見出し画像

不倫する友人たちとド正直な私

 「なんだかもうものすごく嫌」になったのは、結婚式の帰り、一緒にいた友達が最寄りで降りて、電車の中で一人になった瞬間だった。

 友達の雑魚モテエピソードを、乗り換え含めて1時間半ものあいだ聞かされたから、というのもあるだろうし、披露宴の最中に撮った写真の中の自分が、たいそう不細工だったのも原因としては考えられる。

 だけど何より、一番の原因は挙式した友人。彼女は2年くらい、他人の夫に手を出していた。

 私は彼女のことが大好きだし、不倫体質であることも知っている。男性に崇められることが何より似合う女の子なのだ。だけど、ついさっき彼女が私の目の前で永遠の愛を誓っていたということ、それがもうものすごく嫌だった。

 思えば、ずっと仲良くしている男の子も、奥さんがいるのに私までいただこうとするし、長いこと会社の上司と関係を持っている友達だっている。

 私は彼女たちのそういうところが大嫌いだけど、はたまた彼女たちがとても優しくて楽しくて面白い人たちであることは間違いない。この記事を書くのも躊躇うくらいには、私は彼女たちのことが大好きでもある。

 そもそも、不倫も浮気も気軽に出来る人たちは、往々にして優しくて楽しくて面白い人たちなのだろう。銭婆が「竜はみな優しいよ、優しくて愚かだ」と言うように。だからこそ納得がいかないこともある。

 私は私の世界でいちばん好きな人のことを、かれこれ6年ほど好きで居続けてる。なんなら、彼女らが今の結婚相手と出会うよりも先に、私は私のダーリンと出会ったし、この人の最期が私とともにあることを願ってる。でも、私だけが結婚してない。

 もちろん、別れていた時期だって長さがあるし、遠距離だからタイミングが掴めないってこともあるだろうけど、それにしたって。

 なにも彼女たちを責められるほど清廉潔白な人間ではない。だけど、あまりに不平等すぎて、お天道様の存在を疑いたくなる。どうして彼女たちは結婚に辿り着けるのだろう。

 もし、彼女たちと私の間に大きな差があるのだとしたら、それはエリクソン的な、発達段階における正しい男女交際の有無。適齢期に適切に交際したり、恋愛したり、正しく男女関係を歩んできた人にしか得られないものがあるのだとすれば、私は間違いなく、それを持っていない。

 20歳の誕生日前に、誰にも選ばれたことがないのを焦って、以来マッチングアプリで出会った人としか付き合ってこなかった私は、彼女たちが持っている〈結婚に辿り着けるだけの何か〉を持っていないのだろう。

 この感情が、シンデレラ・コンプレックス的な「いい子にしていればいつか王子様が」に過ぎないことはわかっているし、結婚がゴールではないことも知っている。だけど、辿り着けないことそのものが私を不安と不信で満たしていく。

 見わたせば、芸能界にドラマや漫画、果てはYouTubeの広告まで、世界は不貞の言説で溢れている。くわえて、親しい人たちも。

 社会と友人たちの手によってに植え付けられた不安と不信は、いくらダーリンが誠実(というよりも、不貞をはたらくほどのマメさがないのかもしれない)であろうと、拭い去れない。リレーのアンカーを無邪気に愛せた日々は、もう取り戻せないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?