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音楽史・記事編104.ザルツブルク・聖ペーター教会

 ザルツブルク大聖堂に隣接した聖ペーター教会ではモーツァルトの最高傑作であり、音楽史においても傑出した名曲であるミサ曲ハ短調K.427が初演されています。モーツァルトの多くのミサ曲はザルツブルク大聖堂と聖ペーター教会で初演されていますが、大聖堂で上演されたミサ曲はザルツブルク宮廷からの委嘱による作曲であり、これらのミサ曲はビオラとホルンパートを欠いており、これは教会式典・簡素化の大司教の方針に基づくものであったようです。一方で、聖ペーター教会で初演されたミサ曲はザルツブルク宮廷のための作曲ではなく、恐らくモーツァルトの長期にわたる旅の成功を祈願した奉納ミサ曲であったように見られます。
 モーツァルトは1769年10月に聖ペーター教会でドミニクス・ミサ曲ハ長調K.66を初演しています。このミサ曲はモーツァルト家の家主の息子のハーゲナウアーが新任司祭として初めて執り行うミサのために作曲されたとされています。また、モーツァルトはこの年の12月には父レオポルトともに初めてイタリアへ出発しており、イタリア旅行の成功を願った奉納ミサ曲の意味合いもあったのではないかと見られます。モーツァルトはロンドンでクリスティアン・バッハに出会い、クリスティアン・バッハからイタリアのマルティーニ師に対位法等を学んだことを聞き、またイタリアへ渡りマルティーニ師に師事することを勧められた可能性があります。また、ザルツブルク宮廷楽団総監督のフィルミアン伯爵の実弟はミラノのロンバルディア地方総督であり、モーツァルト父子はミラノのフィルミアン伯爵には、パルマ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマの貴族に宛てての紹介状を書いてもらうなど厚遇されます。(3)
 21歳のモーツァルトはザルツブルク宮廷楽団を辞職し、母とともにマンハイム・パリへの旅行に出発します。この旅行はモーツァルトの求職を目的としており、モーツァルトはこの旅行の成功を祈ってミサ曲変ロ長調K.275を作曲しています。このマンハイム・パリ旅行は当初モーツァルトと父レオポルトの2人の旅行申請が却下され、父レオポルトは自身の解雇処分を回避するため、結局は母のマリア・アンナを同行させています。このような出発前の混乱から奉納ミサ曲の上演は行われず、モーツァルトが出発したのちに父レオポルトによって聖ペーター教会において初演されます。
 モーツァルトは1781年女帝マリア・テレジアの死去を契機に、ウィーンに定住することとなり、女帝の死去に伴い皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙主義の改革に乗り出し、モーツァルトは早速ドイツ語ジングシュピール「後宮からの誘拐」作曲の委嘱を受け、さらにコンスタンツェという伴侶を得て、これからのウィーンでの音楽家としての成功を祈願し奉納ミサ曲ハ短調K.427を作曲したものと見られます。コンスタンツェを伴ってザルツブルクに帰省したモーツァルトは、ザルツブルクに別れを告げる最期の夜にミサ曲ハ短調K.427を聖ペーター教会で初演します。カルル・ド・ニの「モーツァルトの宗教音楽」では・・・第1ソプラノはコンスタンツェのために作曲され、キリエの中間部ではソプラノ・ソロは2オクターブもの跳躍を行い、ゆっくりと旋律線を下降した後に低音のイ音まで下がり、突然に歓喜に満ちて高音に跳躍するが、コンスタンツェは極めて自然にこの部分を歌えたという。・・・音楽史における最高傑作であるこの記念碑的な楽曲の本質は、様式の統合もさることながら極めて学問的な対位法からイタリア風声楽曲の名人芸まで、すべての音楽の定石がこの上もなく豊かな表現力を与えられているということなのである。
 モーツァルトの最高傑作のミサ曲ハ短調は未完に終わっています。しかし、セバスティアン・バッハが人生の最期にロ短調ミサ曲を完成させたように、もし長生きしていれば恐らくサンクトゥス以下を完成させたのではないかと思われます。

【音楽史年表より】
1769.10/15初演、モーツァルト(13)、ミサ曲ハ長調「ドミニクス・ミサ」K.66
ザルツブルク聖ペテロ教会で初演される。モーツァルト2曲目の荘厳ミサ曲。もとは4声とザルツブルク式弦楽器(ビオラ抜き)、2つのトランペット、ティンパニと通奏低音のためのものだが、その後たびたび再演される機会があり、7年後の再演の際にオーボエとホルンを2本ずつ、それにもう2本のトランペットを加えた。彼がいかにこの曲を重視していたかがわかる。ハーゲナウアー師のラテン語で書かれた日記は、この曲を誰もがきわめて優美に感じたと述べており、またこの日記によると、荘厳ミサ曲はモーツァルト自身が指揮をして、最後には30分以上にわたって大修道院付属聖ペトロ聖堂のバロック・オルガンを前に即興演奏を行い、列席の人々を驚嘆させたという。(1)
モーツァルト家の家主の息子でモーツァルトの幼なじみの友カイエターン・ハーゲナウアーがベネディクト派聖ペテロ修道院の新任司祭として初めて執り行うミサのために作曲される。(2)
12/13、モーツァルト(13)
モーツァルト、父と共にイタリアへ出発する。(第1回イタリア旅行、1年3ヶ月半)(2)
1777年9/23以前作曲、モーツァルト(21)、ミサ曲変ロ長調K.275
モーツァルトがマンハイムに滞在中の12/22ザルツブルク・聖ペテロ教会で父レオポルトの指揮で初演され、新しくザルツブルク宮廷と契約を結んだばかりのカストラート歌手チェッカレッリがすばらしい歌唱を聞かせたという。厳格な書法をほとんど挟まない平明な民謡調のこのミサ・プレヴィスは現今まで教会合唱団が最も好んで取り上げるレパートリーの1つである反面、まさにその世俗性が19世紀の教会音楽の「浄化」の動きの標的とされた。(2)
モーツァルトはマンハイム、パリ旅行の成功を祈願してミサ曲を作曲する。
9/23、モーツァルト(23)
モーツァルト、母とともにマンハイム、パリへ出発する(マンハイム・パリ旅行、1年4ヶ月半)(2)
1783.10/26初演、モーツァルト(27)、ミサ曲ハ短調K.427
ザルツブルクの聖ペーター教会で初演される。2つのソプラノパートのうち1つは新妻のコンスタンツェ、もう1つはザルツブルク宮廷のソプラノ・カストラート歌手が受け持ち、モーツァルトの指揮のもと、聖ペーター教会合唱団および宮廷楽団の協力を得てこのミサが奉じられたことが、モーツァルトの姉ナンネルの日記から読み取れる。(2)
このミサは美しいソプラノの声をもっていたモーツァルトの妻のコンスタンツェに関係する奉納のミサであるから、第1ソプラノの独唱は彼女を念頭に書かれていることは間違いない。コンスタンツェ・モーツァルトの声楽や才能について確かな資料が残っている。クレドの「精霊によりて受肉したまい」は、聖母に対する敬い、愛情、感謝、そして人となりたもうた方への讃仰であり、教会音楽に限らず、あらゆる声楽作品のなかの最高峰である。(1)
10/27、モーツァルト(27)
モーツァルトとコンスタンツェはザルツブルクを出発し、ウィーンへの帰途につく。モーツァルトは、以降生涯ザルツブルクへ戻ることはなかった。(2)

【参考文献】
1.カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳、モーツァルトの宗教音楽(白水社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)

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