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音楽史年表記事編52.ピアノのための変奏曲創作史

 音楽史で変奏曲が現れるのは、セバスティアン・バッハからですが、バッハは対位法を極めようと作曲に取り組むとともに、Thematische Arbeitといわれる日本語訳の「主題労作」にも取り組んでいます。主題労作とはわかりにくい概念ですが、音楽における主題や主題を構成するモチーフを変奏のように改変させて行く作曲手法で、ソナタ形式においては主に展開部などを構成します。ソナタ形式の展開部は古典派期の作曲家の腕の見せ所となりました。古典派期においては多くの変奏曲が作曲されていますので、変奏曲はソナタ形式作曲のための展開技術を向上させるために作曲したようにも見られます。ロマン派期には変奏曲の作曲は少なくなりますが、ブラームスのように古典派に回帰した作曲家は変奏曲を作曲しています。
 変奏曲創作史において、セバスティアン・バッハのゴールドベルク変奏曲ト長調BWV988は変奏曲の傑作です。バッハはこの変奏曲を作曲した時期にはすでに平均律クラヴィーア曲集で平均律の調律ですべての調性の音楽の演奏が可能であることを実証しています。しかし、バッハはこのゴールドベルク変奏曲の全曲をト長調およびト短調で作曲し、これは全曲を純正律の調律で演奏することを前提にしているものと思われます。おそらく、バッハはクラヴィーアの音楽が平均律に移り変わって行くなかで、純正律でも(すなわち転調しなくても)これだけの変奏が可能だということを示したかったのかもしれません。ゴールドベルク変奏曲の純正律の演奏は素晴らしいです。バッハのゴールドベルク変奏曲は中世、ルネサンス、バロックを通して続いてきた純正律音楽の最後の輝きであったように思われます。
 モーツァルトも多くの変奏曲を残していますが、もっとも有名なきらきら星変奏曲K.265の作曲動機は明らかではありません。おそらく様々な思い出を残してきたパリ滞在を想い出したのでしょう。
 ベートーヴェンのディアベリのワルツの主題による変奏曲Op.120はベートーヴェンの晩年に作曲されています。ベートーヴェンはこの変奏曲をアントーニア・ブレンターノに献呈しています。ベートーヴェンは人生最大の苦悩を克服し、新たな境地を切り拓き、ハンマークラヴィーア・ソナタを完成させ、この変奏曲の作曲に着手しています。一時中断し、ピアノソナタ30番、31番、32番を完成させ、更に荘厳ミサ曲に取り組み、引き続きこのディアベリ変奏曲を完成させます。このディアベリ変奏曲には不滅の恋人であるアントーニアとの思い出のモチーフが組み込まれているといわれています。このディアベリ変奏曲はバッハの対位法をテーマにしたゴールドベルク変奏曲に対し、和声をテーマとした変奏曲であり、ロマン派音楽を導く曲となっています。

【音楽史年表より】
1741年10月出版、J・S・バッハ(56)、クラヴィーア練習曲集第4集「ゴールドベルク変奏曲(アリアと30の変奏曲)」ト長調BWV988
クラヴィーア練習曲集第4集として出版する。バッハの最初の伝記学者でドイツの音楽家かつ理論家のフォルケルによれば、この変奏曲はザクセン駐在ロシア大使カイザーリンク伯爵が依頼したもので、伯爵は付き人のハープシコード奏者でバッハの生徒でもあるゴルトベルクに演奏させて、頻繁に悩まされる不眠症を和らげようとしたといわれている。曲のはじめと終わりに奏される主題は、バッハの家庭用音楽帳「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集第2巻」に妻マグダレーナの筆跡で記入されている曲で、典雅なフランス風サラバンド舞曲であるが、バッハの自身の作曲であるという確証はない。30の変奏は3つずつ合計10のグループに分けられる。各グループの3曲目はいずれもカノンの技法で書かれ、最後の第30変奏はクォリベッド、すなわち複数の民謡を同時に進行させる形式による。具体的には「ごった煮の野菜がおいらを家から追い出した」、「おいらは久しくお前に合わぬ」という2つの民謡が使われ、種々の変奏が終わりとなって主題に戻ることを、ユーモラスに暗示する。(1)
1781年あるいは82年作曲、モーツァルト(25、26)、「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲ハ長調(きらきら星変奏曲)K.265
以前はこの作品は1778年にパリで書かれたと見なされていたが、プラートの筆跡研究でこの作品は1781年あるいは82年にウィーンで書かれたという説が有力になっている。1785年にトリチェッラから初版が出版された折にはヨゼファー・アウエルンハンマー嬢に献呈されたが、最初誰のために作曲されたかは不明である。(2)
1823年4月作曲、ベートーヴェン(56)、ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲Op.120
1819年に作曲に着手され、中断の後、1822年から23年4月に作曲される。ベートーヴェンの変奏曲の頂点にあるこの作品は鍵盤音楽史上、否、変奏曲史のなかにあってバッハのゴールドベルク変奏曲と双璧をなしている。バッハが対位法様式の究極を示したのに対し、ベートーヴェンは和声法様式のそれを代表している。この変奏曲は本来、ウィーンの出版社カッピ&ディアベリ社が企画したピアノ変奏曲集のための主題として、アントン・ディアベリ自らが作曲し、1819年春頃にウィーン在住あるいはオーストリア圏で活躍する有名無名の50人の作曲家たちに与えられた競作用の共通課題であった。予定ではベートーヴェンはディアベリの要求に応じるように5、6曲の変奏曲で止めようと考えていたが、結果的には予定をはるかに上回る33曲もの長大な変奏曲となった。ディアベリ社もこれを祖国芸術家協会の変奏曲集に収録することもできず、特別に独立した形で出版した。ベートーヴェンの不滅の恋人と考えられているアントーニア・ブレンターノに献呈された。(3)
【参考文献】
1.バッハ事典(東京書籍)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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