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音楽史・記事編118.ブラームスの創作史

 ロマン派期には多くの作曲家が多様な様式で作曲し、お互いに影響を与えています。本編ではブラームスの年度別分類別作品集計をもとに、ブラームスの創作史について見て行きます。なお、音楽史年表データベースに収録している作品を集計しています。また、集計において例えば、「3つの歌」は3作品とし、「ハンガリー舞曲集全21曲」は21作品として集計しています。

〇ブラームスの創作について
 ブラームスの創作では生涯を通してピアノ伴奏あるいは無伴奏の歌曲が、またピアノ独奏曲、初期と晩年にはオルガンによるコラール前奏曲などが作曲されており、無伴奏歌曲やオルガンのための創作はブラームスが古典派期以前の純正律による音楽様式に関心があったことを伺わせます。ピアノ独奏曲では3曲のピアノ・ソナタや変奏曲、ピアノ連弾のためのハンガリー舞曲などの名作を残しています。ブラームスはウィーン定住前に150曲に及ぶドイツ民謡の編曲を手掛けており、バッハの時代あるいはそれをさかのぼるドイツ古典音楽の復興を創作の目的としていたとされます。
 今日、ブラームスのもっとも親しまれている創作分野は交響曲や協奏曲、そして室内楽です。室内楽の分野については創作の初期化から取り組み、ピアノ三重奏曲やピアノ四重奏曲、弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲、弦楽六重奏曲のほかバイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタに加え、晩年にはクラリネットによる室内楽の傑作を作曲しています。ブラームスは弦楽四重奏曲については3曲しか残していませんが、約20曲の弦楽四重奏曲が破棄されたとされ、納得がゆくまで推敲が行われ、結果として出版された曲のみが残されたようです。管弦楽曲分野では20代後半に2曲の小管弦楽によるセレナーデが作曲され既にブラームスの作風が現れています。大管弦楽による作品は40歳以降に創作が行われます。大曲ドイツ・レクイエムを作曲し、3曲のハンガリー舞曲のオーケストレーションを行い、満を持して交響曲第1番ハ短調を初演しています。協奏曲では20代前半にピアノ協奏曲第1番を初演していますが不評であり、その後46歳でバイオリン協奏曲を初演しますが、音楽史上前例のない大オーケストラとの協奏となっています。また、ピアノ協奏曲第2番でも大オーケストラとの協奏により音楽史に金字塔を打ち立てています。
〇ブラームス、シューマンと出会い、世に知られる
 ブラームスが生まれた北ドイツのハンブルクはルネサンス期のフランドルの影響が残る文化的にも豊かな地方であり、フランドル楽派の時代、神聖ローマ帝国は皇帝カール5世のもとフランドル、オーストリア、ボヘミア、ハンガリー、イタリア、スペインおよびスペインの世界の植民地を領有する世界帝国を形成し、フランドルがその中心地であり、イタリアのフィレンツェのルネサンスに対し北のルネサンスと呼ばれ、音楽においてもヨーロッパの中心であり多くの音楽家を輩出していました。ハンブルクでは古くから鵞鳥市場のオペラ劇場がありイタリア・バロックオペラが上演され、教会には大きなパイプオルガンが据えられ、バッハのオルガン音楽に影響を与えています。このような古い楽都のハンブルクに生まれたブラームスは街楽師のコントラバス奏者であった父親から幼い時期からバイオリンを学び、マルクセンなどの音楽教師に師事しています。
 若き音楽家に成長したブラームスはハンガリーのバイオリン奏者レメーニと交流を持ち、さらにレメーニの紹介で、ヨーロッパ各地の宮廷楽団でのコンサートマスターの経験のあるバイオリン奏者ヨアヒムとの運命的な出会いを果たします。ブラームスはレメーニとともにワイマールのリストを訪問し、リストはブラームスが持参したスケルツォを初見で演奏しますが、パリのサロン文化に浸っていたリストの贅沢な暮らしぶりなどに違和感を感じ、レメーニとも別れ、ヨアヒムのもとに逃れます。ヨアヒムはブラームスにシューマンを訪問するように勧め、ブラームスは1853年8月末にデュッセルドルフのシューマン家を訪ねます。シューマンはブラームスが演奏したピアノ・ソナタとスケルツォに感動し、評論における10年の沈黙を破り、「新しい道、ヨハンネス・ブラームス」とこの若き音楽家をたたえ、ドイツ楽壇に大きな波紋を引き起こし、ブラームスはドイツにその名が知られるようになります。(1)
 ブラームスはこの後、精神を病んだシューマンを助け、シューマン家の家計に携わり、また当時ヨーロッパでも人気のピアニストであったシューマンの妻のクララとの競演を行うなど交流し、シューマンの死を見届けています。
〇ブラームス、ウィーンに定住・・・ワーグナーの楽劇とシュトラウスの喜歌劇
 ウィーンでは1857年のオーストリア皇帝フランツの改造計画にもとづき、ウィーン旧市街を取り囲んでいた城壁と堀を取り壊し新しい街並を作るために大規模な土木工事が行われており、1870年には新しいリング通りの外側にウィーン楽友協会が完成しています。
