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音楽史年表記事編73.モーツァルト、歌劇「後宮からの誘拐」

 1780年11月女帝マリア・テレジアが亡くなります。それまで皇帝ヨーゼフ2世との共同統治が行われていたものの、実質的にはマリア・テレジアによって統治されていました。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争でプロイセン、ザクセンに対抗し、バイエルンに皇帝位を奪われ、プロイセンには領有するポーランドのシュレージェンを奪われ、生涯プロイセンのフリードリヒ2世を天敵として憎んでいました。しかし、フランスのルイ15世の孫のイザベラを妻として迎えたヨーゼフ2世は妻イザベラの影響により啓蒙思想の影響を受けプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していました。そして、マリア・テレジアが亡くなると啓蒙主義に基づく大胆な政治、文化、宗教などあらゆる改革に乗り出します。
 ヨーゼフ2世は治世改革として農奴を開放し、また外交ではプロイセンのフリードリヒ2世と和睦します。フリードリヒ2世の啓蒙主義は結社フリーメイスンと同じく、自由、平等、博愛を理念とし、古い因襲を捨て新しい社会創りに取り組もうとするもので、後にフランス国民に受け入れられフランス革命が起ることになります。また、宗教分野では宗教寛容令を発布し、プロテスタントを容認しプロテスタント信者にカトリック信者と同等の扱いを行い、これによってカトリック教会におけるミサ曲の演奏は制限を受けることとなります。そして、音楽文化においてもプロテスタント地域で上演が行われていたドイツ語による歌劇(ジングシュピール)が奨励されるようになり、モーツァルトにジングシュピール作曲の白羽の矢が立てられたということのようです。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世の期待に応え、ドイツ語による歌劇「後宮からの誘拐」を作曲します。ジングシュピールはイギリスのバラッド・オペラやフランスのオペラ・コミックのドイツ語訳上演が起源とされ、イタリアオペラを風刺したりするなど庶民の娯楽を目的とするドタバタ劇の要素が大きかったようですが、モーツァルトはグルックのオペラ改革を踏襲し、初めての本格ジングシュピールを完成させます。
 1782年4/12、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと「後宮からの誘拐」がブルク劇場で初演されます。初演後、臨席した皇帝ヨーゼフ2世がモーツァルトに「素晴らしい作品だ。しかし、音符が少し多い。音符を減らせばもっと良くなる。」と言ったというエピソードが残されています。これに対しモーツァルトは「音符はちょうど必要な量が使われています」と答えます。おそらく音符の多さと言われているのは、コンスタンツェの大アリアのエンディングであろうと思われます。モーツァルトは、前作の歌劇「イドメネオ」ではエレットラの身の毛もよだつような怒りのアリアを作曲しています、これに引き続き「後宮からの誘拐」では、このオペラの一番の見どころともいうべきコンスタンツェの大アリア「あらゆる拷問が」を作曲します。このアリアのエンディングではこの時代には先駆的な、後のベートーヴェンを思わせる粘りを見せているところから、当時の慣例からは音符が多いと思われたものと見られます。
 このオペラに感激したウィーン・オペラ界の重鎮グルックはモーツァルトがコンスタンツェと結婚した2日後に「後宮からの誘拐」の特別上演を行い、その翌日にはモーツァルトを食事に招待しています。
 モーツァルトの「後宮からの誘拐」はモーツァルトの生存中最も上演回数の多い歌劇となり、ドイツを中心に100回以上は上演されたとされ、モーツァルトの代表的な演目とされました。これだけの上演を重ねればロマン派の作曲家であれば生活に十分な収益を得ることになりますが、音楽史上初めてのフリーランスのモーツァルトの時代には作曲家は興行主から作曲料を受け取るのみで、作曲家が興行主から作品の所有権(総譜およびパート譜の所有権)を奪い取り、作品が上演されるごとに上演権料を得るという改革はロッシーニによってなされることになります。

