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【小説】絶望から愛へ 〜side愛

「死」が誤りとされるのは、誰も死んだことがないからだ。スピリチュアルや宗教の世界で語られる、もしかしたらあるかもしれない死後の世界はなんだか壮大だけれど、誰かの妄想の範囲内で形作られるあの世の姿なんて、どうせすべて嘘だ。どっかの誰かが、この世にいる限り見ることのできないまやかしをぶらさげることで、自分の存在意義を証明して誇りを手に入れたいがために始めた朗読にすぎない。
「トイレいこー」「いくいくー」
 トイレ族が席を立った瞬間(わたしは心の中で、トイレさえも自分ひとりでいこうとしない集団をそう揶揄している)取り巻きの中心にいる女が「ギャッ」と声をあげた。
「きもーい、ゴキ死んでるんだけど」
 12月。もう真冬だというのに生き残っていたらしいそれ。どこでぬくぬくと過ごしていたのだろう。こんなところに姿を現して、かわいそうに。もう死んでいるその亡骸を、ギャルがもう一度踏み潰した。
「最悪、まじむり」
 潰れた死骸を取り除くべく、靴底を床に擦り付ける。じゃあ、踏んでなんかやるなよと、心の中で悪態をつく。二度殺すことに、意味はあるのか。
「死んでるんだから、踏みつけなくてよくね」
「いや、一度死んでるんだからなにしてもよくね。マジ相容れない。てかクレープ食べに行こ」
 ゴキブリの会話は、およそ10秒もたたないうちに終わった。楽しそうに教室を出ていくギャルたちを、わたしは横目で流し見する。 
 生きる場所を探していたんだろう。人間に害なんてあたえていないのに、ただ「きもーい」という理由で、ゴキブリは二度殺されてしまった。死んでいても、なお嫌われる。
 死んでも、救われない生物がいる。死んでも、忌み嫌われる。死んだなら、もういいじゃないか。死は、死だ。

 築50年以上のボロアパート。地震がきたら真っ先に崩れるんじゃないかと思うほどガタがきている。大家はリフォームこそはしないものの、一階になぞのガーデニングなんかつくっちゃっているから、夏場は虫が出て仕方がない。
 ギシギシと音を鳴らしながら階段を上った先、一番奥の自宅に明かりがついているのを確認した瞬間、心の中が真っ黒になった。またか。
 できるだけ大きな音をたてて、玄関の扉をあけた。閉じる音も、わざと大きくした。それでもなりやまない喘ぎ声に、果てしなく気持ち悪さを覚えた。一目散に自分の部屋にかけこみ、思いっきり大きな音でふすまを閉じた。真っ暗で小さな部屋で、膝から崩れ落ちて耳を閉じる。一瞬声が止んで、押し殺すような小さな声が聞こえてきた。
「あ…」
「娘、帰ってきたみたいだぞ」
「…いいのよ、ね、はやく。んっ」
 止まることのない母親の喘ぎ声を聞きながら、マフラーに顔をうずめる。まただ。相手の男は、これまでに何度か見たことがある。玄関でわざと踏み潰した男物の靴は、高級感にあふれていた。数十万はしそうなそれを、わたしは思いっきりぐちゃぐちゃにしてやった。
「愛してる、愛してるわ、ねえ……」
「俺も、愛してる……」
 父が死んでから、母親は毎晩男を連れ込むようになった。わたしの存在なんてまるでないかのように、わたしがいてもいなくても構わないように、どこのだれかとわからない男とセックスをする。高級クラブで働いているらしい、わたしの母親にあたる「女」は、毎日気持ちよさそうに男を飲み込む。わたしはその事実を拒むことなく、否定することなく、ただ部屋にこもって存在を消して、夜を乗り越えて、自分の存在を消す。
 二人の声をききたくなくて、いますぐ逃げ出したいのに、でも行くあてなんてなくて、そんな自分がふがいない。明後日から冬休みで、この家に滞在する時間がこれまでよりも多くなってしまう事実に吐き気がする。早く大人になりたい。大人になって、一人で生きていきたい。心の底からそう願って、布団を頭からかぶって、無理やり眠りについた。

 翌朝、母はもういなかった。男の家に行ったのか、仕事に行ったのか、そんなことはどうでもよかったけれど、テーブルの上にはいつものように、形のきれいなおにぎりが置いてあった。メモも何もなくて、ラップさえされていない。
 コンビニのパンの懸賞かなにかで手に入れたであろうお皿の上に、寂しそうに転がるそれは、放置されすぎて味も潤いもなくなったわたしみたいだ。本当に母が握ったのかさえもわからないから、食べる気になんかなれない。お皿ごとごみ箱に捨てて、制服に着替えて家を出る。
 今日も、寒い。冬特有の刺すような寒さに、きゅっと身が縮まった。

