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嫌いな人のSNSをわざわざ見てしまう心理

どう見てもわたしのことが嫌いなはずなのに、わざわざ自分からわたしに絡んでくる人がいる。インスタグラムに投稿すれば絶対にいいねをしてくるし、ストーリーズを見る速度もむちゃくちゃ早い。
裏であれこれ、わたしがいないのをいいことに、あることないことわたしに関する下品な愚痴を言っているのも全てお見通しだというのに、先日はわざわざFacebookの友達申請まできた。わたしに同意するような、華やかなコメントまでしてきたこともあるけれど、はて。裏でしていることが分かっているからこそ、わたしはいつもそれを真顔で見て、受け流している。
あの人は、一体なにがしたいんだろう。ここ最近の疑問だ。

こんな風に記事を書き始めてからは、望んではいない心無い言葉を投げられることも確かにあって、いつか質問箱を通して匿名で誹謗中傷してきたのもこの人なのかもしれないなと、曲がりなりにも出版社で働き文字や表現に触れてきたわたしは、書き手の顔が思い浮かんでしまった。多分これに間違いはない。謎の自信がある。

長文で送られてくる、憎しみなんだか嫉妬なんだかよくわからないメッセージを見返して悲しむことはなくなった。あのころのわたしは、自分の意見を言うことが怖くて、声を上げて周りにどう思われるかをすごく気にしていて、見られているかもわからない自分への目線が怖くて仕方がなかった。書き始めた当初は貶されたりすることにも慣れていなくてやっぱり嫌だったし、好きな人にさえ嫌われてしまう気がしてすごく怖かったけれど、今となってはなぜこれに自分が傷ついていたのか、ようわからんわ、とまで思える。
それほどまでに、周りは自分を気にしていないけれど、まさか読んでいないだろうという人ほどわたしの記事を読んでいて、いつのまにか好かれたり嫌われている。面白いなと思う一方で、わたしを嫌う人を惜しいとは思わず、むしろ好いてくれる人がわたしが好きな尊敬できる人ばかりでありがたい。振り切って、信念を持って行動していれば、好きな人を寄せ付けるのだなと、感動する今日この頃。
発信のいいところとは、そういうことなのかもしれない。

悪意ある行為に心が揺れなくなったのは、幸いなことにそこまで無駄なことを考えるほど暇ではなくなったと同時に、本当に一緒にいたい人とだけ居れる人生を選べるようになったからかもしれない。巡り巡って、今の私の周りには、ほんの一握りではあるけれど、尊敬できる人しかいない。

どんな生き方をしていてもどうせ誰かには嫌われるんだから、だったら自分の思う正義ってやつを、好きな人に対してはいくつになっても守りたい。ヒーローでも教祖でもないから、矛盾なしの意見なんて言えないし、人間だから好き嫌いもはっきりしているけれど、それでも自分が選んだものに後悔はないし、切り拓く道はどこまでもまっすぐだと、胸を張って言える。
雑音は正直、どうだっていい。

ドMかなんなのか、わたしを嫌いなその子は、わたしがインスタにあげる写真を隅々まで見ているのだろうし、noteに書く記事に矛盾がないかどうかをわざわざ分析してくれているようだし(読み返したり誤字修正とかあんまりしないんです。矛盾だらけですみません)、わたしよりもわたしのことを観察している気がする。書いた本人が忘れたことですらチェックしてるのだろうし、やることのひとつひとつにきっとイライラして仕方がないのだろう。それでも気になるから見てしまう。
それほどまでに見てくれて、ありがとうね、って感じだけれど、なぜ望んで辛い思いをしたがるのか、どうして嫌なものを見たがるのか、わたしは不思議でならない。見なければいいものをわざわざみて憤って、ギャンギャン吠えられても、ちょっと困る。
わたしだったら、この人とはもう関わりたくないと思ったら、もう自分からバッサリ切ってしまう。大人だからグレーゾーンを守らなければいけないこともあるけれど、私生活では自分が一緒にいたい人は、自分で選べると思ってる。そういう生き方をしていれば同じような考えの人と出会えたし、それが縁だし、無理やり繋ぐ関係なんて、息苦しくて仕方がない。自分が居心地がよくなければ相手を心地よくなんかできない。
まずは、自分を整えること。自分と会う人を探すこと。取捨選択は自分次第だ。

