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音楽史年表記事編60.ベートーヴェン、月光ソナタ嬰ハ短調とベッティーナ

 ベートーヴェンは1808年、ナポレオンの実弟がヴェストファーレン国王となっていたカッセル宮廷から楽長就任の要請を受けます。これを知ったエルデーディ夫人とベートーヴェンの親友であるグライヒェンシュタイン男爵はベートーヴェンをウィーンにとどめるように工作を行い、結果として、ベートーヴェンはルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵から合計で4000グルデン(1グルデン1万円として4000万円/年)の年金が受給されることになります。ベートーヴェンは安定した収入が得られるようになったことから、グライヒェンシュタインに妻探しを依頼し、グライヒェンシュタインは親しくしていたマルファッティ家の娘の姉のテレーゼをベートーヴェンに紹介します。なお、ベートーヴェンはテレーゼのためにピアノ曲「エリーゼのために」WoO59を作曲したとされますが、コピッツの研究ではテレーゼのために作曲したのではなく、歌劇「フィデリオ」でフロレスタン役を歌ったテノール歌手レッケルの妹で、後にフンメルの妻のとなったエリーザベトのために作曲したとされます。エリーザベトはワイマール宮廷楽長となっていた夫のフンメルとともに、亡くなる3日前のベートーヴェンの病床へ見舞いに訪れています。

 ベートーヴェンはマルファッティ家と交際を続けていましたが、1810年5月にベッティーナ・ブレンターノの訪問を受けます。ゲーテと交流のあったベッティーナはフランクフルトの豪商で金融業も営むブレンターノ家の才女で、ベッティーナの母のマクシミリアーネはゲーテのデビュー作である「若きウェルテルの悩み」第2部のモデルとなっています。ベッティーナはウィーンの異母兄の妻アントーニアの実家のビルゲンシュトック邸に滞在し、そこでベートーヴェンの月光ソナタに出会います。ベッティーナはこれまで聴いたことのない音楽に心を動かされ、作曲したベートーヴェンに是非会いたいと思い、ようやくベートーヴェンの住居を探し出し訪問したようです。ベートーヴェンはベッティーナの才覚に魅了され、約1週間ベッティーナがウィーンを離れるまで、毎日音楽について、またゲーテについて語っています。ベッティーナの月光ソナタとの出会いが、ベートーヴェンとゲーテの会合のきっかけとなり、この後のベートーヴェンの人生にとって、また後期の作曲活動に大きな影響を及ぼす転機となりました。後にベッティーナはベートーヴェンの音楽についての話を取りまとめ「ゲーテとある子どもとの往復書簡」に収録し出版します。ベートーヴェンはベッティーナとの別れに際し、歌曲「新しい恋、新しい生」Op.75の2と歌曲「憂いの喜び」Op.83の1の自筆譜を送りますが、歌曲「憂いの喜び」はベッティーナによってワイマールのゲーテの手に渡ります。
 狭いウィーンのことですからベートーヴェンとベッティーナが毎日会っているといううわさが、マルファッティ家にも聞こえたのでしょう、このうわさ話を聞きテレーゼの両親はベートーヴェンとの縁談を断ったものと思われます。しかし、その後もベートーヴェンの日記には、ベートーヴェンがテレーゼと本の貸し借りをしていることが記されており、両人が不和になったとは思われず、結構気が合っていたのかもしれません。

