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音楽史年表記事編65.ベートーヴェン、交響曲第8番ニ長調

 1814年2/27、ウィーン宮廷の舞踏会場である大レドゥーテンザールで交響曲第8番ニ長調は公開初演されます。この演奏会では総勢100名近くの大オーケストラによって交響曲第7番イ長調とウェリントンの勝利が演奏され、ベートーヴェンの生涯で最大の規模による圧倒的な演奏により聴衆の陶酔は極限に達したとされていますので、交響曲第8番の初演は大オーケストラの演奏の前座として少しかすんでしまったようです。
 このベートーヴェンの人気により成功を確信したケルントナートーア劇場のトライチュケは、ベートーヴェンに歌劇「フィデリオ」の改訂台本による最終稿の作曲を委嘱し、ようやくベートーヴェンの歌劇は大成功を収めます。9月から約9ヶ月間にわたり、ヨーロッパの全首脳がウィーンに集まりナポレオン戦争後の領土分割等を含めヨーロッパの新秩序再建のためのウィーン会議が開催され、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」はモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」とともに歌劇場の公式演目に指定され連日のように上演されることになります。
 アントーニアとの愛を確信したベートーヴェンは、これまで成就できなかった「夫婦の愛の勝利」をテーマとした3曲セットの交響曲の作曲に取り組んだものと思われますが、ベートーヴェンは自らの想いを表現した交響曲第7番イ長調に引き続き、アントーニアのための交響曲第8番ニ長調の作曲を始め、交響曲第8番が完成したときには、交響曲第7番は最後の仕上げが行われています。このときベートーヴェンは人生のどん底に落ち込み苦悩に満ちた状況でしたが、ウェリントンの勝利と交響曲第7番は、ウィーンで爆発的な人気を博し、ベートーヴェンは巨匠と呼ばれる地位に上りつめ、この時期の蓄財により遺産となる銀行株券を手にいれています。
 ウィーン生まれのアントーニアのための交響曲第8番は舞踏の都ウィーンにふさわしく全楽章はリズムをテーマとしていますが、第3楽章の舞踏楽章にスケルツォを用いてきたベートーヴェンはこの交響曲ではメヌエットを置いています。ウィーンの貴婦人とも呼ばれたアントーニアには優雅なメヌエットがふさわしいと思ったのでしょう。

【音楽史年表より】
1812年12月作曲、ベートーヴェン(41、42)交響曲第8番へ長調Op.93
第8交響曲を完成する。第8交響曲は同時期の第7交響曲より規模は小さくなるが、実質的に同じコンセプトから発生したと考えられる。リズムが全曲を通して重要はファクターになっていることは第7番と共通し、両交響曲には舞踏的性格が色濃く表れている。このヘ長調の交響曲は極めて偉大なリズム的革新性に満ちており、全く古典的伝統の回帰などは認められず、むしろ第7番以上に後期様式に接近しているとさえ言えるのである。序奏も1泊のアウフタクトも持たず、いきなり3拍子の強拍から主題を提示して始まる第1楽章自体異常である。ヘ長調の中にニ長調で始まる第2主題部を書くなど、ほとんどロマン主義的感性が支配している。また、4つの楽章中ひとつも純粋な緩徐楽章を置いていないこと、終楽章の多楽想性など、どの点を見ても従来にはない新しい交響曲様式を示している。(1)
ベートーヴェンが1811年(または12年)にカールスバートで聴いてスケッチしたほんらいのポストホルンの旋律はきわめて単純なものであるが、彼はそれを1812年の幸福な夏に書いた交響曲第8番ヘ長調Op.93の第3楽章メヌエットのトリオを開始する有名なホルンの二重奏として郷愁をそそる美しい旋律に変貌させている。(2)
12/5、ベートーヴェン(41)
6月に70万人の大軍をひきいてロシアに遠征していたナポレオンは、いったんはモスクワを攻略したものの、冬将軍といわれた酷寒と食糧難のため退却を余儀なくされる。大半の将兵を失って敗走中のナポレオンは12/5の夜にはワイマールを通過する。(3)
1813年3月
ナポレオンの軍事的支配下にあったヨーロッパ諸国のうち、プロイセンとロシアが同盟してナポレオンに宣戦布告し、ドイツ解放戦争が始まる。ワーグナーの生国ザクセンはフランス側につく。(4)
4/20、ベートーヴェン(42)
ルドルフ大公邸にて、交響曲第7番イ長調Op.92、交響曲第8番ヘ長調Op.93が非公開初演される。(5)
6/21
ウェリントン将軍率いるイギリス軍が、スペイン北部ヴィットリアでナポレオン軍に勝利を収める。(5)
12/8、ベートーヴェン(42)
ベートーヴェン、ウィーン大学講堂で行われたヨハン・ネポムク・メルツェル主催の演奏会で交響曲第7番イ長調Op.92、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」Op.91の初演を指揮する。この演奏会ではシュパンツィヒがコンサートマスターを務めたほか、管弦楽にはシュポア、フンメル、サリエリなど当時のウィーンの名だたる音楽家が多数参加した。演奏会は大成功を収めた。(5)
1814年2/27初演、ベートーヴェン(43)、交響曲第8番ヘ長調Op.93
ウィーンの宮廷内のレドゥーテンザールで開催されたベートーヴェンの自主演奏会で初演される。第8交響曲初演時に交響曲第7番イ長調Op.92(4回目の演奏)、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」Op.91が再演される。(5)
この日のコンサートではベートーヴェンの生涯において最も大きな編成のオーケストラによって交響曲第7番イ長調が演奏された。第1Vn:18、第2Vn:18、Vla:14、Vc:12、Cb:7、コントラバス声部補強のコントラファゴット:2、管楽器は2管×2の倍管編成であった。単純に計算しても96人になる大編成のオーケストラは大音響をとどろかせ、「ウェリントンの勝利」Op.91ではこれらのオーケストラが舞台の両側に2つのオーケストラとして配置され、圧倒的迫力ある演奏により聴衆の陶酔は極限に達したといわれる。(6)
5/23最終稿を初演、ベートーヴェン(43)、歌劇「フィデリオ」最終稿Op.72
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演され、大成功を収める。ただし、新しい序曲(フィデリオ序曲)は間に合わず、「アテネの廃墟」序曲で代用される。新しい序曲は26日の上演で初演された。歌劇「フィデリオ」は同じシーズン中5回再演された。ウィーンの各劇場主たちはベートーヴェンが1812年の「シュテファン王」や「アテネの廃墟」の初演で人気を博し、1813年には「ウェリントンの勝利」が圧倒的な人気を博すのを見て、今ならば「フィデリオ」で好評を得ることができると考えるようになった。そうしたときにケルントナートーア劇場のトライチュケから強い再演要望があり、ベートーヴェンは大幅な台本の改訂と音楽の改訂を条件とし、その台本改訂をトライチュケが行うことで引き受ける。ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」は第3稿にして、大成功を収めることになった。(5)
9/16
ウィーン会議が開催され、翌年の6/9まで約9ヶ月にわたって各国首脳がウィーンへ集まる。オーストリアの宰相メッテルニヒの主導のもと、ロシア皇帝アレクサンドル1世をはじめ、ドイツ諸国の国王や各国の政治家が参集した。ナポレオン以後のヨーロッパの秩序回復という共通の目標はあったが、領土をめぐる各国の利害が対立し、会議は難航し、「会議は踊る、されど進まず」と言われた。(5)

【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・ベートーヴェン(音楽之友社)
2.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)
3.青木やよひ著・ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
4.ワーグナー事典(東京書籍)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)
6.平野昭著・作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)

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