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音楽史年表記事編44.ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ「熱情」ヘ短調

 ベートーヴェンは、1792年音楽留学のためにウィーンに出てきてから約3年間リヒノフスキー侯爵邸に下宿し、夕食も侯爵夫妻と同じテーブルに席が設けられるなど侯爵の妻クリスティアーネの配慮により厚遇され、ボンのマクシミリアン選帝侯からの仕送りが途絶えると、侯爵はベートーヴェンに年600フローリン(約600万円)の支援を行うなど生活を支えました。
 ウィーンで一流の作曲家としての地位を築いたベートーヴェンは、1806年の夏リヒノフスキー侯爵の領地であるシレジアのグレーツにある居城に招かれます。この時、ベートーヴェンは愛するヨゼフィーネのために作曲したピアノ・ソナタヘ短調「熱情」Op.57の楽譜を携え、出版に備えて加筆校正を行っていました。グレーツでベートーヴェンがリヒノフスキー侯爵からどのように処遇されたかは明らかではありませんが、ウィーン在住の夫人クリスティアーネから離れた殿様の侯爵はベートーヴェンに対し横柄にふるまった可能性があります。ベートーヴェンはこれまでの侯爵からの恩義を想い我慢を重ねたと思われますが、根っからの性格からついに堪忍袋の緒が切れ、侯爵と決別し、雨の降る中ウィーンへ戻ります。一般には1810年にベートーヴェンはシレジアを訪問し、リヒノフスキー侯爵と和解したとされますが、筆者はこの和解はなかったと見ています。その理由は改めて述べて行きます。

 ウィーンに戻ったベートーヴェンが雨に濡れた熱情ソナタの自筆譜を弟子のマリー・ビゴーに見せたところ、彼女は悪筆の自筆譜にもかかわらず初見で弾きこなし、印刷が終わったら自筆譜を譲ってほしいとベートーヴェンに頼みます。ベートーヴェンはこの願いをかなえ、印刷後この自筆譜をビゴー宅へ届けました。マリー・ビゴーはフランスへ移住しましたので、ベートーヴェンの熱情ソナタの自筆譜はフランスにもたらされ、現在はパリ音楽院に所蔵されているとされます。
 印刷にあたって、このソナタはヨゼフィーネの兄のフランツ・ブルンスヴィク伯爵に献呈されます。この時期にベートーヴェンは13通の熱烈な恋文をヨゼフィーネに書いていますので、おそらくヨゼフィーネのことについて兄の許しを得ようと思って献呈したのでしょう。

【音楽史年表より】
1804年10月頃、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、未亡人となっていたヨゼフィーネ・ダイムと再会し、ピアノ指導を通じて次第に親密になる。(1)
1805年作曲、ベートーヴェン(34)、ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57
この熱情ソナタは1804年から05年までの間の作曲とされる。自筆譜はパリ音楽院に所蔵されている。その自筆譜は全体に水に濡れたシミ跡がついており、従来の説によれば、1806年秋にトロッパウ近郊グレーツにあるリヒノフスキー侯爵邸を訪れた帰途、雨に濡れたというものであり、これは事実のようだが、そのときに完成直前の熱情ソナタを持っていたということにはならない。自筆譜の終楽章には多くの訂正や書き直しがあり、すでに完成していたものを改訂するためにこの頃持ち歩いていたと考えられる。(1)
水に濡れた手稿を最初に見せられたのは、フランス系ピアニストのマリー・ビゴーだった。彼女はラズモフスキー伯爵家の司書となった夫と共に、1804年に18歳でウィーンに来て以後、ベートーヴェンと親しくなっていた。ある日ベートーヴェンが訪ねてきて、まだ水に湿ったままのその手稿をマリーにひろげて見せた。熱心に見入っていた彼女は驚くべきその出だしに惹きつけられ、それを弾き始めた。削ったり、加筆したりと訂正の多い見にくい手稿をものともせずに弾き続けた。驚いたベートーヴェンはこう言ったと伝えられる・・・「私がこの曲に与えようとした性格そのままではないが、それで結構です。何か良くなっています。」感激したマリーはベートーヴェンが印刷にまわそうとしていたその楽譜を用が済んだら自分に譲ってほしいと頼んだ。ベートーヴェンは約束通り、出版後それをビゴー宅に届けたのだった。ビゴー夫妻は1809年のフランス軍のウィーン侵入を避けてパリに移住し、ベートーヴェンの手稿はパリにもたらされた。ピアニストとしてのマリー・ビゴーの名声はパリでも高く、少年メンデルスゾーンが弟子入りしているが、34歳の若さで亡くなっている。(2)
1806年8月末頃、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵の現在のチェコ領シレジアのグレーツの居城に滞在するため、同侯爵とウィーンを出発する。(1)
10月末、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵と対立し、「熱情ソナタ」などの楽譜を携えて、雨の中単身ウィーンへ戻る。当時、チェコのシレジア地方は西ヨーロッパ名から当方地域へ向かう交通の要衝に当っており、フランス軍の進撃路、補給路になっていた。ある日、館に立ち寄ったフランス軍将校を親フランス派のリヒノフスキー侯爵は愛想よくもてなし、ベートーヴェンのピアノ演奏で場を盛り上げようとしたのであろう。しかし、ベートーヴェンにとって人に演奏を強要されることほど嫌なことはなかった。応じようとしない彼に侯爵は冗談交じりに脅迫的な言葉を口にしたらしい。かっとなったベートーヴェンが椅子をつかんで侯爵になぐりかかろうとしたところを、仲裁に入った人がいてあやうくことなきを得た。しかし、憤然と部屋を飛び出したベートーヴェンは激しい雨の中をウィーンに帰ってしまう。ベートーヴェンがリヒノフスキー邸を飛び出したとき、その旅行鞄の中には「アパッショナータ」の手稿一そろいが入っていた。(2)
1807年2月出版、ベートーヴェン(36)、ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57
ウィーンの美術工芸社から出版され、フランツ・フォン・ブルンスヴィク伯爵に献呈される。(1)
ベートーヴェンはヨゼフィーネとの恋愛が頂点にあったと思われる1807年2月にアッパショナータ・ソナタを兄のフランツに献呈し、同年5月の手紙には「自分のためにお姉さんのテレーゼに接吻してくれたまえ」などと書いているのはどういうつもりだったのだろうか。恋人の家族の好意を得ようとしたためだろうか、それとも逆に、親族の目をヨゼフィーネと自分との親密さからそらさせるつもりだったのだろうか。この5月の手紙が契機となって、この夏ブルンスヴィクの3姉妹がそろってベートーヴェンに、それぞれ自分の肖像画を贈ろうと相談しあっている。この計画が実って、のちにテレーゼがカールホーファーの原画を自分で模写して送ったのが、現在ベートーヴェンハウスにある有名な彼女の肖像画だったらしい。裏には「比類ない天才、偉大な芸術家、善なる人に、T・B」としるされている。(3)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)

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