「家族」に愛を求める人間は、浅はかだ。家族が自分を愛してくれていると思うのは、バカだ。血筋による絆が本当にあるのならば、わたしはそれを見てみたい。見てみたくて、仕方がない。昨日ギャルが殺したゴキブリだって、見た目がどんなに醜かったとしても、人間にとって気持ち悪かったとしても、子供がいたかもしれないのだ。子孫を残すために、生き残るために必死だったかもしれないのだ。なのに、人間は自分の都合で勝手に虫を殺す。虫は殺すのに、平気でセックスをする。馬鹿みたいだ。セックス中に愛を語り合っちゃうだとか。ばかみたい。
「ねえ、呼ばれてるよ」
 休み前の最後である英語の授業中、自分の番になって隣の席の女の子が声をかけてくれた。ハッとして立ちあがり、教科書を手に取る。ぼーっとしていたことがばれていたのか、英語教師がさほど興味もなさそうにわたしを叱る。
「鈴木愛〜。話聞いとけよ〜」
「…すみません」

 わたしの名前は、愛。
 愛。
 母親が名付けたらしい、愛という名前。

  愛なんて大嫌いだ。


その歌声を聞いたとき、死んでもいいやって思った。

 新宿駅南口。凍えるような寒さの中で叫ぶように歌うその声に、身体がしびれた。聴こえてきた声に、吸い寄せられるように足が彼の元へ寄って行った。きれいなのに、悲しそうで、全然楽しそうじゃなくて、ただ鳴いているような。でも、心の奥底をぎゅっとつかまれるような声に、今まで感じたことのない幸福感を覚えた。
 道行く人はちらりと彼を見るけれど、足を止めはしない。イヤホンをして歩く人がほとんどの都会で、彼の声はどれだけの人に届くのだろう。

「…おい、そこのJK」
 気が付けばしゃがみ込んで、うつむき泣いていたわたしに、歌い終えた彼が声をかけてきた。スカートが涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「なんつー時間に新宿にいるわけよ」
「……」
 バイト帰り、と小さい声で答えると、ポケットティッシュが飛んできた。見ると、よくトラックで歌っているクラブかなんかの宣伝のそれで、そのチープさにとても安心した。
「おまえ、名前は」
 ギターやらマイクやらを片付ける彼は、こちらをそれほど見向きもしない。涙と鼻水をティッシュでふき取りながら、口にしたくないその名を、ぶっきらぼうにつたえる。
「…愛」
 その瞬間、はじめて彼がこちらを見た。前髪が長くてよく見えなかったその顔はとてもきれいで、驚くほどに、目が死んでいた。死んでいる目が、こんなに透き通っているだなんて。
「愛」
 ギターケースを背負った彼は、わたしの手を掴んだかと思うと、
「ちょっとおいで」
 いきなり駅のほうへ走っていった。
 誘拐か?やっぱりバンドマンって危ない人が多いのかなとか、手を引かれ走りながら、割と冷静なことを考えた。重そうなギターケースを背負った彼は、新宿ダイガード下でやっと立ち止まった。はぁ、とふたりして息切れして、何をするかと思えば、ポケットからとりだしたスマホでわたしの顔の写真を撮り始めた。なにこのひと、え、え。しかも引くほど真剣。死んでいるのにきれいな目が、わたしをスマホ越しにみている。
「なんなんですか」
 耐えきれなくて腕を振りはらった。
 怒ったわたしに我に返ったのか、「あ」と一言つぶやき、スマホを持つ手を下げた。
「ごめん、なんか、泣いてる顔が、きれいだったから、つい」

 という理由で、いきなり人の顔を撮って許される世界でもない。
「意味わかんない、なにそれ……おじさん、変態なの」
「男はみんな変態だよ、そして俺まだ25ね」
「お、おじさんじゃん!わたし17だよ」
「17がキャバクラなんてして、飲酒していいわけ」
 見抜かれていたことにぎょっとして、口を紡ぐ。何このひと、何このひと。自分の歌をきいていたお客をいきなり拉致って写真撮って、それでお咎めしようとしてるの。こわ。
「何に使うかよくわかりませんけど、悪用したら訴えますから」
 ギリッとにらみつけて、わたしができる全力の怖い顔をした。
「しないよ、見るだけ」
 たぶん。
 不吉すぎる言葉を続けたと思えば、道路に向かって歩いていく。
「ちょっと」
「もう帰りな、ごめんね連れまわして」
 つかまえたタクシーがわたしたちの前にとまる。この時間帯の新宿の、こっち方面はタクシーがつかまりにくいのに、運がいいやつ。
「どうせ俺、大体その辺で歌ってるから、また泣きたくなったら来いよ」
 タクシーにわたしを突っ込みながら、笑いもせずにそういった。渡された二千円。新宿から家までぴったり二千円で、それすらも見透かされていたことにぞっとした。