【音楽史年表より】
1801年作曲、ベートーヴェン(30)、ピアノ・ソナタ第14番「幻想曲風ソナタ」嬰ハ短調「月光」Op.27-2
自筆のスケッチの終楽章に1801年の記載があり、1801年の作曲と思われる。1802年3月の出版ではジュリエッタ・グイッチャルディに献呈される。前作変ホ長調ソナタと同様に3つの楽章は連続して演奏される。この作品は本来あるべき4楽章ソナタの第1楽章を欠き、緩徐楽章-スケルツォ-フィナーレで構成される。(1)
1806年6月、
ベッティーナ・ブレンターノ、祖母である女流作家ゾフィー・ラ・ロッシュの家でその昔、青年ゲーテが祖母に書き送った手紙の束を偶然に見つける。その手紙には・・・あの大ゲーテがベッティーナの母マクシミリアーネをこれほど激しく愛していたとは、信じられぬ思いで文面を何度も読み返し、84通の手紙をひそかに全部写しとった。夢想家であると同時に行動家でもあったベッティーナは、晩年の母がゲーテの母アヤ夫人と親交があったと知って、75歳で今も独り健在な夫人を早速訪ねる。(2)
1807年4月半ばすぎ、
ベッティーナ・ブレンターノがゲーテを訪問する。ベッティーナはゲーテの先輩にあたる老詩人ヴィーラントの紹介状を持参する。(2)
1808年11/1、ベートーヴェン(37)
ベートーヴェン、オッペルスドルフ伯爵への手紙で、生まれ故郷ボンにも近いヴェストファーレン国王の侍従長であったヴァルトブルク伯爵から、カッセル宮廷の第1宮廷楽長への就任要請があったことを仄めかす。この頃のヴェストファーレン国王はナポレオンの実弟ジェローム・ボナパルトであり、コルシカ島生まれの22歳の青年が兄の威光によって1807年に国王に戴冠し、カッセルに宮廷を構えていた。ベートーヴェンへの年俸は金貨600ドカーテン(2700フローリン、約2700万円)であったという。(3)
これを知ったエルデーディ夫人はベートーヴェンと親しいグライヒェンシュタイン男爵と諮って、彼をウィーンにひき止める工作を始める。それは財力豊かな大貴族に拠出金を呼びかけ、ベートーヴェンがウィーンに留まることを条件にカッセルの宮廷楽長の年俸を上回る年金を彼に支給しようというものだった。(4)
1809年作曲、ベートーヴェン(38)、歌曲「新しい恋、新しい生」第2稿Op.75-2
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの詩による。第1稿(WoO127)は1798年あるいは99年に作曲されている。1810年6月ベートーヴェンはベッティーナ・ブレンターノとの別れに際してゲーテの詩によるこの歌曲の手稿譜を含めて2曲贈ったものと思われる。「新しい恋、新しい生」Op.75-2と「憂いの喜び」Op.83-1である。前者にはベートーヴェンの手で「ベートーヴェン作曲、ベッティーナ・ブレンターノへ」と署名されている。(1)(4)
1809年3/1、ベートーヴェン(38)
ベートーヴェンがルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、フェルディナンド・フォン・キンスキー侯爵から計4000フローリンの年俸を受ける契約が成立する。オーストリア領内に留まることが年俸受給の条件となり、カッセル行きは回避される。(1)
1810年はじめ、ベートーヴェン(39)
ベートーヴェンは友人のグライヒェンシュタイン男爵に手紙で妻探しを依頼するが、気のいい若い男爵は、自分が親しくしていたマルファッティ家にベートーヴェンを紹介する。(4)
春から夏作曲、ベートーヴェン(39)歌曲「憂いの喜び」第2稿Op.83-1
ベートーヴェンは6月ベッティーナ・ブレンターノとの別れに際し、ゲーテの詩による歌曲の手稿譜を2曲贈ったものと思われる。「新しい愛。新しい生」Op.75-2と「憂いの喜び」Op.83-1である。後者にはゲーテの手で「v.ベートーヴェン」と書き込まれたものが現存しており、おそらくベッティーナから贈られたものであろう。(4)
4/27作曲、ベートーヴェン(39)、ピアノのためのバガテル イ短調「エリーゼのために」WoO59
この曲はテレーゼ・マルファッティのために書かれたものだと長い間信じられてきた。楽譜発見者のルートヴィヒ・ノールが手稿の余白にしるされた「テレーゼのために」を「エリーゼのために」と読み誤ったと言われてきた。(1)
しかし、最近の研究では「エリーゼ」が歌劇「フィデリオ」初演でフロレスタンを演じたテノール歌手レッケルの妹でエリーゼと愛称されていたエリーザベトであると言われる(2009.5コピッツの論文)。エリーザベトはソプラノ歌手でのちのフンメル夫人となる。(4)
5/8、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノが異母兄フランツの妻アントーニアのウィーンの実家である故ビルゲンシュトック邸を訪れる。アントーニアの父親のビルゲンシュトック伯爵は学者、政治家であり美術品のコレクターとしても有名であった。ビルゲンシュトック伯爵は前年の10月に病没しているが、1802年にベートーヴェンがピアノ・ソナタ第15番「田園」を献呈したゾンネンフェルスの義弟にあたる人でもあった。ベッティーナはこの家の音楽会で今まで聞いたこともないピアノ曲に魂をうばわれてしまう。その曲はベートーヴェンの月光ソナタであったという。こんな曲をつくる人物はいったいどんな作曲家なのか、彼女は人が止めるのも聞かず、そのベートーヴェンなる人物にどうしても会おうと決心する。(5)(4)
5/25頃、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノがベートーヴェンを訪問する。ベッティーナがベートーヴェンを訪ね当てたのは、メルケルバスタイの上に建つパスクアラティ・ハウスの4階だった。ベートーヴェンはベッティーナの期待を裏切らなかった。彼の内面から放射される天才の精気が彼女に全世界を忘れさせたのだった。ベートーヴェンもまた突然現れた情熱的な黒い瞳の娘を前にして不思議な感銘を受けたに違いない。その頃、彼はしきりにゲーテの詩を作曲し、ちょうどその時はエグモント序曲を手がけていたのだが、そこにいるのはゲーテの作中人物ミニヨンそっくりの少女だった。会ったその日にベートーヴェンはベッティーナを彼女の宿泊先であるビルゲンシュトック邸に送って行く。その日はそこで昼食会が開かれていて、集まった人々はベッティーナがあの変人のベートーヴェンに腕をとられて現れたのに目をみはった。意気投合した二人は以後毎日のように会った。夜になるとベッティーナは昼間聞いたベートーヴェンの話を文章にして、次回にそれを本人に見せて訂正してもらった。そしてその内容を手紙でゲーテに知らせたのだった。のちにベッティーナの「ゲーテとある子どもとの往復書簡」に収録されたその手紙は、音楽に対するベートーヴェンの基本理念や、シンフォニーを作曲するときの創造過程を知ることのできる貴重な資料となっている。(5)(4)
5月末まで、ベートーヴェン(39)
ベートーヴェン、多分グライヒェンシュタインを介して打診されたテレーゼ・マルファッティとの結婚の希望が両親によって断られる。旧友ヴェーゲラーへの手紙には「ぼくの誇りはおとしめられた」と書いている。(4)
6/3、
ベッティーナ・ブレンターノ、ボヘミアへ向けてウィーンを出発する。ウィーンを離れたベッティーナはゲーテにベートーヴェンを紹介する長い手紙を書く、「・・・あの方は全人類の教養をはるかに遠く先んじているのです。私たちは彼に追いつけるでしょうか?・・・」(1810年7/28ゲーテ宛の手紙より)。後年、ベッティーナは中年から晩年にかけて、ベルリンの貧しい民衆のための福祉活動のほか女性解放運動の先駆者として、ベートーヴェンの女友達としてふさわしい生涯を送った女性のひとりだった。(5)

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
3.平野昭著・作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
4.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
5.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)

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