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音楽史・記事編102.モーツアルトの盟友・ホルン奏者ロイトゲープ

 モーツァルトは4曲のホルン協奏曲やホルン五重奏曲、ホルンのための二重奏曲などを、ザルツブルク宮廷楽団のホルン奏者シュティヒ(通称プント)や街楽師であるロイトゲープなどのホルンの名手たちのために作曲しています。モーツァルトはこれらの名手たちとの交流からホルンという楽器の可能性を限りなく追求し、多くの名曲を生み出しました。
 モーツァルトの生涯の盟友となったホルン奏者イグナーツ・ロイトゲープは、ロビンス・ランドンの記述によれば、娘の代母にハイドン夫人がなっていることからエステルハージ侯爵家があったアイゼンシュタットでホルン奏者を務め、ハイドンのホルン協奏曲がロイトゲープのために書かれた可能性もあるとされています。その後、ロイトゲープはザルツブルクに移り宮廷楽団のホルン奏者となりますが、モーツァルトが幼いころはロバのロイトゲープと呼んで親しんでいました。ザルツブルクの宮廷楽団にはヨーゼフ・ハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンがいましたので、ロイトゲープはその関係でザルツブルクで雇われた可能性があります。ロイトゲープは1777年にウィーンに移り、チーズ商を営みながら街楽師のホルン奏者として演奏活動を続けたようです。
 当時のホルンはまだバルブ機構がなく、倍音以外の音を出し音階を奏することは非常に困難と見られ、モーツァルトがロイトゲープのために作曲したホルンのための作品を見ると、ロイトゲープのホルン演奏技術はかなりなものだったことが伺え、また、モーツァルトはホルンという楽器を、和声を担当する楽器から旋律を奏でる楽器に変貌させた音楽史上初めての作曲家ということができます。モーツァルトとロイトゲープの気の置けない友人関係ぶりは、モーツァルトの自筆譜に生き生きと残されました。

【音楽史年表より】
1762年作曲、ハイドン(30)、ホルン協奏曲ニ長調Hob.Ⅶd-3
エステルハージ家の第1ホルン奏者のヨハネス・クノーブラオホのために作曲されたと考えられているが、R・ランドンは、ヨーゼフ・イグナーツ・ロイトゲープの名を挙げている。後にモーツァルトと密接な関わりを持つことになるロイトゲープはエステルハージ家の楽員ではなかったが、1762年7月3日にロイトゲープの娘の洗礼が行われた際、ハイドン夫人が代母をつとめたこと、またホルン協奏曲の自筆譜第1頁にハイドン以外の手で「leigeb」と書かれており、これがロイトゲープの名を表したものかもしれないことから、新ハイドン全集ではロイトゲープのためにこの協奏曲が作曲された可能性もあるとしている。なお、自筆譜の中でバイオリンとオーボエのパートを取り違えて書いてしまったことを指して、ハイドンが最終頁の余白に「眠りながら書いた」と記している。(1)
1782年終わり頃作曲、モーツァルト(26)、ホルン五重奏曲変ホ長調K.407
モーツァルトの一連のホルン作品は1777年までザルツブルクの宮廷楽団員を務め、モーツァルトより一足早くウィーンに移り住み、チーズ商を営みながらホルン奏者としても活躍したイグナーツ・ロイトゲープのために書かれた。曲想はロイトゲープとの交友ぶりを偲ばせる「半ばおどけたもの」となっている(アインシュタイン)。ホルン、バイオリン、ビオラ2本、チェロで演奏される。(2)
1783年5/27作曲、モーツァルト(27)、ホルン協奏曲第2番変ホ長調K.417
自筆譜の表題には「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ろば、牡牛、馬鹿のロイトゲープを憐れむ、ウィーンにて、1783年5/27」と書かれ、モーツァルト最初のホルン協奏曲はザルツブルク、ウィーンを通じてモーツァルトの生涯の盟友であり、24歳年上のホルンの名手ロイトゲープのために作曲される。今日のバルブホルンが発明されたのは1830年頃のことであり、モーツァルトの時代にはヴァルトホルンと呼ばれる無弁の楽器が使用されていた。交響曲の発展に伴いホルンの役割は飛躍的に増大したが、ドレスデンのホルン奏者ハンペルは「シュトップフ奏法」を創始する。これはホルンの朝顔の中に右手を入れて倍音列にない半音や全音を得る奏法であり、これによってホルンはオーケストラの和音充填楽器としてばかりではなく、モーツァルトの4曲の協奏曲にみられるように名手の場合には旋律楽器としてもかなり柔軟な表現力を発揮する楽器となったのである。(3)(2)
1786年8月作曲、モーツァルト(30)、ホルン協奏曲第4番変ホ長調K.495
第2番K.417に続く2曲目のホルン協奏曲として1786年6月歌劇「フィガロの結婚」K.492の2ヶ月後に作曲される。自筆譜に「ロイトゲープのためのヴァルトホルン協奏曲」とあるように、この曲もまたロートゲープのために作曲されており、青、赤、緑、黒のインクをごちゃ混ぜに使って書かれた自筆譜が2人の打ち解けた間柄をしのばせている。楽曲自体は第1番ニ長調K.412や第2番変ホ長調K.417のロンドフィナーレにみられるようなユーモアは隠されておらず、4曲の中でも一番大きな堂々とした協奏曲となっている。(3)
1786年7/27作曲、モーツァルト(30)、ホルンのための12の二重奏曲K.487
第1曲の自筆譜には「1786年7月27日ウィーンにて、九柱戯をしながら」と上書きされている。新全集の校正者D・ベルケは次のように記している・・・九柱戯仲間のロイトゲープとこの遊びに興じていたとき、たまたまホルンの技巧が話題となり、モーツァルトは即座にこれらの小品を書き、いつもの調子でロイトゲープをからかったのである。(2)
1787年?作曲、モーツァルト(31)、ホルン協奏曲第3番変ホ長調K.447
モーツァルトの4曲のホルン協奏曲中最高傑作であるこの協奏曲は、従来モーツァルトの自作品目録に記載がないことから、1783年作曲と考えられていたが、プラートの筆跡による推定やタイソンによる自筆譜に使用された用紙の研究から、この曲の自筆譜と同じ用紙を用いているのは1787年の「ドン・ジョヴァンニ」だけであることが判明したことにより、1787年作曲と訂正された。この曲は当時ウィーンで活躍していた名ホルン奏者シュティヒ(通称プント)あるいはモーツァルトの盟友ロイトゲープのために書かれたとみられる。(2)
1791年作曲、モーツァルト(35)、ホルン協奏曲第1番ニ長調K.412/514
モーツァルトはウィーン時代に1777年までザルツブルク宮廷楽団のホルン奏者を務めた後、ウィーンに移住したイグナーツ・ロイトゲープのためにホルン協奏曲を4曲書いている。この第1番ニ長調は従来1782年末の作曲と言われてきたが、自筆譜の筆跡や用いられた用紙に基づくプラートやタイソンの資料研究によって、1791年の最後の10ヶ月と訂正された。この終楽章のスケッチには独奏ホルンが入ってくるところに「静かに-君、ロバ君、元気を出して-早く-続けろ-頑張れ-元気を出して-畜生-ああ!-ああ!憐れだな-ブラヴォー、みじめな奴め」とあり、終楽章の最後には「やれやれ?もうけっこう、もうけっこう!」と書き込まれており、ロイトゲープをからかうような愉快ないたづら書きからは、モーツァルトとロイトゲープがいかに親密な関係にあったかがわかる。(2)(3)

【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)

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