【音楽史年表より】
1781年5月初旬、モーツァルト(25)
モーツァルト、ドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)を出て、グラーベンの聖ペーター教会の裏手で間貸し業を行っていたウェーバー家に寄宿する。(1)
5/9、モーツァルト(25)
モーツァルトと大司教が決裂する。(1)
5月もしくは6月、モーツァルト(25)
モーツァルト、宮廷劇場監督オルシーニ・ローゼンベルク伯爵からオペラの作曲を依頼される。(1)
7/30作曲を開始、モーツァルト(25)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
3幕のドイツ語ジングシュピールの作曲を開始する。ブレツナーの台本をゴッドリープ・シュテファニー弟が編作したテキストによる。この日、モーツアルトはシュテファニーからオペラ「後宮からの誘拐」の台本を受け取る。国民ジングシュピール劇場監督のシュテファニーは9月に予定されていたロシア大公パウル・ペトロヴィッチのウィーン訪問に間に合わせるべく、ブレツナーの「ベルモンテとコンスタンツェ」に短時間で曲を付けようとしていた。しかし、大公の訪問は延期され、結局11月の訪問時にはグルックの2本のオペラが上演された。「後宮からの誘拐」はモーツァルトの生前には上演されなかったオペラ「ツァイーデ」の二の舞になるところだったが、シュテファニーと歌手のソプラノのカヴァリエーリやテノールのアーダムベルガー、バスのフィシャーらがモーツァルトを支えつづけた。(2)(3)
8/22第1幕を完成、モーツァルト(25)、歌劇「後宮からの誘拐」第1幕K.384
第1幕を完成する。当初は9月の後のロシア皇帝パウル・ペトロヴィッチ大公の来訪に合わせて初演する予定であったが、大公の来訪が11月に延期になったと聞いた途端、作曲のペースが落ち結局大公の来訪に間に合わせることができなかった。全曲の完成は翌年5月となる。(1)
1782年4/12、モーツァルト(26)
ウィーン宮廷に50年間君臨した宮廷詩人の巨匠ピエトロ・メタスタージョが死去する。その後、皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽長サリエリの口利きで、ベネツィア出身のロレンツォ・ダ・ポンテを宮廷詩人に任命する。(4)
5/29完成、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
ジングシュピールを完成する。(1)
7/16初演、モーツァルト(26)、歌劇「後宮からの誘拐」K.384
ウィーンのブルク劇場で初演される。コンスタンツェ役にはコロラトゥーラ・ソプラノのカテリーナ・カヴァリエーリ、カヴァリエーリはモーツァルトの好敵手アントーニオ・サリエリに教育され非常な若さでプリマドンナをつとめていた。なお、1784年から85年のケルントナートーア劇場での再演時には、モーツァルトの義姉アロイジア・ランゲがコンスタンツェ役を歌った。ベルモンテ役にはテノールのヴァレンティン・アーダムベルガー、アーダムベルガーは「劇場支配人」のフォーゲルサンクやいくつかのコンサートアリア(K.369)で初演者を務めている。オスミン役はバスのルートヴィッヒ・フィッシャー、フィッシャーの超人的演奏能力はカヴァリエーリのコロラトゥーラと対照をなす。初演は大成功を収め1782年中に16回演奏され、翌年にはプラハやライプチヒ、それ以降もドイツ語圏の各国で相次いで上演された。モーツァルト生存中に100回以上上演され、当時のモーツァルトの代表的作品となった。(1)
「後宮からの誘拐」はモーツァルトが作り上げた完璧なジングシュピール(ドイツ語歌芝居)の作品といってよい。加えて晩年の「魔笛」K.620からベートーヴェンの「フィデリオ」、ウェーバーの「魔弾の射手」へ続く純正なドイツ歌劇の発展を考えるならば、この作品はさらにその先駆的位置を占めるものといえよう。なお、初演時に臨席した皇帝ヨーゼフ2世がこの歌劇について「音符が多すぎる」と評したとき、モーツァルトは胸を張って「音符はちょうど必要な量が使われています」と答えた逸話も有名である。(5)
「後宮」の台本に対してモーツァルトは尻込みせずに逆に彼の若い情熱を音楽に傾注し、同時代の人たちをあっと言わせる作品を書き上げた。ここまでの彼はグルックの”オペラ改革”を横目に見て通り過ぎていたが、それはグルックの改革の対象がオペラ・セリアだったからである。モーツァルトの書いた成熟期のオペラはオペラ・ブッファとオペラ・セリアの合いの子である。グルックの有名な”改革”が音楽史上の注目すべき偉大な功績だとする説には疑問がある。もし、オペラの改革ということを口にするとすれば、オペラの構造を革命的に変えてしまったのは、グルックではなくてモーツァルトだからである。(6)
8/4、モーツァルト(26)
モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーがモーツァルトの父レオポルトの同意を得ないまま、シュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。(1)
8/6、モーツァルト(26)
モーツァルトの結婚式の2日後に、オペラ界の重鎮グルックのたっての希望で、「後宮からの誘拐」の特別上演が行われる。この老作曲家はこの作品を大いに気に入り、翌日にはモーツァルトを食事に招待した。(1)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
3.ラング編、国安洋・吉田泰輔共訳・モーツァルトの創作の世界、E・F・シュミット著・モーツァルトとハイドン(音楽之友社)
4.最新名曲解説全集(音楽之友社)
5.作曲家別・名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
6.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)

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