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音楽史年表記事編33.ベートーヴェンの初恋の人?エレオノーレ

 一般にベートーヴェンの初恋の人はブロイニング家のエレオノーレとされていますが、青木やよひ氏の著作ではピアノの弟子のヴェスターホルト男爵家の令嬢ヴィルヘルミーネではないかとされています。ヴィルヘルミーネはベートーヴェンが贈ったフランス語の詩を切り取って作ったカードを生涯秘蔵していたからです。ベートーヴェンはヴェスターホルト男爵家のためにフルート、ファゴット、クラヴィーアのための三重奏曲 ト長調 WoO37、フルート、ファゴット、クラヴィーアと管弦楽のためのロマンツェ・カンタービレ ホ短調 Hess13を作曲し贈っていますが、これらは家庭内での室内楽の楽しみのためであったのでしょう。
 ベートーヴェンはウィーンに移ってから、エレオノーレにモーツァルトのフィガロの結婚の主題による変奏曲WoO40、ピアノのためのやさしいソナタWoO51を贈っています。また、ベートーヴェン唯一の歌劇である「フィデリオ」のヒロインがレオノーレであることからも、ベートーヴェンがエレオノーレに淡い恋心を抱いていたことは明らかと思われます。
 エレオノーレはベートーヴェンの友人ヴェーゲラーと結婚します。一時期音信は途絶えますが、1826年の年明けにはヴェーゲラーとエレオノーレはベートーヴェンに手紙を送り、エレオノーレはその中で「本当にあなたはライン川やあなたの生まれた土地を再び見たいと思わないのですか・・・」と述べています。この時期、ベートーヴェンは甥のカールのことで心労を重さね、年末には体調を崩し、翌年には帰らぬ人となります。

【音楽史年表より】
1786年作曲、ベートーヴェン(16)、フルート、ファゴット、クラヴィーアのための三重奏曲 ト長調 WoO37
ヴェスターホルト=ギューゼンベルク男爵家のために書かれたと思われる。ヴェスターホルト男爵はファゴット、息子のヴィルヘルムはフルートをたしなみ、娘のマリア・アンナ・ヴィルヘルミーネはベートーヴェンのピアノの弟子で優れたクラヴィーア弾きであった。作品にはコンチェルタンテ風の性格から、当時のボンにおけるフランス趣味の反映が認められる。(2)
1786年作曲、ベートーヴェン(16)、フルート、ファゴット、クラヴィーアと管弦楽のためのロマンツェ・カンタービレ ホ短調 Hess13
3つの独奏楽器と2本のオーボエと弦楽合奏からなる編成から一種の協奏交響曲を思わせる。このロマンツェ・カンタービレはあるまとまった作品の3部形式からなる中間楽章であろう。ヴェスターホルト男爵(Fg)、息子のヴィルヘルム(Fl)、娘のヴィルヘルミーネ(Pf)と同家の奉公人からなる楽団のために作曲される。(2)
1790年作曲、ベートーヴェン(19)、歌曲「嘆き」WoO113
ルートヴィヒ・ヘルティの詩による(2)。これまでのベートーヴェンの伝記には、彼の初恋の女性をエレオノーレ・ブロイニングだとしているものがある。一方、同時代の友人たちの証言によると当時のベートーヴェンは美しい女性に次々と心惹かれていたという。その中で名前が残っているのは、ツェーアガルテンの女主人の娘であるバベッテ・コッホ、金髪美人のジャネット・ドンラート、そして彼のピアノの弟子であったヴェスターホルト男爵令嬢ヴィルヘルミーネの3人である。このうちエレオノーレの親友として同家に出入りしていた前の2人との交際は深刻なものではなかったことがわかっている。だが、3人目の女性の場合は違っていたようだ。親しくなればなるほど、彼は自分とヴィルヘルミーネの間にある身分という厚い壁を想い知らされたに違いない。2人の愛がまじめであればあるほど、それは悲劇的なトーンを帯びる。ちょうどその頃作曲された歌曲が「嘆き」だった。ベートーヴェンはヴィルヘルミーネにフランス語の詩を切り取って貼り付けたカードを贈っているが、ヴィルヘルミーネはそれを生涯秘蔵していた。(1)
1793年7月作曲、ベートーヴェン(22)、バイオリンとピアノのためのモーツァルトの「フィガロの結婚」から「もし伯爵様が踊るなら」の主題による12の変奏曲 ヘ長調WoO40
ウィーンのアルタリア社から作品Ⅰとして初版パート譜が出版され、エレオノーレ・フォン・ブロイニングに献呈される。1792年11月にウィーンへ発つまでにはほぼ書きあげられ、ウィーンでフーガが追加されたと推定される。モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」K.492は1789年にボン初演が行われ。ベートーヴェンはビオラ奏者として上演に加わっている。(2)
1796年作曲、ベートーヴェン(25)、ピアノのためのやさしいソナタ ハ長調WoO51
1796年に作成されたと思われる欠落部の多い不完全な自筆譜がコブレンツのヴェーゲラー家に伝えられている。これがヴェーゲラーと結婚したエレオノーレによってもたらされたことは確実であり、この作品はエレオノーレ・フォン・ブロイニングのために作曲されたことは確かである。1783年頃からベートーヴェンはその才能を認められ、ボンの名家ブロイニング家の夫人から我が子同様に教育を受けていたが、その代わりにこの家の子供たちにピアノを教えていた。(2)
【参考文献】
1.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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