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音楽史年表記事編75.モーツァルト、歌劇「フィガロの結婚」(1)自由・平等・博愛

 1782年4月、改革を進めていた皇帝ヨーゼフ2世は、50年にわたって君臨してきた宮廷詩人メタスタージョが死去すると、後任にゲーテやシラーのドイツ純文学と対極をなすカトリックのロココ時代の作家仲間のイタリア、ベネツィア出身のロレンツォ・ダ・ポンテを任命します。メタスタージョは皇帝を讃美するオペラセリアの台本様式を確立したオペラ界の巨人でしたが、それに対しダ・ポンテは全くタイプの異なる台本作家であり、しかも外交官、政治家であり作家であったあのカサノヴァの親友で、当初からオペラブッファの台本作家としての任用であり、これも、古い体制を一新したいというヨーゼフ2世の啓蒙主義の取り組みであったと思われます。
 ダ・ポンテはモーツァルトのミサ曲ハ短調のイタリア語版のオラトリオ「悔悟するダヴィデ」K.469の台本に携わり、やがてフランスのボーマルシェのフィガロ三部作のオペラ化を構想するようになります。

①フィガロの結婚の原作と自由・平等・博愛
 モーツァルトとダ・ポンテがフランスのボーマルシェのフィガロ三部作について知ったのは、1782年にパイジェッロが作曲したオペラ「セビリアの理髪師」が大ヒットしていたためと思われます。パイジェッロはフィガロ三部作の第1部をオペラ化しましたが、モーツァルトとダ・ポンテがオペラ化をしようとしたのは第2部「フィガロの結婚」でした。第1部の「セビリアの理髪師」はアルマヴィーヴァ伯爵がロジーナを見初め、救出するという純愛物語であるのに対し、第2部のフィガロの結婚ではロジーナと結婚したアルマヴィーヴァ伯爵が結婚間近の小間使いスザンナに廃止したはずの初夜権なる領主の権利を行使しようとするという貴族の退廃をテーマにしているところから、フランス国王ルイ16世は演劇の上演を禁止しており、これに倣ってウィーンのヨーゼフ2世も演劇としての「フィガロの結婚」の上演を禁止していました。これに対して、ダ・ポンテは貴族文化の退廃的とみられる部分を排除した台本に作りあげ、皇帝を説得し検閲を通過させます。台本作りはモーツァルトとダ・ポンテの二人三脚で行われたようで、モーツァルトは登場人物に身分を越えた自由・平等・博愛の役割を与え、殿様から使用人までを情感豊かに登場させています。
②貴族と庶民をつなぐ道化師モーツァルト
 モーツァルトはたびたび自分のオペラに自身を化身として登場させています。「イドメネオ」のイダマンテであったり、「ドン・ジョバンニ」では音楽家としてのドン・ジョバンニ、すなわちドン・ジョバンニが奈落に落ちるまで貴族の誇りを捨てなかったように、ドン・ジョバンニの化身モーツァルトは各国を回って音楽を作曲し最期まで音楽家としての誇りを守り抜きます。そして、「フィガロの結婚」では音楽教師ドン・バジリオがモーツァルトの化身として登場し、貴族と庶民をつなぐ道化師の役割を演じているようです。
 第4幕ではバロック・オペラやオペラセリアにならいマルチェリーナ、ドン・バジリオ、フィガロが順番に登場し人生哲学を歌います。通常の上演では残念ながら、マルチェリーナの羊のアリアとバジリオのロバのアリアは省略されます。その理由はマルチェリーナとドン・バジリオのアリアが難し過ぎるからのようですが、このドン・バジリオのアリアはモーツァルトのこのオペラにおける力作です。
 マルチェリーナは男女の愛について語ります・・・牡山羊と牝山羊はいつも愛し合っており、喧嘩をしたこともありません。野蛮な獣たちさえも、その連れ合いには平和と自由を与えるのです・・・
 ドン・バジリオはフィガロの分際で殿さまに立てつき、文句を言うなど身の仇じゃとし、ロバの皮の逸話のアリアを歌い、人生で困難に直面しても、うまく立ちまわれと諭します・・・妖精が現われロバの皮をくれた。暴風雨になったが、ロバの皮でぬれずにすんだ。オオカミが襲ってきたが、ロバの皮の臭さにオオカミは逃げ去った・・・
 フィガロはバルバリーナからスザンナの不実を聞いて、女の非情を嘆きます・・・女はみんな魔性物、波に吸い込む波の精、道を惑わす夜這い星、棘のあるバラ、おべっか使いの牝狐、性悪の鳩・・・女こそ呪われよ・・・
ところが、フィガロは、小間使いのスザンナが伯爵夫人に、伯爵夫人ロジーナが小間使いに変装していることを見破ります。
 最後には小間使いに変装した伯爵夫人ロジーナは伯爵の心を取り戻し、ハッピーエンドとなります。登場者一人一人が身分を越えて、自由で平等にそして敬愛を持って情感豊かに演じられ、元はといえばアルマヴィーヴァ伯爵の浮気心から始まった騒動ですが、アルマヴィーヴァ伯爵は最後まで貴族としての誇りを捨てず、高貴なエロスを表現するのです。ダ・ポンテとモーツァルトの高貴なエロスはやがて芸術に進化し、後のワーグナーやリヒャルト・シュトラウスなどのロマン派オペラの源流となったのではないでしょうか。

