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音楽史年表記事編10.バッハの平均律が古典派様式の道を拓いた

 平均律以前の純正律の調律法では転調の範囲は限られていました。転調を行うと純正な和声が損なわれるからです。ヘンデルはオラトリオ「メサイヤ」HWV56を調性ごとに調律された7台のチェンバロを用いて演奏したとされます。ハレルヤコーラスでも確かに転調が行われていますが、転調ごとにチェンバロを使い分けていたのでしょうか。
 バッハは1722年、ヴュルクマイスターの「平均律」理論に基づいて調律されたクラヴィーアのための曲集を作曲し、長調、短調を含む24のすべての調性で音楽を作曲し、これらを演奏することが可能であることを示しました。バッハの平均律はいつでもいかなる調への転調が可能であることを示し、作曲法に革新を起こすことになりました。また、作曲が平均律を前提に行われるようになると、純正律の音楽において各声部の音程を支えていた通奏低音の必要性がなくなり、ここにバロック時代は終焉を迎え、やがて古典派期を迎えることになります。
 このように、バッハの平均律クラヴィーア曲集の登場により、自由な転調が可能となり、転調を頻繁に行う交響曲様式が成立し、サンマルティーニ以降、ヨーロッパ各地で交響曲が作曲されるようになりました。
 交響曲の起源はイタリア・オペラの序曲であるシンフォニアですが、やがてオペラの序曲はシンフォニーとして単独で演奏されるようになりました。1730年頃、ミラノ生まれのサンマルティーニは演奏会用のシンフォニーを作曲したとされます。サンマルティーニのシンフォニーには対比する2つの主題やその展開などが見られ、ソナタ形式の萌芽が見られるとされ、さらに第3部ではテンポをおそいメヌエットにすることが多く行われ、これはメヌエット楽章の初期の形態と見ることができます。交響曲では主題の提示や展開で転調を多用します。

【音楽史年表より】
1722年、J・S・バッハ(37)、平均律クラヴィーア曲集第1巻BWV846~869
バッハ、平均律クラヴィーア曲集第1巻を完成する。(1)
純正律について簡単に話したいと思います。各音の振動数の比が整数である時、その音程は純正に響いているといいます。振動数の比が1対2であればオクターヴ、2対3であれば完全5度、4対5なら長3度です。純正律で鍵盤楽器を調律すると、ハホト、ヘイハ、トロニの間隔がまちまちになるため、その他の和音は耐え難い響きとなります。音楽の領域をすべての方向にわたって探求し、自己の音空間を広げたいと願っていたバッハは、12音階の上に成り立つすべての長調、短調すなわち24の調を使いこなしたいとの意志を持っていました。1691年ザクセンのオルガニスト、アンドレアス・ヴュルクマイスターは著書「調律法」において「心地よく整えられた調律(wohltemperiert)」を提唱しました。この調律では3度音程を純正3度にせず、ほんの少しシャープにすることによって、どの調への転調も可能となり、また各調整の個性も聴き取れるというものでした。純正に固執したのでは24の調すべてを1台の鍵盤楽器で演奏することは出来ず、24全てを弾こうと思えば、純正を放棄し、ややシャープな長3度を持ってよしとせねばならぬという苦しい選択でしたが、バッハは未来を考えてヴェルクマイスターに賛同し、この調律を選び、1722年にプレリュードとフーガが1組となった全24曲からなる平均律クラヴィーア曲集第1巻を仕上げたのです。(2)
24曲のうち11のプレリュードの初稿が1720年に記入されたフリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集に含まれ、バッハはその後少なくとも3回にわたって手を入れ、その作業は晩年の1740年代にまで及んだ。(1)
1730年頃、サンマルティーニ(32)シンフォニア
イタリア・ミラノのジョヴァンニ・サンマルティーニはオペラの序曲であるシンフォニアを演奏会用シンフォニアとして作曲するが、これはもう交響曲(シンフォニー)というべきである。サンマルティーニはすでにオペラのシンフォニアの第1部にみられた対比する2つの動機を対比する主題に拡大し、ソナタ形式の提示部の形をととのえるようにした。つづく展開部では動機的処理をみせ、好んで対位法的書法もみせた。第2部のカンタービレでは規模を大きくし、第3部では従来の3/8拍子からもっとテンポの遅い3/4拍子のメヌエットのテンポにすることが多かった。(3)
【参考文献】
1.バッハ事典(東京書籍)
2.淡野弓子著・バッハの秘密(平凡社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)

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