 帰宅して「ただいま」と言ったのは、もう何年前のことだろうか。あの頃は母が専業主婦で、父がサラリーマンで、帰ってくると母親の作る夕飯の匂いが家の中に充満していて、それがたまらなく幸せだった。たまに帰り道にお父さんと遭遇すると、一緒に帰ったりしたっけ。ちょっと汗臭いお父さんのスーツの匂いが、好きだった。
 安っぽい音を立てて閉まった重苦しい玄関の戸。電気がついていたからまた母が男を連れ込んでいるかと思ったのに、
母の靴がない。昨日ふんずけた靴が、ある。
「娘、おかえり」
 昨日の男がいた。なまめかしい、わたしを見る目に、すぐさま身の危険を感じる。見るからに高そうなスーツに、誰もが知っているであろう高級ブランドの時計、でもその装いにふさわしくないほどの人を殺しそうなほどの危ない笑顔を貼り付けた男が、目の前にいる。
「ねえ、おいでよ、今日お母さんいないから」
 母のいない間にあがりこめたのは、母が心を許していたからだろう。こんなバカな男に、母は合い鍵を渡していたのか。
「…すみません、バイトなんで失礼します」
 着替えを取りに行きたかったけれど、そんなことをしている余裕なんてなくて、すぐさま体を翻した。いますぐここからでたい。でないと、でないと。
「まってよ愛ちゃん」
 覆いかぶさってくる身体に、ドアを掴む手を握りつぶされる勢いで掴まれた。
「…お母さんがくるまでさ、ね」
 スカートに入ってくる腕。首筋を這う舌に、これまで感じたことのない嫌悪感を感じた。ゴツゴツした、年老いた男の指が身体をなぞるたびに、寿命が縮んでいくかのようだった。
「やめて!!いやだ!!」
 これでもかというほどに暴れても、男性の体格には勝てない。粗い呼吸に、ふとももにすりつけられる硬くてぬるっとした感触。汚い、汚い、いやだ、いやだ。いやだ。助けてお母さん、助けてお父さん。
 暴れて動かした手の先に、写真立てがあった。わたしと母と父と、三人でディズニーランドに行ったときに撮ったものだ。写真の中のわたしはまだ、幼い。とっさに手に取り、男の頭を殴りつけた。
「いってえ!」
 悲鳴をあげた男は、そのまま崩れ落ちて、膝をついた。死ぬほどの衝撃は与えていない。流血もしていない。わたしは、殺していない。
「……てめえ……」
 殺気だった男がまた立ち上がりわたしに手を伸ばしてくる。逃げるなら今だと思い、勢いよく扉を開けて、家を出た。

「で、また泣いてんの、きみは」
 昨日と同じ場所、昨日と同じ時間。わたし以外に観客なんていないくせに、今日も昨日と同じ曲を歌っていたその彼は、うずくまるわたしを見てため息をついた。
「聞いてくれるのは嬉しいんだけどさ、てかJKってだけで本当嬉しいしさ、なんならいますぐ連れ帰りたいくらい君の顔はタイプなんだけどさ」
 あ、この発言はやばそう。そう付け足して、ハードケースにギターをしまう彼は、ちょっとだけ困った顔をしている。相変わらず長い前髪で顔が見えない。
 「早く帰りな。あぶねえぞ」
 ギターを背負い帰る準備を終えた彼は、通りざまにぐしゃりとわたしの頭をなでた。
 その瞬間、なにかがはじけとんで、反射的に彼の腕をつかんでしまった。
「うおっ」
 後ろにのけぞった彼の腕にしがみつき、でもまた写真を撮られたらたまらないから、泣いている顔を見られないように必死に下を向いた。漂ってきた彼の匂いは、嫌いじゃなかった。
「……」
 言葉が出ない。言いたいことがあるのに、声が出ない。
「つまり、連れ帰っていいってこと?」

 善と名乗るバンドマンの家に住み着きはじめてから、もう一週間がたった。ただのフリーターの貧乏バンドマンだと思っていたのに、善はそれなりにきちんと稼ぐフリーランスのITのなんかをしてる人だった(一度詳しく仕事についてきいたことがあるけれど、何を言っているかわからなかった)。家は決して広くはなかったけれど、無駄なものが一切なくて、でも生活感のあるその部屋に、わたしはすぐになじんだ。未成年を誘拐して捕まるのだけはまじで勘弁だ、お願いだから親に連絡してくれと鬼のような顔で言われたので、一度だけ母に連絡をした。『しばらく友達の家に泊まります』
 返事が返ってこないことはわかっていた。携帯は、極力見ないようにした。SNSを見なくなったことで、気持ちがだいぶ楽になった。
 一度だけ、だれもいないであろう夕方を狙って家に自分の荷物を取りに帰った。大きめのボストンバッグにものをつめこんで家を出るとき、あの日男を殴った写真立てがもとの場所に戻っていることに気が付いた。家族三人の、唯一の写真。わたしを守ってくれたその写真立ても鞄に入れて、振り返ることなく家を出て走った。