 ブラームスがウィーンで活躍した時代、ウィーンではフランス・グランドオペラがもてはやされ、マイヤーベーアの「ユグノー教徒」だけでも毎年10回程度の公演が行われ、またビゼーの「カルメン」が初演されるとヨーロッパで大ヒットしていますので、ウィーンでも上演されたものと思われます。また、イタリアのヴェルディの人気オペラ「リゴレット」なども上演された可能性があります。ウィーンの作曲家では、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の「こうもり」や「ジプシー男爵」などの喜歌劇の初演が行われ、またスッペなどの喜歌劇も上演されていました。ブラームスはヨハン・シュトラウス2世とは親しく交流し、シュトラウスの音楽を楽しんでいたようです。しかし、ブラームスはイタリア・オペラには関心を示さず、これは本質的にドイツ古典音楽の復興という誇りがあったからとも思われます。
 ブラームスは1863年ジングアカデミー指揮者に就任し、ウィーン定住を決意します。ブラームスはウィーンでもセバスティアン・バッハなどのドイツ古典音楽の研究を続け、ジングアカデミーではバッハのカンタータ、クリスマス・オラトリオやヨハネ受難曲などを上演しています。また、63年3月にはワーグナーがウィーンでの演奏会を企画し、ブラームスはその演奏会のための楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のパート譜の作成に携わり、大きな感銘を受けています。ワーグナーは当座の資金確保のために既存の歌劇「タンホイザー」や初演前の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」からの抜粋音楽で演奏会を企画したようです。
 ブラームスはヨアヒムや音楽批評家のハンスリックとともに、リストやワーグナーの「新ドイツ主義」に反旗を翻しますが、自らはワーグナーの歌劇「タンホイザー」の自筆譜を所有するなど、ワーグナー音楽に対する敬意も持っていたように見られます。ブラームスは1871年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任し、1875年までの演奏会を主宰しますが、演奏曲目には当時話題のリストやワーグナーの新ドイツ主義の音楽やベートーヴェンの交響曲は含まれず、自身の「ドイツ・レクイエム」やバッハの「マタイ受難曲」、ヘンデルのオラトリオなどが演奏され、ウィーン楽友協会との軋轢を生んだとされます。
〇交響曲第1番の創作
 ブラームスは交響曲の創作を思い立ってから完成までに20年の月日を要しています。この間にロマン派の多くの作曲家が多様な交響曲を作曲しており、リストはダンテ交響曲やファウスト交響曲を、ドボルザークは初期の5曲の交響曲を、チャイコフスキーも3曲の交響曲を発表し、またブルックナーも既に2曲の交響曲を作曲しています。多様なロマン派の時代において、ブラームスはドイツ古典音楽の復興を模索していました。器楽では室内楽を中心に創作を行い、管弦楽では2つのセレナードを作曲し、そして大曲のドイツ・レクイエムを完成させたブラームスはハイドンの主題による変奏曲で自らの管弦楽法を試し、満を持して交響曲第1番ハ短調を完成させます。ブラームスが初めてシューマンの前でピアノ・ソナタを弾いた時、シューマンはそのソナタを交響曲のようなソナタと評しましたが、それ以来ベートーヴェンに代表されるドイツ音楽の伝統にふさわしい交響曲を試行錯誤し、完成させたのでした。ブラームスは4つの性格の異なる交響曲を作曲します。ドイツ古典派の伝統を受け継いだ交響曲第1番、ブラームスの田園交響曲である第2番、交響曲第3番ではイタリアの晴朗さ、あるいは恋愛感情の感傷を描いたのか、第4番はバッハのカンタータの主題や教会旋法を用いた純正律による古典音楽への回帰の交響曲といえるのでしょうか。
 ブラームスの時代にはヨーロッパでは鉄道網が広がり、ブラームスは交響曲が完成するとその新作交響曲の楽譜を携え、各地を演奏旅行するようになっています。
〇ドイツ古典音楽の復興
 ブラームスはシューマンと同様にプロテスタントの地域に生まれ、カトリック地域との境界で作曲家として活動を行っており、シューマンと同様に合唱団の活動に関わり、合唱団では共にバッハのマタイ受難曲などを演奏しています。シューマンがデュッセルドルフでマタイ受難曲を演奏した時にはカトリックの合唱団員から猛烈な抵抗と非難を浴び、精神に異常をきたすほどでしたが、カトリック地域でありながら多民族と異文化が共存しているウィーンでは合唱団との軋轢は記録されておらず、バッハの音楽が受け入れられたものと見られますが、演奏曲目選定において楽友協会などの主催団体の抵抗はあったようです。ブラームスは本来教会で演奏されるべき宗教的作品を、ドイツ古典音楽作品として劇場で上演したものと見られます。