【音楽史年表より】
1782年4/12、モーツァルト(26)
ウィーン宮廷に50年間君臨した宮廷詩人の巨匠ピエトロ・メタスタージョが死去する。その後、皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽長サリエリの口利きで、ベネツィア出身のロレンツォ・ダ・ポンテを宮廷詩人に任命する。(1)
1784年12/14、モーツァルト(28)
モーツァルト、フリーメイスンへ入会する。自由・平等・友愛を目指す思想的、精神的結社であるフリーメイスンのロッジが当時のウィーンには8つあり、モーツァルトはそのひとつ「慈善」に加わる。(2)
1785年3/13初演、モーツァルト(29)、カンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469
モーツァルトの指揮によりブルク劇場で初演される。1771年にヴァン・スヴィーテン男爵らによって設立された音楽家の遺族への年金支給を目的とした芸術家協会からオラトリオの作曲を依頼されたモーツァルトは、多忙のため、ザルツブルクで初演したハ短調ミサ曲K.427からキリエとグロリアを選び、新作のアリア2曲を追加してオラトリオに仕上げた。(2)
モーツァルトはこのオラトリオの中でミサ曲ハ短調K.427のキリエとグロリアを利用しているが、これはロレンツォ・ダ・ポンテが提供したと思われるイタリア語の台本による。このダヴィデ王の改悛を扱ったオラトリオの初演は非常な成功を見せたらしく、1週間後に再演されている。モーツァルトはミサ曲ハ短調の旋律をそのまま使うだけでは満足せずに、「精霊とともに」のメロディーによる最後の合唱に3声のソロのためのカデンツァを付け加えており、さらに非常に美しい2つのアリアも新たに作曲している。そのひとつはテノールのための「ああ汝、これほどの苦しみをもち」(第6曲)で、もうひとつはソプラノのための「暗き陰のうちに」(第8曲)である。(3)
10月末、モーツァルト(29)
歌劇「フィガロの結婚」K.492の作曲を開始する。(2)
1786年4/29完成、モーツァルト(30)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
「フィガロの結婚」を完成する。4幕のオペラ・ブッファ。原作はフランスのボーマルシェの三部作「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「罪深き母」の第2作をロレンツォ・ダ・ポンテが台本化したものによる。ボーマルシェの先行作である「セビリアの理髪師」は1782年にペトロセッリーニによって台本が作られ、パイジェッロの作曲により、ペテルスブルク宮廷で上演され、ウィーンでは早くも83年8月にブルク劇場に登場し、86年のシーズン終了までに40回以上の上演が行われていた。第2作の「フィガロの結婚」については、ヨーゼフ2世の義弟にあたるフランス国王ルイ16世はここに描かれている貴族階級の堕落と無気力、またそれと対照的な市民階級の健全な道徳観がもたらすであろう社会的影響を考慮して上演を禁止し、またヨーゼフ2世もドイツ劇団によるこの戯曲の上演を禁じた。オペラ上演にめぐまれないモーツァルトと名誉挽回の機会をうかがっていたダ・ポンテは劇場総支配人および皇帝ヨーゼフ2世を説得し上演を果たす。(2)
5/1初演、モーツァルト(30)、歌劇「フィガロの結婚」K.492
ウィーンのブルク劇場で初演される。「フィガロの結婚」は年内に9回上演され打ち切りとなった。ウィーンの聴衆にその真価が理解されるのは89年8月の再演以降となる。続いて「フィガロの結婚」はプラハで上演され、熱狂的に受け入れられる。プラハでは次の新作オペラ「ドン・ジョバンニ」が委嘱された。(4)(2)

【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.カルル・ド・ニ著、相良昭憲訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
4.新ブローヴ・オペラ事典(白水社)
5.岡田暁生著・オペラの運命(中央公論新社)

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