「なんで前髪切らないの?」
 パソコンに向き合いカタカタと難しそうなことをしている善は、邪魔くさそうな前髪にたまにいらついている。
「なんとなく」
「切ってあげようか」
 何度か見たことがある善の顔はどう考えてもきれいで男前で、わざわざ隠そうとするのはちょっともったいない。
 善はパソコンを触る手を止めて、長い前髪からのぞく死んだ目でわたしを見た。
「これを切ったら、俺は死ぬ」
 そんな人間、いてたまるものか。そんなに大事なのか、前髪は。変なの。
 フーンフンと鼻歌を歌いながら作曲をする彼の声を横耳に、キッチンで夕飯をつくる。
「え、お前料理できるんだ、意外過ぎてうける」
 はじめて善に手料理をふるまったとき(お世話になっているから、食費はきちんと払っている)、目の前に並べられた料理に善が珍しく声を大きくして驚いていた。
「するよ、ごはんつくるの得意だよ」
「ウマ」
 善がおいしそうにごはんを食べる姿を見るのが、とても好きだ。
「なんでもつくれんの?」
「つくれる」
「じゃあ明日はオムライスね」
「ガキ」
「うるせえ」

 善は、わたしになにも聞かない。
わたしが話しかければ答えてはくれるけれど、わたしについて特に何か模索してくることはなかった。ただ、ここにいたいならキャバクラのバイトをやめろ、と厳しい声で言われた。酒も飲むな、タバコも吸うな。自分はそのどれもをしているくせにずるいな、とは思った。でも、ここにいたかったから、バイトをやめた。今は、駅前の小さなパン屋さんでバイトをしている。週払いだから、とても助かっている。
 どんなに一緒に寝ても、彼がわたしに触ることは一度もなかった。あまりにもわたしに興味がなさそうなので、「善って、性欲ないの?」と、横を向いて眠る彼に抱き着きながら聞いたことがある。特に動揺するでもなく、「17歳を抱くほど困っていません」と低い声が返ってきた。
 シングルベッドの中で、彼にくっつきながら眠る日々は、悪くなかった。ここで過ごす生活は、これまで過ごしてきたどの日常よりも、ゆっくりで、温かい。ずっとこの日々が続けばいいと、毎晩彼の背中にひっつきながら、本気で願っていた。

 いつものようにバイトに行こうと準備をしている朝。眠そうな善が寝ぐせのついたままむしゃむしゃとわたしがつくったサンドウィッチを食べている。ちょっとぬるくなったコーヒーを飲みほすと、
「愛」
 ちょっとかすれた声の善が立ち上がり、キッチンにいたわたしに近づいてくる。
 彼がなにかいいかけたとき。足元に影がよぎった。
「あ」
 善の足元にゴキブリがいる。わたしにつられて善も「あ」と声を出した。暖房のきいている暖かい部屋で、安心したように触角を揺らす茶色いそれ。いつだったか、クラスメイトが踏み潰していたのを思い出した。
 善はとくに焦る様子もなく、新聞紙にそっとそれをのせて、窓から逃がした。
「うまく生きて行けよ」
 ゴキブリにそう言って、窓から逃げていったひとつの命。前髪からのぞく目が、今までみた中で一番優しくて、思わず見つめてしまった。


 善は、優しい。わたしは、善が、たぶん、善のことが。
 そのままふたりでしばらく窓際にいると、普段は鳴らないわたしの携帯が鳴った。見ると知らない番号だ。なんとなく心がざわついて、通話ボタンを押した。

「鈴木愛さんの携帯電話でしょうか。

お母さまが危篤状態です。今すぐいらっしゃることは可能でしょうか」

「しょうらいのゆめ
 わたしは、おおきくなったらコックさんになりたいです。おかあさんとおとうさんが、わたしのつくるりょうりを、とてもおいしいといってたべてくれるのがうれしいからです。おかあさんは、とてもりょうりがじょうずです。だから、おかあさんみたいにおりょうりじょうずになって、いろんなひとにたべてもらいたいです」
 母と父が見守る中読んだ作文。拍手の中、ちょっと照れ臭そうにふたりを振り返ると、嬉しそうにこちらを見ていた。
あの頃が、一番幸せだった。
 その授業参観のすぐあと、父が事故で死んだ。母は人が変わったように働くようになり、家に帰ってこなくなった。夜はずっと働いて、朝になって一瞬帰ってきて、またどこかへ行く生活だった。
 それでも、毎朝おにぎりだけは机にあった。どんなに忙しくても、用意されていなかった日は、これまでに一度もない。
梅におかかにたらこ、こんぶに明太子。わたしの嫌いなしゃけが入っていたことは一度もない。
 あのおにぎりは。毎朝置かれていたおにぎりは、きっと。

