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音楽史年表記事編20.ハイドンの曲で民衆は歌い踊っていた

  ハイドンはエステルハージ侯爵家に楽長として仕え、エステルハージ侯爵のために作曲を行いました。オーストリーとハンガリーに広大な領地を持つエステルハージ侯爵はウィーン、アイゼンシュタット、ハンガリーのエステルハーザ宮の3つの宮殿を持ち、冬の時期はウィーンに、夏はエステルハーザ宮に、その他の時期はアイゼンシュタットに居住し、ハイドンも侯爵に従い住居を移動していました。
 一般に古典派の時代まで音楽は貴族のために作曲されましたが、庶民も音楽を聴くことができました。イタリアのベネツィアやナポリのオペラ劇場では、貴族を送迎するための馬車の御者をつとめた従僕のために、最上階の桟敷席が無料で開放されており、従僕であっても桟敷席からオペラを見ていました。また、教会に行けば庶民でもミサ曲やモテット、オルガン伴奏の管弦楽曲である教会ソナタなどを聴くことができ、明らかにモーツァルトは民衆向けの教会音楽を作曲していたように見られます。そして、ハイドンの交響曲の緩徐楽章やアレグロ楽章などは小編成に編曲され、広く歌い踊られていたことが知られています。
 1773年9月に女帝マリア・テレジアがエステルハージ家の夏の離宮を訪問し、3日間の歓迎を受けましたが、最終日の夜には、花火が打ち上げられ、宮殿の中庭では千人の農民の踊りが繰り広げられました。ハンガリーとクロアチアの舞踏が踊られたとされますが、ハイドンの曲が用いられた可能性もあります。

 ハイドンは1781年に作曲した6曲のロシア弦楽四重奏曲では、貴族の舞踏であるメヌエットに代えて庶民の舞踏であるテンポの速いスケルツォを用いています。ベートーヴェンは交響曲の作曲においてハイドンにならいメヌエットの代わりにスケルツォを用いています。ハイドンは貴族のために作曲した自身の作品が民衆によって歌い踊られていることを知っていました。当時、歌や踊りは庶民の娯楽の中心であったのです。

【音楽史年表より】
1773年9/1、ハイドン(41)
ハプスブルク家女帝マリア・テレジアがエステルハージ家のエステルハーザ宮殿を訪問し、歓迎行事が3日間連続して行われた。初日にはハイドンの歌劇「報われぬ不実」Hob.XXⅧ-6が宮殿内歌劇場で上演される。ヨーゼフ・ジュースによって印刷された台本の再版の表紙には「もしわたしがすぐれたオペラを聴きたいと思うなら、マリア・テレジア大公妃がおっしゃられたと言われているように、エステルハーザの城へ参ります(1773年9/1)」と記され、その記載通りに9/1に上演された。(1)
9/2、ハイドン(41)
女帝マリア・テレジア歓迎の第2日目にハイドンの交響曲第48番ハ長調「マリア・テレジア」Hob.Ⅰ-48が演奏される。この曲に付けられている「マリア・テレジア」という呼び名はこの時の演奏に由来する。この日には仮面舞踏会も開催されたという。(2)
9/3、ハイドン(41)
エステルハーザ宮殿における女帝マリア・テレジア歓迎3日目、昼の大宴会に続いて午後にはハイドンの人形劇によるマリオネット・オペラ「フィレモンとバチウス」Hob.ⅩⅥⅩa-2が上演される。夜は盛大な花火と一千人もの農民たちによるハンガリーおよびクロアチアの舞踏というたくさんな行事が催され、皇妃はその翌日にウィーンへ戻っていった。(2)
1792年3/23、ハイドン(59)、交響曲第94番ト長調「驚愕」Hob.Ⅰ-94
ロンドンのハノーヴァー・スクェアーで行われた92年第6回ザロモン演奏会で初演される。第93番ニ長調と同じく1791年秋イギリスで作曲されたと考えられる。この曲に付けられている「驚愕」の名称は、第2楽章でティンパニを伴う突然の打撃音にもとづいている。「驚愕」の名称は曲の初演後ただちに付けられた。交響曲94番ト長調「驚愕」が初演されると、数種類の室内楽編曲版が出回ったという。(2)
【参考文献】
1.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)

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