取捨選択の話が出てきたところで、これはまったくの余談だが、たまに「仲良いと思っていたのにSNSのフォロワー外されました」と嘆く人がいる。それを聞くたびに、それで悩むならもうSNSなんかやめちまえ、と極端なことを思ってしまうのはわたしだけなんだろうか。自分が相手と仲良しだと思っていたら、SNSは絶対に繋がっていなければいけないんだろうか。フォローをするのが自由なら、外すのも自由だろう。相手と繋がっている事で安心しているのは、多分自分だけだ。
ときに、相手の断捨離に自分も含まれているとわかると悲しくもなるけれど、自分が捨てても相手が捨てても、結果は変わらないのだ。フォローの有無で一喜一憂していては身がもたない。きっと自分だってこれまで人をどこかで切り捨ててきたのだろうし、巡り巡って、自分が切られる立場になっただけなのだ。
そう思うことにしてドライにSNSを楽しみたいと、noteを始めた時からなんとなく思っている。身を削るくらいなら、インターネットなんてしないほうがいい。情報なんて、なくても生きていける。
なかなか難しいけれど、SNSなんて趣味程度で楽しむくらいがちょうどいい。

嫌いな人や生理的に無理な人って、誰にでも存在し得ると思う。何をどうしても分かり合えないとか、なんかダメだなとか、波長が合わないだとか。お互いに問題があるのではなく、もうなんか本能的に合わないのだろう。全員とわかり合うなんて無理なことだし、だからこそ分かり合えて愛しあえた存在は貴重だし、手放したくない。つまらない見栄やプライドで、大事な人を無くしたくない。みんなにいい顔をする必要なんかないけれど、嫌いな人にこそ丁寧に接したほうがいいと、経験上思う。こちらに隙があれば、それこそヤツの思うツボ。
相手にしないでいれる無の境地と、さりげなく避けられるスルースキル。これがあれば大抵の厄災からは逃れられる。

思うに。

嫌いな人のSNSをわざわざ見てしまうのは、その人が今日も自分にとって嫌で不快である存在だと認知して、その人を嫌いな自分に対して安心したいからなんじゃないだろうか。気に食わないアイツが、不幸であることを確かめたいんだろう。
何をしているか、誰といるか。多分そんなことはどうだってよくて、自分が思い描いた通りに相手が嫌なヤツであって欲しくてわざわざ観察するのだ。また変な記事書いてる、ああうざい。またなんか呟いてる、ああしんど。誰かにアピールしてんのかこの投稿、きもっ。
ひとつひとつ否定して、自分の中で嫌いなアイツを、いつまでも嫌いなまま、気にくわないままにしておきたいだけなのだ。嫌いな奴は、嫌いなままでいることが正しい。悪い奴であることが正しい。一方通行で見窄らしい偏見である。
その人が活躍したり、幸せそうにしているのをみれば、隙を見つけて叩きたくて仕方が無くなるのだろう。粗探しのプロである。

わたしが書くこと、わたしがつぶやく事、舐めるように全部見て自らイライラすることで、「あ〜こいつやっぱり最低〜無理〜好きになれないしうざい〜あーやだやだ今日もやなヤツ。こんなやつにイライラしてるわたしかわいそう!あーばかみたい!ほんときらいー!」って思うことで、嫌なヤツであることを認知して安心したいんだろう。わたしが隙もなく叩きようがないくらい完璧でいい人で、運良く活躍させていただいた暁には、その幸せに落とし穴がないか徹底的に探すのだろう。思うように相手が不幸でないと、自分がやるせないのだ。

