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世界は「仕事」でできている

結婚していく知人が多すぎて、さすがに動揺してきた。寿退社して家庭に入る女性が増え、「あの子が仕事を辞めた」という噂を耳にする。
その報告をSNSで見るたびに、いくら仕事が好きとか言っちゃってるわたしでも、かなりビビってる。多分、彼らは結婚するには早い方なんだろうけれど。
わたしとそんなに歳が変わらない方達がどんどん入籍していくのを見ると、そして身を固めていくのを見ると。
今いる自分の場所に急に自信がなくなって、グラグラ足元がぐらつく。

このまま働いて、わたしは何になりたいんだろうか。そもそも働くことになんの意味があるんだっけ。この仕事、なんの役に立ってるんだろう。
そんな風に考えるようになった社会人2年目。
結婚していく人はもちろんのこと、いつかは結婚したいとか、今の彼氏とこうなりたいとか、周りの女の子がそんな話をしてくることも多くなった。何歳までに結婚して、子供は何人くらい欲しくて、こんな家に住みたいとか。「女の幸せ」を語る彼女らに、上手に返す言葉が浮かばない。
仕事のことをイキイキと話してくれる女の子は、世間には意外と少ない。美味しいご飯の話とか、気になる男の子の話とか、今度の休みの遊びの予定とか、そんな話はいっぱいしてくれるのに、「わたしこんな仕事しててね!」って話してくれる女の子は、全然いない。
そんな中、その子たちの前でわたしも自分の仕事の話もできなくなって、なんとなくその女の子たちから距離もとるようになって。
人間関係がいつのまにか断捨離されていくことなんのその。今やわたしには、片手で数えるほどしか親しい友人がいない。なんてこと。

女が死ぬ気で仕事をするのって、おかしいんだろうか。結婚って、そんなに幸せなのかな。女の幸せって、何。

わたしには人生設計が、まだできていない。10年後どうなっていたいか聞かれても答えられないし、今目の前にある道を選択するのに精一杯。3年後までならどうなっていたいかははっきりわかるけれど、「長い目で見て」を考えるのが苦手だ。今でいっぱいいっぱいで、器用に先のことを考えられない。
目標がないと成功しないということはわかっているけれど。3年ずつでしか考えられないこの頭のキャパ、やっぱりポンコツなんでしょうか。

だから当然、結婚なんてずっと先のことだと思ってた。まだきっと出会っていない人がたくさんいて、その中でいい人に巡り合ったら自然と結婚するもんだって、漠然と思ってる。
今もそんなに結婚についてちゃんと考えられていない。
人間はどこまでいっても他人なのだから、まずはひとりで生きていける力を得ることが最優先だと思っている。ひとりで生きていけないやつが、ふたりで生きていけるわけなんかない。
働く力を得てからその先を考えようって、ずっと心のどこかで、結婚について曖昧なままにしてた。

だけど、人って何のために働くんだろう。結婚を考えられないなら、そして仕事をそんなに頑張りたいっていうのなら。
そもそもわたしって、なんでこの仕事をしてるんだっけ。そんな風に考えてしまう。

結婚もさながら、『転職』をしてレベルアップしていく人たちも多い。同世代で次の会社で新しいことに挑戦する人たちがいる中。
この会社でわたしは何ができるんだろう。
本気で考えすぎて、いつも具合が悪くなる。
もうずっと、具合が悪い。

「さくさんのお仕事はキラキラしてて楽しそうですね!」とか、「好きなこと仕事にできてていいよね」なんて言われるけれど。
ほんとうは全くキラキラなんてしていなかった一年半。
編集という仕事に憧れて今の会社に入ったあの頃。たしかにわたしは、華やかな仕事に就けた自分に大いに酔っていた。そりゃもうずっと憧れていて、貰ってた内定を蹴り飛ばしてニート寸前でねじ込ませていただいた会社なのだから、夢に見た編集ができるということに、ワクワクしないわけがなかった。

『プラダを着た悪魔』を見るたびに、アンディに感情移入しすぎてきもいくらい泣いていた。『校閲ガール』は小説もドラマも観たし、『重版出来』はわたしのバイブルだ。
泥臭くていいから、とにかく1つの作品を作るために懸命に働く。でもおしゃれもぬかりなく、女性として凛とした生き方をしたい。今も昔もずっと心に誓っていて、ぶれずにいたいと思っていたはずだった。

