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音楽史・記事編122.シューベルトの創作史

 シューベルトの作品はドイチュ番号で表示されます。オーストリーに生まれたオットー・エーリヒ・ドイチュはウィーン大学の音楽史教授となり、1951年にシューベルトの全作品を分類整理しドイチュ番号を発表し、今日では一般的に使用されるようになっています。本編の音楽史年表データベースではドイチュの作品分類(Franz Schubert Thematisches Verzeichenis seiner Werke)に基づきアマチュアのシューベルト研究家平石英雄氏により編纂された「シューベルト全作品目録」により集計を行っています。(3)

〇シューベルトの創作
 音楽史においてウィーンで活躍した作曲家は多くいますが、ウィーンで生まれた生粋の作曲家はシューベルトやウィンナーワルツのランナーやシュトラウス一家、また現代音楽のシェーンベルクやウェーベルン、ベルクなどに限られます。シューベルトは古典派期末期からロマン派期初期にかけてのウィーンで、31年という短い人生で歌曲を中心に1000曲を超える作品を残しています。
 シューベルトは13歳から作曲を始め、亡くなるまでわずか18年の間に、音楽のあらゆる分野の作品を残しています。その中でリートや重唱曲は改訂稿を含めると870曲を超える作品を残し、歌曲王と呼ばれています。シューベルトの創作は歌曲だけではなく、ミサ曲、交響曲、ピアノ独奏曲や連弾曲、弦楽四重奏曲、ピアノ室内楽におよびこれらはわずか15年余りの創作期を通して途切れることなく続けられています。
 シューベルトはウィーン・フォルクスオパー近くのヌスドルファー通りの小学校を営む家に生まれ、6歳のころから父にバイオリンを、兄からはピアノを学んでいます。1808年11歳のシューベルトはシュトゥーベン門近くの旧ウィーン大学に併設されたコンヴィクトに入学しコンヴィクトの寮生となり、ここでは一般科目の他に音楽教科が必修となっており、また宮廷礼拝堂聖歌隊員にもなり、1810年には最初の作品を作曲し、1811年からは宮廷楽長サリエリから本格的に作曲法や対位法を学ぶこととなります。   シューベルトは入寮とともに寮のオーケストラに第2バイオリン奏者として参加し、1811年には副指揮者を務めるようになり、このオーケストラで演奏するための序曲等の管弦楽曲を作曲し、1813年には16歳で交響曲第1番ニ長調を作曲しています。なお、シューベルトが寮生活を送ったコンヴィクトの向かい側には旧ウィーン大学講堂があり、ここでは1813年12月にベートーヴェンの交響曲第7番イ長調と「ウェリントンの勝利」が初演されており、ウィーンの人々は熱狂に包まれ、シューベルトにとっても交響曲作曲に多大な影響があったものと見られます。
 1818年シューベルトはジェリスのエステルハージ家の別荘に招かれ、伯爵の2人の令嬢にピアノを教えています。1824年にもジェリスに招かれ、この時期には2人の令嬢のために軍隊行進曲D733などのピアノ連弾曲を多く作曲しています。
〇グンデルホーフの音楽練習会とシューベルトの夕べ
 1815年聖ペーター教会の裏手の旧ウィーン楽友協会とシュテファン大聖堂の間にあったイグナーツ・フォン・ゾンライトナーの館でグンデルホーフの音楽練習会と呼ばれたサロン音楽会が開かれるようになり、18歳のシューベルトはこのサロンに参加し、この年からリートを中心に爆発的に創作を始めています。なお、ゾンライトナーはベートーヴェンの「フィデリオ」初稿の台本を書いたゾンライトナーとは別人のようです。シューベルトは1815年には198曲ものリートや重唱曲を作曲し、未完のものも含めて4つの歌劇、2曲のミサ曲、交響曲では第2番変ロ長調と第3番ニ長調、その他ピアノソナタを含む10曲のピアノ曲などがあり、驚くべき創作力です。リートにはシューベルトの出世作となったリート「魔王」のほかウィーンの名曲となった「野ばら」などが含まれます。