 「鈴木雅子」と書かれた病室の中には、あの日の男がパイプ椅子に座っていた。ピッ、ピッという音が響く個室の中、わたしを見るその目は、まるで監獄から出所して更生したかのような顔だ。あの日、わたしを犯そうとした男。同じ空間にいることへ湧き上がる怒りと、吐きたくなるくらいの嫌悪感。ただならぬ気配を感じたのか、病院までついてきてくれた善は、病室の中にはいってこようとはしないものの、なかなか歩き出せないわたしを見て、ぽんっと一回だけ背中を押した。それが「大丈夫」と言ってくれている気がして、身体の緊張がすこしだけほぐれた。
 横たわる母は、生きているのが奇跡なくらいに細かった。最後にきちんと顔をみたのはいつだっただろうか。たくさんの機械につながれて、酸素マスクをし、血管の浮き出た細い腕には、点滴が伸びていた。
「末期のすい臓がんです」
 医者は、淡々と母の状態を告げた。倒れてから意識が戻らないこと。もういつ亡くなってもおかしくないということ。病気のことは、娘に言わないでほしいと頼まれていたこと。
 そして、母のお腹の中には、新しい命がいるということ。

 その父親は、

目の前にいる、この男だということ。

「愛さん、あの時は本当にすまなかった」
 男が土下座をした。よく見ると、頭に白髪がいくつかある。
「本当に反省をしている。あの時は、酒に酔っていて、そして雅子の病気もどんどん進行していって、どうしたらいいかわからなくて、それで……」
 これでもかというほどに頭を床になすりつけて詫びの言葉を告げる。
「あなたにしたことは、一生許されることではない。許してくれなくてもいい。ただ、本当に僕は。心から君の母を愛している。愛しているんです」

 この状態でお子さんを出産することはまず不可能です。ただ、残された時間を、ご家族でお過ごしください。できる限りのフォローはさせていただきます。
 淡々とそう言った医者は、最後にひとつだけ簡単にお辞儀をして、病室を出ていった。
 受け入れるなんてことは、できそうになかった。ただ、聞かされることが嘘であればいいのに。こんな男に、母は。こんな男と、母は。新しい命が、そこにあるのに、母は。
「雅子から預かりました」
 ゆっくりと立ち上がった男は、ポケットから取り出したものをわたしに手渡した。
「進学に使いなさい、と言っていました。自分が危なくなったら、渡してくれと。夢だった料理人になるために、これで学校へ行ってください。それが、雅子の願いです」
 受け取った通帳には、桁違いの数字が記載されていた。母が長年、水商売で稼いできたお金を。今、はじめてわたしは目の当たりにした。
 ゆっくりと、母に近づく。息をしているのかしていないのかわからないくらい小さな呼吸で、まだ母が生きていることを知る。細くて頼りない手。ガサガサしていて、なめらかさなんてない、手。いつもこの手で、母はわたしにおにぎりを握ってくれていたんだ。手をみたら確信したその事実に、捨ててきた自分を殴りたくなった。
 そっと握った手は、冷たかった。冷たくて、細くて、弾力がなくて、怖かった。握ったら、壊れてしまいそうで怖かった。
「…お母さん」
 数年ぶりに、呼んだ。自然と口から、声がこぼれた。
 その瞬間、母の目から涙がこぼれて、
 そのままそっと、息をひきとった。

 なにかをしなければいけないことも、これから用意しなければいけないこともすべてわかってはいたけれど、わたしはまだ未熟で、幼くて、そのほとんどは男がやってくれるということだった。通夜の段取りがきまったら連絡したいと言って男がわたしの携帯番号を聞いてきたが、
「俺の番号でもいいですか」
 善がそのあとのやりとりを、スムーズに進めてくれた。そのあとのことはよく、覚えていない。わたしはずっと、善の手を握っていた。