そんな世界に憧れて飛び込んだ編集の世界は、わたしが思い描いていたものではなかった。地味でコツコツした業務が多いし、入稿・校了で全然家に帰れない日もあるし、企画が思い浮かばなくて苦しい日が続くこともある。

やり直しが効かない紙の世界、その重圧から逃げ出したくなることが何度もある。
一度印刷してしまったら、どんなに頑張ってもやり直せない。誤植があれば、正誤表(間違った箇所を訂正するぺら紙)をいれたりシールを貼ったりすることもあるけれど、そんなものは本来あってはならないものだ。自分で編集する以上、そしてそれを共に作ってきたクライアントがいる以上、すべては編集者の責任になる。

もっと。
楽して要領良く、力を抜いて、全力じゃなくとも稼げる仕事があるのかもしれない。ボーナスもちゃんと出て、友達と平日飲みに行ったり、オシャレして合コンしたり、デートしたり。オフィスラブしちゃったり、同期会でわいわいしたり。

それは全部、わたしにはないから。
そういうものを手にしている周りの人たちに、わたしはずっと、強がってるだけで憧れてた。あるのが当たり前みたいに時間とお金を消費している同世代の友達に、嫉妬してた。
その道を選ばなかったのはわたしなのに。
今いる環境にわたしはいつも不満だらけだ。
こんな必死になって、休みもちゃんとない編集の仕事にこだわるのは、もはや変態でしかない。やめてしまえば、多分楽だ。

自分の中で仕事に対する疑問が上がったとき、同時にふと思ったことがある。

どうして編集者になりたかったんだろう。

改めて思い返すと、やっぱりわたしは、最初から思っていた2つのことから変わっていない。

ひとつは、「活字で何かを伝えたい」ということ。昔自分がいじめられていたから、それを変えたのは文字の力だったから。何かを伝えるには、書くことだって、それはずっと変わってない。今だって、書くことは好きだし、この先もずっと書いていきたいと思っている。商品の良さとか魅力は、文字で伝えたい。

もうひとつは、「ちょっとだけいいものを提供したい」ということ。なくてもいいかもしれない活版物。本も雑誌も、世界から無くなっても人は生きていけるかもしれない。

だけど、それを通して人に楽しさやワクワクを届けられたら。誰かの毎日が、少しだけ楽しくなるかもしれない。学校や仕事から帰ってきたら読もうとか、そういうのでいい。毎日を生きる人々に、ほんの少しでいいから心踊る何かを届けたいって、そう思って仕事をしてきた。

そんなのは、きっと全部綺麗事なのかもしれない。
わたしの思いとかよりも、もっと社会の役に立つ仕事をすべきなんじゃないか。そんな風に、もはや自分の仕事を見下す日々が続いた。
本なんてなくていいって自分で言っちゃってるし、活字なんて読まれなければなんの意味もないし、じゃあなに出版ってもういらないんじゃないか、自己満なんじゃないか。
ぐるぐる止まらない考えに潰されて、仕事に集中できない日々が続いてしまった。
何のための編集者なのか。自信がなくなって、泣きたかった。疲れすぎて泣けもしない。

そんな最近。あるできごとがあった。

私が企画をしたとある本。割と可愛くできて、今でも自分で使っちゃってるんだけど、自分で何から何まで成し遂げた一冊の本のはなし。

出来上がった時、心から嬉しかったのを覚えている。初めての自分の企画、編集ってこういうことなんだって、目が潤んだのを覚えている。
仕事をしていく上で、だんだんと本が出来上がる感動が薄れていった。できるのに慣れてしまって、喜びよりもむしろ失敗がないか怯えるばかりだった。
会社に入りたての頃に感じていた、モノが出来上がったときの喜びを、いつのまにか忘れていた。