 また、1821年にはシューベルトの友人のショーバー家でシューベルティアーデと呼ばれたシューベルトの夕べが開かれ、次第に人気を集め1825年頃にはショーバー家以外からも毎週のようにシューベルトが招かれシューベルトの夕べが開かれるようになり、これらはシューベルトの創作の原動力となって行きます。
 1817年にはシューベルトはショーバー家でウィーン宮廷歌手のフォーグルを紹介され、その後フォーグルは演奏会でシューベルト作品を取り上げ、シューベルト歌手としてウィーンにおけるシューベルト歌曲の普及に貢献して行きます。
〇シューベルトとモーツァルト、ロッシーニ
 ピアノ伴奏でドイツ語の歌を歌うリートはモーツァルトによって始められました。モーツァルト以前の歌唱であるアリアは管弦楽の伴奏によって歌われており、モーツァルトの時代には各家庭にクラヴィーアが普及し、家庭で手軽に歌を歌うためにクラヴィーア伴奏が一般的になったようです。また、モーツァルトの時代には平均律で調律されたクラヴィーア普及の過渡期にあり、平均律の調律では3度の和声でうなりを生じるため、クラヴィーアの伴奏に消極的であったということも考えられます。主和音を多用した古典派期に比べ和声の多様化が進んだロマン派期には平均律によるうなりもそれほど問題とならなくなったとも考えられます。
 シューベルトはウィーン宮廷楽長のサリエリから作曲法と対位法を学んでいます。おそらく、イタリア歌曲についてもサリエリから学んだものと考えられます。1813年イタリアのロッシーニは歌劇「タンクレーディ」を作曲し、一躍ヨーロッパ中で上演が繰り返されたとされており、シューベルトはウィーンでロッシーニの「タンクレーディ」を聴き、おそらく初めて本場イタリアの歌曲に触れ大きな影響を受けたものと見られます。1813年以降、シューベルトはリートの作曲を本格化させています。
〇シューベルトとベートーヴェン・・・交響曲、リーダークライス
 シューベルトが生きた時代はベートーヴェンの後期の創作時期と重なります。この時期ベートーヴェンはヨーロッパの作曲家の巨人であり、27歳という年齢差もあり、シューベルトは狭いウィーンの街中でベートーヴェンに出会っても声をかけることもできなかったようで、シューベルトにとってベートーヴェンという存在はあまりにも大きく、シューベルトが本格的な交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタを作曲するのは25歳、1822年からになります。
 また、ベートーヴェンは音楽史上初めての連作歌曲、いわゆるリーダークライスと呼ばれる「遥かな恋人に寄せて」を1816年に作曲しています。多くのリートを作曲したシューベルトはリーダークライスの名曲「美しき水車屋の娘」「湖上の美人」「冬の旅」を生み出し、これらには名曲中の名曲である「アヴェ・マリア」や「菩提樹」が含まれます。
 1827年3月、シューベルトは病床のベートーヴェンを見舞い、葬儀では松明を持ち葬列に参加しています。シュパウンの回想によればベートーヴェンは死の前年にシューベルトの歌曲の楽譜を見て「シューベルトには神の火花が宿っている」と述べたとされます。シューベルトはベートーヴェンが亡くなった翌年亡くなりますが、本人の希望によりヴェーリング墓地のベートーヴェンが眠るその隣に埋葬されます。後にベートーヴェンとシューベルトは中央墓地に埋葬しなおされ、元の埋葬地のヴェーリング墓地はシューベルト公園となっています。