 気が付けば日が暮れて、夜になっていた。空からは、小さな雪が降っている。手を握られたまま善の家に帰ってきて、わたしはリビングのソファでぼーっと座っている。善がつくってくれたココアはとても甘くて、でも苦い。隣に座る彼は、見てるんだか見てないんだかわからない顔で、テレビを眺めていた。
「切るわ」
 途端に善が立ち上がった。勢いよくはさみを取り出して、前髪をざっくりと切った。突拍子のない行動に驚きを隠せず、わたしはマグカップを持ったまま唖然とした。
「背負っているものが、多すぎるやつだな、とは思っていた」
 端正で、でも無機質な表情の顔がこちらを見ている。
「あげる」
 投げるように突然手渡されたそれ。
「これ…」
 あの日、泣いていたわたしの顔。ダイガード下で勝手に撮られたわたしの顔が、CDジャケットに使われている。勝手に使うのはどうかと思うけれど。とても、きれいだった。善があの日言ってくれたように、きれいだった。
「愛のこと……わざわざ聞かなくても、なんかわかるよ。俺の歌で泣くとか、こいつどうかしてるなって、最初は面白半分で…そうだな、誘拐しちゃった」
 鏡を見ながら前髪をいじくる。ギザギザの前髪を、はさみで少しずつ整えている。
「お前が俺の歌を初めて聞いたあの日、実は死のうとしてたんだよね」
 ソファに戻ってきた善が、ゆっくりと、話す。
「俺の母親、俺を産んだと同時に死んだんだ」
 善が、テレビを消す。
「母親を殺したのは俺。母は自分とひきかえに、俺を産んだ。父は俺を憎んだ。施設に預けられた。だから、俺には家族がいない。」
 静まり返った部屋。窓の外では、さきほどよりも勢いよく雪が降っている。積もるかな。
「施設に入れてくれたのは、親戚のおばさん。俺を殺しかねない勢いで、父は俺を憎んでた。お前さえいなければって、なんども殴られた。母を奪った俺を、犯罪者扱いしたんだ」
 短くなった前髪。彼の死んだ目が、わたしを見ている。
「ばれないように、目立たないように生きてきた。俺は人殺しだって、母を殺して父に恨まれるゴミだって、言い聞かせて生きてきた」
 愛しいものを見るように、善がわたしの頭をなでる。ゆっくり、壊れ物を扱うかのようになでる。
「歌にして、叫んでたんだ。もういつ殺されてもいいやって、親父にばれてもいいやって、それで毎日新宿で歌ってた。誰もきいてくれなくてもいいから。……っていうか、はやく親父にばれて、殺されて、死にたかったのかもしれない。なのに、お前があの日、いきなり俺の前に現れた」
 するりと頬に移動する手。暖かい手が、心地いい。
「愛のその死んだ目に、救われたんだ」
 そっちこそ、死んだ目をしているよ。そんなことを言えるはずもなく、なでてくれる手が、好きでうっとりした。身体がうずうずする。遠い目をする善が、これまでに見てきた景色をわたしは知らない。でも、どうしようもなく、どうしようもなく、身体の芯からわきあがるものがある。

その歌声を聞いたとき、死んでもいいやって思った。

 善が歌っていたのは、絶望なんだ。善が生きてきた世界は、絶望なんだ。わたしはそれにひかれて、絶望を望んで、彼の絶望に、恋をしたんだ。
 首に抱きつくと、ベッドと同じ香りがした。ただ抱きしめ返してくれる善に、感じたことのない感情を覚えた。暖かくて、優しくて、いつか父親が抱きしめてくれたそれに、よく似ていた。
「…お母さん、お父さんも……。なんで死ななきゃいけなかったのかな。新しい命は、どうなっちゃうのかな」
 自分でもよくわからないことを言っている。でもどうして、どうして教えてくれなかったの。どうして自分を犠牲にしてまで、お金を稼いだの。わたし以外に、家族が欲しかったから妊娠をしたのかな。あの男とのセックスは、なんのためのものだったの。わたしは、どうしたらお母さんを救えたの。
「死は、平等だよ」
 善の声は、いつもより優しい。それだけで、無性に悲しくなる。
「俺も愛も、明日死ぬかもしれない、生き物だってそうだよ、人は簡単に虫を殺すけれど、彼らにだって平等に命がある。
人間の死は悲しまれて、さぞ偉いんだろうな、俺たちって」
 善は、ゴキブリを殺さない。
「いつか、会えるよ、お母さんにもお父さんにも。俺も愛も、いつか死ぬよ。でも、死んでもいいって思って生きていく人間は、強い。生きることがすべてじゃない。いつでも人は死んでいい。死んでいい。俺はそう思って生きてきたよ」