 吉田秀和氏はブラームスについて次のように述べています・・・ブラームスは、ドイツ古典音楽の偉大さをもう一度回復するために、感傷と官能性とですっかりふくれあがってしまったドイツ後期ロマン派との対決という巨大な課題を、一身にせおってあるきだした・・・(1)

【音楽史年表より】
1833年5/7、ブラームス(0)
ヨハネス・ブラームス、ハンブルクに生まれる。ブラームスの生家は屋根裏部屋を含めると7階からなる粗末なアパートの2階で、この環境からなんとかして這い上がりたいという思いがブラームス夫妻とブラームスの悲願であった。ブラームス家は父ヤーコプのコントラバス奏者としての収入だけでは十分ではなく、父親は写譜を副業として、母は針や木綿の販売などを行って生計の足しにしていた。(2)
1853年6/20、ブラームス(20)
ブラームス、ヨアヒムの勧めにより、レニーメとともにワーマールのリストのもとを訪問する。リストはブラームスが持参したピアノのためのスケルツォ 変ホ短調OP.4を素晴らしいできばえで初見演奏した。(2)
9/30、ブラームス(20)
ブラームス、デュッセルドルフのシューマンの家を訪問する。このとき、ブラームスはピアノ・ソナタ第1番ハ長調Op.1、第2番嬰ヘ短調Op.2、ピアノのためのスケルツォ 変ホ短調Op.4を持参し、演奏を行う。シューマンはブラームスのピアノ・ソナタを聴いた衝撃を「彼はほんとうに驚くべき世界をあらわにした・・・そこには変装した交響曲のようなソナタがあった」と書き記す。(2)
1861年11/16初演、ブラームス(28)、ピアノ四重奏曲第1番ト短調Op.25
ハンブルクでクララ・シューマンのピアノ他で初演される。ピアノ四重奏曲の構想は1855年にさかのぼるが、1859年夏にブラームスはト短調ピアノ四重奏曲を演奏していることから1859年頃には作品は基本的に成立していたと思われる。ラインハルト・フォン・ダルヴィックに献呈される。(2)
1867年12/1初演、ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム第1曲「悲しむ人は幸いである」Op.45の1
12/1初演、ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム第2曲「人は昔、草のよう」Op.45の2
12/1初演、ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム第3曲「教えてください、主よ」Op.45の3
ヘルベックの指揮で初演される。(2)
1768年4/10初演、ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム第4曲「万事の主よ、あなたのいますところはどれ程、愛されているでしょう」Op.45の4
4/10初演、ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム第6曲「地上に永遠の都はない」Op.45の6、ドイツ・レクイエム第7曲「主に結ばれて死ぬ人は幸いである」Op.45の7
ブレーメンで初演される。(2)
1769年2/18初演、ブラームス(35)、ドイツ・レクイエム第5曲「今はあなたがたも悲しんでいる」Op.45の5
ライプツィヒでドイツ・レクイエムの全曲を通しての初演が行われる。(2)
1873年11/2初演、ブラームス(40)、管弦楽のための「ハイドンの主題による変奏曲」Op.56
ウィーンにて、ブラームス自身の指揮で、フィルハーモニー演奏会で初演される。(2)
1876年11/4初演、ブラームス(43)、交響曲第1番ハ短調Op.68
カールスルーエの宮廷劇場でオットー・デッソフの指揮で初演される。その後、マンハイム、ミュンヘン、ウィーンなど各地で演奏される。シューマンの音楽評論「第2の道」によって世に紹介されたブラームスは、交響曲の作曲を自分の最大の課題とし、1855年頃から交響曲の作曲に着手している。しかし、その後20年以上も完成に時間を要したのは、彼がベートーヴェン様式の後継者としての責務の重さのために遅筆となったためだけでも、また慎重に推敲を進めて行っただけでもない。この作品における基礎動機を用いた徹底的な楽曲展開は優美な音楽に慣れ親しんでいた聴衆には強い衝撃を与えるものであった。一瞬の隙もなく構築されたこの交響曲に関してハンス・フォン・ビューローが「ベートーヴェンの第10番交響曲」と述べた話は有名である。(2)
1877年12/30初演、ブラームス(43)、交響曲第2番ニ長調Op.73
ウィーンでハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演される。ブラームスは景観のすばらしい明るいぺルハチャと静かでおだやかなリヒテンタールでの生活のため、この交響曲は柔和で温和であり、人間的な深みとあたたかくて喜ばしいものとなっている。そのため、この曲はブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもある。そして、ブラームスの友人でウィーン大学医学部のビルロートは次のように述べている・・・「幸福な喜ばしいムードがこの作品全体にあふれている。そこには完全主義がはっきりあらわれていて、清澄な思考とあたたかい感情が無理なく流れている」。このような曲の性格は、この後のペルハチ滞在中に作曲されたバイオリン協奏曲、バイオリン・ソナタ第1番などとも共通している。(3)