【音楽史年表より】
1797年1/31、シューベルト(0)
フランツ・ペーター・シューベルト生誕、父フランツ・テオドール、母エリザベート。ウィーンのヌスドルフ・シュトラッセの生家は現存しシューベルト博物館となっている。シューベルトの父フランツ・テオドールは2Fを住居とし、1Fで小学校を運営していた。(1)
1815年12月、シューベルト(18)、リート「魔王」(第4稿)ト短調D328、Op.1
シューベルトの友人シュパウンは歌の成立について次のように記している・・「1815年12月のある午後、マイルフォーファーと一緒に、そのころヒンメルプフォルトグルントに父親と一緒に暮らしていたシューベルトを訪れたが、彼はゲーテの詩「魔王」を大声をあげて読んでいた。彼は本を片手に何回か部屋の中を歩き回っていたが、そのうち急に腰をおろして恐ろしい速度でこの曲を紙のうえに書き記した」「シューベルトの家にピアノがなかったので、我々は楽譜をもって寮学校へ走って行き、そこでその晩のうちに「魔王」が歌われ、感激を持って受け入れられた。」、公開初演は1821年1/25ウィーン楽友協会にて行われる。(2)
1822年10/30作曲着手、シューベルト(25)、交響曲第7番ロ短調「未完成」D759
1822年10/30シューベルトは未完成交響曲の作曲に着手する。シューベルトは」この交響曲の第1楽章、第2楽章と第3楽章の20小節目までのオーケストレーションを終了した後、一旦中止しそのままにしておいた。その後1823年4月になって、グラーツのシュタイアーマルク音楽協会に名誉会員として迎えられることが決まったシューベルトは、その返礼として未完の交響曲を思い出し、完成して送るつもりになったらしい。ところが、通信上の行き違いから実際にシュタイアーマルク音楽協会宛に自筆譜を送ったのは1824年になってしまった。その仲介者となったのが、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーというシューベルトの知人で、まず彼の元に自筆譜が送られたのだが、2楽章までしかなかったために彼は残りの2楽章が届くのを待っていた。そのうちに自筆譜は留め置かれ忘れ去られてしまい、1865年5月にウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックが発見し、同年12月17日に初演するまで、43年間世に知られずにいたのである。この交響曲は全体に音楽史上、稀に見るほどの深い抒情を表出し得た作品である。(2)
1823年7月~9月、シューベルト(26)、ピアノ五重奏曲イ長調「ます」D667
ピアノ、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスの編成による五重奏曲。1819年あるいは1825年作曲の説もある。シューベルトは友人のヨハン・ミヒャエル・フォーグルに誘われて、フォーグルの故郷である上部オーストリアの町シュタイアを1829年の夏、1823年の夏、1825年に訪問している。シュタイア滞在中にシューベルトは町の鉱山長官ジルヴェスター・パウムガルトナーに紹介されている。パウムガルトナーは自らチェロをよくする音楽愛好家であり、自宅がサロンでよくコンサートを開いており、シューベルトも友人のフォーグルやアルベルト・シュタイヤーとともによく訪問していた。シューベルトのリート「ます」D550を気に入っていたパウムガルトナーがフンメルの五重奏曲の編成(Pf、Vn、Vla、Vc、Cb)による作品を依頼したという記録があり、フンメルの五重奏曲が1822年に出版されていることから、1823年にシューベルトが五重奏曲を作曲したと考えられるが、1819年あるいは1825年作曲説も捨てきれない。(2)
1824年3月、シューベルト(27)、弦楽四重奏曲第14番ニ短調「死と乙女」D810
曲は死に抵抗する少女と甘い言葉で死に誘う死神との対話を扱ったリート「死と乙女」D531(1817年作曲)を引用している。私的初演は1826年2/1にヨーゼフ・バルト邸で行われ、全曲の公開初演は作曲者の死後の1833年3/12ベルリンにおけるカール・モーザー四重奏団の四重奏の夕べにおいて行われる。(2)
1825年4月、シューベルト(28)、スコット歌曲集「湖上の美人」第6曲、リート「エレンの歌Ⅲ(アヴェ・マリア)」変ロ長調D839、Op.52-6
シューベルトはウォルター・スコットの叙事詩「湖上の美人」の7つの詩に作曲しているが、この曲はその第6番目にあたる。乙女エレンが湖畔の岩の上で聖母像にぬかずいて、父の罪を許されんことを祈る歌である。アーダム・シュトルクの独語訳による。作曲当時もこの歌は非常に多くの人々の感銘を誘い、シューベルト自身も好んで歌って聞かせたが、今日では誰知らぬ人もいない名曲となった。(2)
1827年2月、シューベルト(30)、歌曲集「冬の旅」D911、Op.89
「冬の旅」全24曲の前半12曲を作曲する。ミュラーの作詞による。シューベルトが4年前に作曲した歌曲集「美しき水車屋の娘」の詩の作者でもあるミュラーはこの年の9/30わずか33歳で夭折し、シューベルトはその翌年世を去ることになる。シューベルトは冬の旅ではミュラーの詩を一つも省略せず24篇全部に作曲した。作曲は2月に分けて行われ、前半は2月に、後半は10月に書かれた。第5曲「菩提樹」についてキャペルは「ほとんど歌うこともできないほど美しい」と述べているが、正に名曲中の名曲と言えよう。初演は第1曲のみが1828年1/10ウィーン楽友協会で演奏される。(2)
1828年11/19、シューベルト(31)
シューベルト、午後3時、永眠する。11/21に聖ヨーゼフ教会でシューベルトの葬儀が行われ、自らの望みに従ってヴェーリング墓地のベートーヴェンの隣に埋葬される。後にベートーヴェンと共にウィーン中央墓地に移葬され、中央墓地でも2つの墓が並べられた。(1)

【参考文献】
1.村田千尋著、作曲家・人と作品シューベルト(音楽之友社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・シューベルト(音楽之友社)
3.Otto Erich Deutsch・Franz Schubert Thematisches Verzeichenis seiner Werke(Neue Schubert Ausbabe Ⅷ/4)(Barenreiter-Verlag 1978)

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