愛のお母さんは、お前を愛していたと思うよ

自分が死んで泣いてくれる愛がいるお母さんは、幸せだな

 勢いよく、キスをした。善はちょっとだけ驚いた顔をしたけれど、すぐにそれを受け入れた。初めて触れた他人の唇は、気持ちよくて、やわらかくて、それが善で良かった。
「愛、誕生日おめでとう」
 今日、18歳になった。わたしには、もう家族がいない。でも、善がいる。善が、いる。
 お姫様抱っこをされて、ベッドに運ばれた。部屋が暗くなると、善がわたしの上に覆いかぶさってきた。頭をなでる手、首筋をなぞる唇、善という人間の重みがすべて伝わってきて、たまらなく愛おしい。話さなくても伝わってくる善のこれまでの人生に、心が引き裂かれそうなほどに苦しくなる。人肌がこんなに気持ちがいいものだということを、わたしは今初めて知った。善が暖かいことに、安心をする。憎い母が毎晩していた、醜いと思っていたその行為。人の命をつくるにはこれしか手段がないけれど、それをして母は命を宿して、その命はつくられた瞬間になくなることが決まってしまった。あんな男でも、母にとっては愛の対象で、あんな母でも、わたしのたったひとりの家族だったのだ。
 優しいキスをされて、涙がでた。これまで泣けなかったのに、泣きたかったのに、善のキスで涙がでた。目をぬぐう手がやさしくて。もっと涙がでた。
 首筋にかみつかれて、ちょっとした痛みに身をよじる。離れないでほしくて、離れたくなくて、必死にしがみつく。すがりつきたくて、求めたくて、求めてほしくて、寂しくて、悲しくて、でもどうしてだか感じてしまう「自由」さに、自分の汚さを実感して、でももうそんなのはどうでもよかった。
「死ねなくなった」
 服を脱がされ、生まれたままの姿になったわたしを見て、善がつぶやいた。
「もう、死ななくていいや、お前がいるなら。もし殺されたら、俺、お前のことをあの世でずっと待つことにする」
 だから今は、生きてみようよ。耳をなぞる唇に、反射的に声が漏れる。泣きたいくらい、心地がいい。
「生きよう、愛」
 その行為すべてが心地よくて、ただ悲しくて、同じくらい愛しくて、涙が止まらなかった。
 一つになる前に、かすれた声で善がささやいたことだけは覚えている。
「死ぬまで、死ぬな」

絶望に、救われる。
絶望を、求めている。
絶望から生まれる、愛がある。


 わたしたちは、お互いの絶望をずっと探していたのかもしれない。
 絶望に救われたくて、絶望に恋焦がれて、死んだように生きてきて今。
 やっと、愛に出会えたのだろう。


重たさに安心できるのは
浮いていきそうなほどに軽いから
苦しさや不幸が心地いいのは
幸せってやつが 怖いから

生きたところで 何だっていうのだ
希望を掬うやつに 何が救えるのか

絶望でいい 絶望でいたい
絶望がいい 絶望しかない

生きたい 死にたい 生きたい 死にたい
生きたい 死にたい 生きたい 死ねない

生きるか死ぬか その二択しかないのなら
どうでもいいからただ楽になりたい
生きるか死ぬか 今すぐ選べるのなら
意味が欲しい この絶望に意味が欲しい

何かをずっと待っている 何かをひとつ

ずっと 


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side 善(一部先行公開)

「死」が誤りとされるのは、生きることが「正解」になっているからだ。昔、道徳の教科書かなんかに綴られていた「命には平等に価値がある」という戯言。洗脳に近いその言葉に、無意識に振り回されていることに気づかないなんて、この世に生きる人々はなんて愚かなんだろう、とか思う自分は歪んでいるのだろうか。『人の命は同等に守られるべきであり、死んでいい人間なんかいない。生きる意味を探すために、人は生きていく』。明朝体で書かれた文章はやけに気持ちが悪くて、これを教科書にのせる大人が、怖かった。その文章に応じて「みんなで命について話し合いましょう」とか言う先生はもっと気持ち悪かった。なんだよ、命について話し合うって。狂ってんな。

理性を全くなくし、鬼の形相で殴ってくる父親に対して、死ねとも生きろとも思わない。この時間は無だ。一歩家を出ると別人のように「良い」人。夏の薄着になるこの時期、ばれない場所に痣を作ってくるところも姑息で、そんなところに頭を使うなんて暇なのかとさえ思ってしまう。息子が通う学校にプールの授業がないこともわかっているのだろう。連日同じ場所を狙って攻撃してくるものだから、思わずうめき声がでそうになった。窓の外から、ぼんやりと聞こえる鈴虫の声が苦しい。
「お前さえいなければ、あいつは」
 物心ついて一番に理解した他人の感情は、憎しみだった。実の父から嫌なほどまっすぐに向けられた怒り。俺を産んだと同時にこの世を去った母親。その死の責任をこうやって力でぶつけられても、何の抵抗をすることもなくなった。俺は何も言わない。謝りもしなければ、肯定もしない。
「……」
玄関の引き戸の音がする。買い物に行っていた祖母が帰ってきたのだろう。
その瞬間、勢いよく動いていた腕がぴたりと止まり、掴まれていた胸倉も解放される。しわくちゃになった制服のシャツ、千切れないでいてくれた心もとないボタン。
「ただいま」
「おかえり、母さん」
「あら、帰ってたのね。善も一緒なのね」
 エコバッグから食材をとりだし、冷蔵庫につめていく祖母。少し丸い腰がおぼつかなくて、手伝おうと歩き出しかけると、すかさず父が「手伝うよ」と祖母から豆腐を受け取る。
「ありがとうねえ」

