ひとときの幻

「ただいまー・・・・・・」
 しばらく開けていなかった家の扉を開けると、しばらく嗅いでなかった懐かしい匂いに帰ってきた、という実感をえる。敷居をまたぐ前に顔だけを家の中に入れ、家の中の様子を伺う。
「誰もいないのか・・・・・・?」
 家の鍵は開いていたし、誰かは家にいると思ったのだが。
 しかしそこで思い出す。そういえば実家はご近所さんがセキュリティ担っているから、日中ぐらいなら鍵閉める必要ないよね、という謎理論を展開していたことを。
 そのことを思い出し、彼は久しぶりに帰ってきた家に足を踏み入れた。都会に出てはや5年。大学卒業と同時に実家を送り出され、仕事をしながら家事をする大変さを思い知った日も遠い。
 彼岸には仕事が忙しいため墓参りをしに戻ってくることもできない。それを逃せば正月は友人と夜通し遊ぶのに勤しみ、夏休みは一人で遠出してと自分のやりたいことを優先して来た。
 そんな彼が実家に帰ってくることを決めたのは、秋彼岸、という行事をしったからだ。
 だったらたまった有給もつかって5連休にしてやれ、と秋分の日の前後日を休みにした。こういう時有給休暇を使っても白い目で見られない会社に入社して良かったと思う。
 一通り家の中を歩いたが、家の中には誰もいなかった。
 庭先で飼っている柴犬に吠えられただけで、誰の声もしない。
「確かに連絡もせずにいきなり帰ってきたけど・・・・・・。さて、どうしようかな」
 都会で暮らし、鍵のしまっていない家に荷物を置くなど恐ろしくてできなくなった彼は途方にくれる。このまま誰かが帰ってくるのを待とうか。
 そう思いながら、仏間を横切ろうと足を踏み入れると、仏壇の前で誰かが正座していた。
 後ろ姿から察するに曽祖母だろう。
「婆様、ただいま。母さんたちは?」
 ようやく家族に会えたことで安心した彼は、曽祖母に声をかける。
 曽祖母が振り向き、笑いかけてくる。
 その時になって、彼は思い出していた。2年ほど前、実家から、曽祖母が亡くなったと連絡があったことを。その時は仕事が忙しいと言って葬儀にも出ることなく今に至ってしまっていることを。
 と、いうことは今目の前にいるのは誰だろう、と彼は疑問を覚える。恐怖を感じなかったのは、曽祖母と親しかったことと、実家からは送り出してくれたのに、自分は送り出せなかったという負い目があったからか。彼は口を開いた。その口から出るのは、
「ちょっと、どうしたのいきなり立ち止まって」
 いきなり耳元で聞こえた声に、飛び上がるほど驚く。
 声のした方を向けば、母が買い物袋を両手に首を傾げていた。
 視線を周囲に向ければ、そこは仏間ではあったが、確かにそこにいた曽祖母はいない。
「・・・・・・いや、なんでもない・・・・・・」
「そう?じゃあ準備しといてね。これ冷蔵庫にしまったら墓参り行くから」
 あぁ、と気の抜けた返事をした彼は、先ほどまで見ていた光景に想いを馳せる。

 先ほど口にできなかった言葉を墓前で口にするために。

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