その最初の本を作ってから一年後の最近。
インスタでマーケットの調査をしてたとき。
わたしが作った本が目に飛び込んできた。
小学生にあがる娘さんがいるお母さんだった。
びっくりした。まさか一年前に作った自分の本が、そんなに楽しそうにみてもらえているなんて、時間が経ってもそんな風に使われるなんて思わなかった。びっくりして、もっとインスタを漁った。その本だけじゃなくて、今まで作ってきた本たちのことも探した。
たしか見てくれてる人がいた。わたしはもう、あたりまえだったのに、それをずっと喜んでくれてる人がいた。

何のために作っているのか、わからなかった。
銀行とか保険とか、教育とか建築とか。そういう、社会の役に立っているものこそが仕事なんだって、ずっと心の中で思ってた。わたしはわたしが作りたいものを作っているだけの、仕事なんてできてないつまらない女なのかもしれないって、多分モヤモヤしていた。見ないふりしていたけれど、嫌な感情はこびりついて離れてくれなかった。

だけど、わたしがつくったものが、この親子の何かを変えたんだと思った。学校に行く楽しみの1つになれたのかもしれない。子供を応援するお母さんの背中を押せたのかもしれない。
そう思えば、「ああ、わたしって仕事してたんだ」って実感できた。ちゃんと誰かの役に立ててたんだって、ちょっといいことできてたんだなって。
忘れていたことを思い出した。

それに気づいたとき、会社でひとり、泣き崩れた。夜中で良かったって、安心した。

そういえば昔。まだわたしがスターバックスで働いていた頃、常連のお客様とこんなことがあった。

ある日、いつもいらっしゃるお客様が元気が無かったので、どうしたのかと尋ねた。
飼っている犬が具合が悪くて、死んでしまいそうだ。そう言って泣きそうな顔をするお客様に、なにかしてあげたくて。
頼んだスコーンがのってあるお皿の端に、犬の絵を描いて「元気出してください」とメッセージを添えた。
そしたらその方、その場で泣いて喜んでくれて、何度も「ありがとう」とわたしに言ってくれた。ありがとうって、泣きながら。
後日、犬が元気になったと報告をしにきてくれた。さくさんのおかげで元気が出ました!ありがとう!って、めちゃめちゃ大きい、しかもわたしの大好きなマカロン屋さんのギフトボックスを持ってきてくれたっけ。もったいなくて、その箱は捨てられないでいる。

接客しててよかったな、仕事をしててよかったなと思ったのは。
こんなふうに、お客さんが喜んでくれる瞬間を迎えた時だったと気づく。
その時は接客だったから目の前のお客様の顔がみれたけれど。

結局仕事とは、自分以外の誰かの生活に触れることなのだと思う。働いて、先につながる誰かの姿を観れた時、初めて仕事というのは形になるのだとわたしは思った。

この携帯も、SNSも。人がいなければ成り立たない。AIが居たって、人がいなければ使う人がいない。
歯ブラシも靴下も、コンビニも、光も水も。わたしの知らない誰かがつくって提供してくれているから、普通に生活ができている。それをつくってくれている人も仕事をしていて、毎日を生きていて、どこかで息をしている。なかなか顔は見えないけれど、どんな仕事にも人がいるのだ。

私たちが住む世界とは。わたしたち自身がしている仕事はもちろん、わたしたちがしていない他の誰かがしてくれる仕事でできている。そこにはきっとその人たちなりの思いや事情があって、でも生きていくために仕事をしている。

仕事を通じて、自分ではない誰かに何かを与えられているということを、いつも私たちは忘れてしまう。それこそ、わたしのきっかけはとてもあからさまではあったけれど。
気づけば、周りで自分の仕事が誰かの役に必ず立っているのかもしれない。

その仕事が、ちょっとでも自分にとってワクワクできるものであれば。
もっと大きな力になるかもしれないから。
全力で「好き」を仕事にしたいって、強く思うんです。馬鹿みたいにダサいだろうし泥臭いし、女の幸せ掴める働き方じゃないかもしれないけれど。
こんなわたしでも。社会の何かを、そして社会にいる誰かの生活に、ちょっとだけワクワクする何かを届けられたらいいって、本気で思う。どんな環境にいても、自分の仕事の先につながるその顔があることを、わたしは絶対に忘れたくない。
忘れかけていた仕事への想いを、少しだけとりもどした久しぶりの休日でした。

明日も頑張って仕事しよっと。

#エッセイ

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