まあ、多分あれだ。

この手のタイプの人は、大体暇なんだろう、とわたしは考えることにしている。おおよそ、時間を持て余しているのだ。暇だから、わざわざ嫌いな奴のSNSをパトロールしちゃうんだな。忙しい時にそんなことで労力を使うバカはいなかろう。暇つぶしだがなんだか知らないが、相手を使って自分の負の感情を満たしているなんて、無意識に相手を片手に一人でエクスタシー感じちゃってるなんて、なんか……ちょっと怖いです。

好きも嫌いも、関心で成り立っている。向かうベクトルが違うだけで、相手に興味があることに変わりはない。好きの中には、尊敬や憧れ、親しみや愛など、プラスの感情があるのはいうまでもなくて、嫌いの中には、嫌悪感や不快感の他に、なにかしらの嫉妬や羨望も混ざっている気がする。嫌いな人が持っている何かに、自然と嫉妬しているのかもしれない。自分にないものや、自分ができないこと、しようとは思えないけれど自分に成し得ないことをしている相手に、興味があるからこそ心が動くのだ。どこかしらに惹かれるものがなければ、嫌いという感情は生まれない。

時たま、相手にSNSの投稿で、自分のことをひどいように書かれていたらどうしよう!とネガティブな感情で相手に執着する人ががいるが、まあそこは安心していい。
自分が不安な時こそ、相手は自分に興味がない。だいたいこんな時は、自分が自意識過剰なだけなのだ。よく食べてよく寝たほうがいい。

攻撃してくる何処かの誰かは、たしかにちょっと迷惑だしやめてくれとは思うけれど、その人の人生は多分この先わたしと交わることはないから別にいいかな、と思う。攻撃しなければ憂さ晴らしができないのであろうその生活を想像するとちょっと気の毒だけれど、わたしでストレス発散する事で誰かに優しくできたりするんだろうか。わたしにクソみたいな態度取るなら、せめてあなたの好きな人が離れていかないように間違ってない接し方をしていてくれればいいな、なんて思う。知らんけど。

いじったら痛いと分かっている口内炎こそ、いじってしまう。痛いのに、治らなくなると分かっているのに、気にしてしまうからそこにあることを忘れられずいじって、ますます痛くしてしまう。
多分、嫌いな奴に関わろうとするのは、それと同じ心理だ。触らぬ神に祟りなし。できてしまった口内炎にはそれほど罪はなく、できる要因をつくり傷口を広げて痛めて続けているのは、大抵自分だ。

自ら嫌いなものに近づき、誰かを悪者にする事で自分がいい人になったところで、果たしてそこに幸せはあるんだろうか。まわりくどく自分の不安を不安で埋めたところで、脆い土台が崩れ落ちていくだけなんじゃないだろうか。
批判をする相手に非があるように見えてしまうけれど、相手を嫌う自分に原因があるかもしれないのだということを、嫌う側でもあり嫌われる側でもあるわたしは、秋の夜空の下でひっそりと囁きたい。自分が近づかなければ、多分相手は近づいてこないのに、自分の欲求のために相手に近づくのはもうやめたほうがいい。お互いにとって良くない。

自分は選ばられる側でもあるけれど、当然に選ぶ側でもある。
嫌いな食べ物を克服して食べることは大事だけれど、嫌いなものに栄養があるとも限らない。好きなものを食べて幸せで、あらゆる好きをつまんでそれなりに栄養が取れるなら、それが正解だと思うのだ。自分が選んだものを、自信を持って守って愛していけるなら、それでいいじゃないか、なんて。
また今日も、わたしはそんな自分勝手なことを思ってしまう。
縋るものを間違えたくない。縋るものの価値で、自分を測りたくない。嫌いなものと比べて惨めになるなら、好きなものを馬鹿みたいに好きになって惨めになったほうが、自分のことを愛せるような、そんな気がするんです。

#エッセイ #イラスト #人間関係

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