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辻仁成⑦(番外編)~今川勉という男

 仁成の引退コンサートから10日以上過ぎました。
 いざコンサートが終わると、さて何を書こうかと思ってもなかなか頭の中がうまく整理されず、何か書こうにも書けないエアポケットに嵌っております。
 
 そこで、仁成の永遠のパートナー(だとECHOESが解散して遥か経過した今でも思っている)である今川勉が2020年にこの世を去った際、Instagramに書いた文章をこちらに転載&編集&追記します。

 ECHOES時代の仁成のことは何となく知っていても、ほかのメンバーのことはあまり知られていないのではないかと思います。
 昔のことに思いを馳せながらお読みください。


 今川勉が亡くなった。
 今川勉と言っても「誰?」という反応の方が多いだろう。ZOOという曲を歌う辻仁成がボーカルのECHOESのドラムと言って「ああ、愛をくださいと歌う曲ね」という反応がかろうじて返ってくるくらいだろう。
 だが、そのECHOESは俺にとって人生で一番好きで影響を受けたバンドだった。

 初めてECHOESを知ったのは、中学生の時に聴いてた鴻上尚史のオールナイトニッポン(以下ANN)のエンディングで流れてた曲だった。

 『今夜こそはRadioと話したい
 今夜こそは僕の話を聞いてよDJ』

 と歌うハスキーなボーカル、孤独を癒そうとDJに出したハガキを読んでもらい、ただ一方通行にラジオを聞くだけではなくハガキを通して反応してDJとTwowayになりたいという思春期の人間の切実な思いを表した歌詞、そして繊細なメロディ…この曲を調べたら、ECHOESの【Oneway Radio】という曲だった。
 そしてすぐ、辻仁成が二部ではあるがANNを始めると知り、毎週眠さと戦いながら聴いていた。

 ECHOESを知り、当時流行り出していたレンタルCDでECHOESのアルバムをひと通り借りて聴き、衝撃を受けて借りるだけでは飽き足らず、実際に全て買い揃えた。
 ECHOESの歌は、例えるならTHE BLUE HEARTSをちょっとひねくれさせたような感じの視点から、愛や孤独や身の回りの事をアルバム毎に曲調を変えたりしていた。ちなみに辻仁成と甲本ヒロトはお互いデビュー前からの友達で、仁成の趣味であるカメラでヒロトをモデルにして写真を撮ったり、ECHOESがNHKホールでLIVEすると決まった際に「辻さんが遠くに行ってしまう」とヒロトが嘆いたりしていた。

 そんなECHOESの音における芯を担っていたのが、今川勉のドラムであった。

PaisteのCMキャラクターにもなった今川勉

 パワフルだけどタイト、そしてシャープ。当時の日本のロックシーンではトップクラスの上手さであった。 ドラムに関して妥協することなど当然無い上に、レコーディング中には自分のドラムについて自問自答を繰り返し、ドラムセットに座ったまま考え試行錯誤し一晩明かしたり、自分に納得出来ない時はドラムセットを叩き壊したりしたこともあったそうだ。

 LIVE中の勉は、鬼気迫る表情で一心不乱に叩いたり、かと思えば笑顔を見せ楽しそうにリズムをキープしたりと、硬軟織り交ぜてドラムで自己主張していた。
 勉のドラムの音も含めたECHOESの楽曲は、30年以上経った今聴いても古臭く感じることなく、知らない人が聴いたら現在の曲と感じるくらいなクオリティの高さである。特にBEST版の【GOLD WATER】は解散を決めてから再録した曲が多くあり、ECHOESの完成形のアルバムだと思っている。

 1991年5月26日にECHOESは野音で解散した。これが俺の最初で最後のECHOESのLIVE参戦だった。LIVEが終わりに差し掛かるにつれ、涙を堪えながらも普段のドラミングを心掛けていた勉のプレイは今でも頭に浮かぶ。

 
 ECHOESが解散した後、勉は甲斐よしひろに誘われる形で、KAI FIVEというバンドを結成する。

KAIFIVEの1st.と2nd.アルバムは今聴いてもかっこいい

 KAI FIVEにおいても当然ながら勉は勉のドラムの音を出していた。しかし、グラムロックとハードロックを組み合わせたようなKAI FIVE初期の感じが甲斐バンドからのファンには好評ではなかったのか、その後2nd.アルバム【LOVE JACK】が発売された以降から、甲斐バンドの曲が大半を占める『History Live』をKAI FIVEのメンバーで行なったり、ハードロックではない曲調の【風の中の火のように】がドラマの主題歌となりヒットした影響なのか、次第に甲斐よしひろ+KAI FIVEという感じになっていき(実際にシングル【嵐の明日】は『甲斐よしひろ and KAI FIVE』名義で出された)、次第にバンドの一員というよりも、甲斐よしひろのバックメンバーとなっていった勉に歯がゆさを感じていた。

 また、ヒロトの相方マーシーこと真島昌利の【夏のぬけがら】というアルバムにも参加し、ECHOES解散後も順調に活動していた。

 そんな順調な最中の1994年、リハーサル中のスタジオで勉は急に倒れた。 
 第三動脈瘤乖離という、心動脈の層の一枚がやぶれて外側の層に血がたまり、心臓を圧迫してしまい心臓に繋がる血管が大きく裂けてしまったのだ。
 10数時間に及ぶ手術の末、奇跡的に生命を取り留めた勉はリハビリを兼ねてまたドラムを叩き始めた。心配した仁成に勉はこう答えたという。
 「俺にはこれしか無いからね」
 その時仁成の脳裏にはECHOES時代のニヒルに笑う勉の顔が浮かんで、涙を堪えながら「頑張れよ」というのが精一杯だったという。

 病気を経て再びドラムスティックを握った勉。以前のようなパワフルなドラムが叩けなくなった代わりに、繊細な柔らかい音を手に入れた。
 強く主張するのではなく、周囲に溶け込むかのような優しく、でも今川勉のドラムの音だと分かる音。叩く音は変わっても今川勉は今川勉であった。
 同時に、以前から上手かった絵画の方にも力を入れ、個展を開くまでになっていた。

 年月は過ぎ、バンド活動も再開し、自身の還暦祭イベントLIVEなどもしていた矢先の訃報。
 今川勉は亡くなったとしても、今川勉が参加していた楽曲、今川勉が叩いたドラムの音は残り続ける。

Don't stop musicいつでも僕ら
歌うこと取り戻せる
Don't stop music あの日のメロディ
忘れないことさ
Don't stop music 大切なのは
歌い続けることだよ
Don't stop music あの日のメロディ
一人になっても

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