 父は、祖母の前では俺を殴らない。祖母の前では、とても「良い息子」になる。一瞬で切り替わるその有様に、仮面をつけるような変身具合に、心の底から尊敬する。心の、地の底から、尊敬を、する。
「母さんごめん。会社抜けてきてるから、ちょっとまた外にでるね」
鞄を持ち、優しそうな声色で祖母に話しかける。
「そうなの」
「しばらく泊まりになりそうなんだ」
「頑張ってるのねえ」
のんびりとした口調と優しい声で笑う祖母に、目のトーンを変えずに父が淡々と冷蔵庫に食材を詰めていく。

母の命を奪ったのは俺だ。
父親にとって、そして親戚にとって。なにより、会うこともできなかった母にとってすらきっと。
俺は犯罪者だ。生まれながらにして人殺し。
生きるべき人は生きられないし、死ぬべき人は死なない。生きたい人はもっと生きられないし、死にたい人はそれ以上に死ねない。
俺は、自分が生きていても死んでいても、もうどっちでもいい。
自分の命なんて、どうでもいい。

俗にいう華金なんて言う日は、居酒屋店員にとっては地獄でしかない。店を埋めるお客のほとんどがスーツを着た社会人で、ここにいる大半の人が、酒を飲んでいる自分に酔っている。
「すみませーん!レモンサワーふたつ!」
 サラリーマン様、OL様、大人様様。
「承知しました。少々おまちください」
「えー、君かわいいー。高校生?」
「……」
「おいお前、人妻のくせにロリコンかよ、きっついわ」
 下品な笑いをし合うどこかの企業の団体を軽くあしらって、厨房へと戻る。ずいぶんと楽しそうだな。酒に酔って笑えるなら、まだいい。どっかの誰かと比べたら、こんなのはまだマシ。マシなだけで、クソだけど。
「五名様、ご来店です!」
どっからそんなに湧いてくるんだよというほどに客が入ってきて、店はあっという間に満席になった。ただでさえ今日はシフトに入っている人間が少ないというのに、客は有り余るほどにいるようで。どうも、お疲れ様です社会人のみなさま。
「善、注文」
「はい」
レモンサワーふたつをもちながら反射的に返事をして先程の注文先の卓に適当に置き、新規の客へと向かった。スーツを着た男性五人組。厨房に一番近いテーブル席に案内をし、早速注文を受ける。
「それにしても、本当にお前が結婚するなんてな」
背を向けて去ろうとすると、会話が耳に届いた。
「本当、おめでとう。誰の結婚報告よりもマジでうれしい。」
「幸せになれよ」
「ありがとう」
「お前の過去の話を聞いてから、ずっと心配してたけどさ。なんかこう、本当に良かった」
さっさとドリンクを用意し再び卓に向かい、「おまたせしました」と小声でつぶやきビールを置くと、真ん中に座っていた今日の主役であろう彼が小さく会釈をした。不愛想にみえるけれど、纏う雰囲気は優しそうでどこか儚い。大人のことはよくわからないけれど、直観でわかる。この人は、優しい。
「あの子の分まで。幸せになれよ」
おい、飲め!そういいながら隣の人が彼の肩を組む。眉をひそめながら彼がビールを飲んだその瞬間「おめでとう~」とコールをはじめる彼の同僚。「結婚おめでとう!」「本当に幸せにな!」。盛大なお祝いの声を背中に、厨房へと足を進める。「お前の子供は絶対に可愛い!というか、お前の子供になりたい」「何言ってんだよ、ほんとだるいなお前」。笑いあう声が遠くなり、あちこちで聞こえる人の声でかき消される。

結婚、おめでとう。
心の中で確かにそう唱えたはずなのに、いまいちしっくりこない自分が嫌だった。厨房に戻ってドリンクを作っていると、どこからともなくやるせない気持ちが湧き上がってくる。音もなく、ドロドロとしたそれに飲み込まれそうになる。

雨の日には


そんなとき、店内に流れてきた曲に手が止まる。それは大好きなELLEGARDENが歌う「風の日」だった。


雨の日には 濡れて
晴れた日には乾いて
寒い日には震えてるのは
当たり前だろ

少しだけ、ビールの泡が溢れた気がした。
一瞬だけ目をつぶって、深呼吸をする。何事もなかったかのようにドリンクを両手に抱えてテーブルに向かう。

こんな風に、自分の気持ちを歌えたら。
こんな風に、叫べたら。

もしもこんな歌を歌えたら。
俺は。


to be continue......



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