記事でも書いて気を紛らわそうかなと思い、雑感をまた投稿させていただきます。
発達障害者の人は優しい…という持論を私は持っています。これまでの経験や、巷で聞く話からして、ADHD傾向のある発達障害者の人は、どうも一般的に優しい傾向が強いそうです。優しいってそもそもなんやねんという話もありますが、まあそれは置いておいて、おそらく自分がつらい抑圧経験を重ねてきた結果、人にやさしくする機能を身に着けたのだろうと思っていました。とすると別に発達障害者に限らないじゃん、とも思いますが。ところが、この発達障害者は優しい説に矛盾する異論が来ました。
白饅頭さんの記事では、(有料記事なので引用はできませんが)、発達障害者が特別に優しいということはなく、経済的、社会的に不利な立場に置かれる分、周りが横暴に見えてしまうだけなのだという悲しい(?)結論が書かれていました。なるほど、それはそうなのかもしれません。そうなると発達障害者は別に優しいわけではなく、社会的に雑魚だから、優しくないと生き残れないから優しくならざるをえないのかもしれません。ここから敷衍して、発達障害者の方でも社会的経済的に有利なポジションに立った場合には、健常者と同じく、否、その経験ゆえかそれ以上に冷酷非道にふるまうこともありうるとの見方が記されています。
発達障害者の人にとって、というか自分にとって、周りが横暴に見えることはよくあります。自分であればそんなところで、怒ったり、怒り狂ったりしないであろうところで怒りや残酷な反応を示す他者を見ることがよくあります。そういうところを見ると心底疲れてしまいますが、まあ、それはさておき、ここでの議論の本筋は、じゃあなぜ発達障害者は優しく見えてしまうのか、自分の優しさは嘘だったのかというところです。
ここで自白してしまいますが、私は時々自分のことを優しい人間だと思うことがあります。自分で言うのもなんですが、あんまり人に怒ることはなく、電車では年寄りを見るとなんとなーく席を譲り、障碍者や車いすのひとが困っているのをみると悲しくなってしまう人間です。なのでぼんやりと自分は優しい人なのかなと思っていました。その割には、ときたま冷酷非道なことをしてきた自覚はあるのですが、相対評価として、優しいのかなーと思っていました。
でもこの優しさは、よくよく考えると、発達障害者であることから派生するものとは無関係だったのかもしれません。むしろ、優しくしないと生きていけない、自分の存在価値がないという醜い承認欲求の高さの裏返しだったのかも…という気がなんとなくしてきました。そもそも、発達障害者は抑圧経験が多いせいか、自分に自信がなく、他者からの承認に飢えていることがよくあります。また、社会的に弱い立場にあるせいか、中途半端に切れたりすると、逆襲を受けて殺されてしまうため、何となく怒りたくなることがあっても押し殺さざるをえないところがあります。結局のところ、ADHDの優しさは、その承認欲求や弱さの裏返しにすぎず、やさしさでもなんでもなかったのかもしれません。
ここまでが耳に聞こえの悪い真実で、ここからがちょっとした希望です。自分が人にやさしくしたときのことを思い出した時、そこまで打算で動いていたかな、と冷静に思い返してみました。たぶん違うと思います。そもそも、発達障害者である私は、考えることができないわけではないのですが、それ以上に衝動で動くことが多いです。人にやさしくする行動を選んだ時には、たいてい後先のことを考えて優しくしているのではなく、とっさに体が選びとったことをやっているだけです。そこにはADHD特有の衝動があり、打算的な計算はありません。
鬼滅の刃のスピンオフの煉獄さんの独白にこういった一節があります。
人生は選ぶことの繰り返し。けれども選択肢は無限にあるわけではなく、考える時間も無限にあるわけではない。刹那で選び取ったことがその人を形作っていく…誰かに賞賛されたくて命を懸けているのではない。どうしてもそうせずにいられなかっただけ。その瞬間に選んだことが、自分の魂の叫びだっただけ…
ADHDが衝動で行動する人たちの集まりなのであれば、彼らがとっさにとった行動には、彼らの魂の真実があるのかもしれず、その選択が優しさなのであれば、ADHDの人たちは、本当に優しいのかもしれません。
優しさと善性は直接リンケージすることではありません。世の中に害なすやさしい人(俺)みたいな人もいれば、スティ―ブ・ジョブズのように世の中に多大な貢献する優しくない人もいるのかもしれません(極論すぎますが)。ただ、刹那で選び取った選択肢が優しさだったADHDの人たちは、自分たちが優しい人間であることを少しだけ誇りにしてもいいのではと思いつつ、きれいごとを書いてみました。ではまた。
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