1879年1/1初演、ブラームス(45)、バイオリン協奏曲ニ長調Op.77
ヨアヒムのバイオリン独奏、ブラームスの指揮によりライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で初演される。同年の出版にあたっては、友人ヨアヒムに献呈される。この協奏曲を通してバイオリンの表現語法に精通したブラームスは、その後3曲のバイオリン・ソナタと二重協奏曲を生み出すことになる。(2)
1881年1/4初演、ブラームス(47)、管弦楽のための「大学祝典序曲」ハ短調Op.80
ブレスラウにてブラームスの指揮で初演される。ブラームスは1879年ポーランドのブレスラウ大学から名誉博士号の称号を受け、そのお返礼として作曲する。曲は「われわれは立派な校舎を建てた」「領邦君主」「新入生の歌」「喜びの歌」の4曲の学生歌を織り込んで大編成のオーケストラ曲にまとめられた。(2)
11/9初演、ブラームス(48)、ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.83
ブダペストでブラームスのピアノ独奏、アレクサンダー・エルケルの指揮で初演される。1881年7/7、ブラームスはエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクに宛て、スケルツォを伴う小さなピアノ協奏曲を書いたと上機嫌で手紙を書く。同種の手紙を彼はクララにも宛てて書いているが、クララもエリザベートもブラームス一流のはったりには騙されなかった。事実これはきわめて演奏の困難な華麗な協奏曲であるばかりか、19世紀後半のピアノ協奏曲の最高傑作に数えられる創作力の充実を感じさせる作品である。(2)
1883年12/2初演、ブラームス(50)、交響曲第3番ヘ長調Op.90
ウィーン楽友協会大ホールでハンス・リヒターの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。この交響曲を作曲したヴィースバーデンで、ブラームスは善意の人たちに囲まれて、創作に集中することができた。ヴィースバーデンには歌手を志望していたヘルミーネ・シュピースという、ブラームスより34歳も年下のまだ16歳の女性の家があり、シュピースとの交際によって、この交響曲には晴朗さや感傷性がある。この曲と前後して歌曲の創作の数が著しく増加してきており、これらの歌曲では歌詞が恋愛のものから自然に対する愛のものへと移っているのが目立ち、この第3交響曲は歌曲的な要素を持ち、声楽的に淀みなく、自然に対する感情が込められている。(3)
1885年10/25初演、ブラームス(52)、交響曲第4番ホ短調Op.98
マイニンゲンの宮廷劇場で開かれた宮廷楽団の第3回予約演奏会で、ブラームス自身の指揮で初演される。ブラームスの危惧に反して、マイニンゲンでの初演の評は素晴らしいものであった。この第4交響曲の作曲にあたってブラームスはこれまでの3曲とは全く異なる創作態度で臨んだ。この作品によってブラームスは明確に後期様式の入り口に立った。この交響曲で注目されるのは、第4楽章のパッサカリアである。これはセバスティアン・バッハのカンタータ第150番「主よ、われは汝を求む」BWV150の終曲に基づいている。4曲の交響曲の完成をもってブラームスは、交響曲に対する自身の回答を出した。ベートーヴェンの理想をみずからの課題としたブラームスがこれらの交響曲によって実現した世界は、ベートーヴェンの模倣ではなく彼独自の世界であった。(2)
1891年12/12初演、ブラームス(58)、クラリネット五重奏曲ロ短調Op.115
ミュールフェルトのクラリネットとヨアヒム四重奏団によって初演される。91年夏にイシュルで出会ったマイニンゲン宮廷楽団のミュールフェルトとの出会いは、一度引退を決意したブラームスに、新たな想像力の高まりをもたらした。ブラームスはミュールフェルトのためにクラリネット五重奏曲とクラリネット三重奏曲を作曲する。(2)
1896年作曲、ブラームス(63)、オルガンのための11のコラール前奏曲Op.122
1896年5/20に亡くなったクララ・シューマンの追憶のために作曲されたともいわれ、死期を悟った自分自身への挽歌であったともされる。(2)
1897年4/3、ブラームス(63)
ブラームス、死去する。(2)

【参考文献】
1.シューマン著、吉田秀和訳・「音楽と音楽家」訳者あとがき(岩波書店)
2.西原稔著、作曲家・人と作品シリーズ ブラームス(音楽之友社)
3.作曲家別・名曲解説ライブラリー・ブラームス(音楽之友社)

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