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音楽史年表記事編84.ウィーンのモーツァルト

 モーツァルト一家は1762年10月にウィーンを訪れ、6歳のモーツァルトは早速3日後にはアム・ホーフのコラルト伯爵邸で初めての演奏会を行います。神童モーツァルトの噂はウィーンに広がり、ウィーン宮廷にも伝わりおそらく女帝マリア・テレジアの意向でシェーンブルン宮殿に招かれクラヴィーア演奏を行い、大歓迎を受けます。その後、モーツァルトはウィーンの多くの貴族から招かれ、またフランス大使を訪問しますが、ここでフランスへの招待の要請が伝えられたものと思われます。
 1781年3月、25歳のモーツァルトはミュンヘンで歌劇「イドメネオ」を成功させ、ザルツブルク大司教コロレドの命によりウィーンへ向かい、コロレド大司教のウィーンの実家であるドイツ騎士団のドイチェスハウスに滞在します。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世から歌劇「後宮からの誘拐」の委嘱を受けていました。しかし、ドイチェスハウスでは下僕並みの処遇を受け、とうとうコロレド大司教と決裂し、グラーベンの聖ペーター教会裏手のウェーバー家に寄宿します。ウェーバー家はここで間貸し業を行っていました。ウェーバー家でモーツァルトはアロイジア・ウェーバーの妹のコンスタンツェと会い、翌年の8月にはシュテファン大聖堂で結婚式を挙げることとなります。
 1784年1月、モーツァルトとコンスタンツェはウィーンの中心地グラーベンのトラットナーホーフに引っ越します。モーツァルトはトラットナー館のカジノと呼ばれていた社交会場で予約演奏会を行うようになります。このトラットナー館では当時人気を得ていたモーツァルトのピアノ協奏曲の多くが初演されています。
 そして、同年の9月にはドームガッセの現在のモーツァルトハウスに引っ越し、約2年半の間暮らすことになります。この時期モーツァルトは連日のように予約演奏会や貴族の館での演奏会をこなしかなりの収入を得て、幼いフンメルを寄宿させ、使用人を3人雇い、散策用の馬まで持っていました。モーツァルトはこの家で歌劇「フィガロの結婚」や交響曲第38番ニ長調K.504など名曲を次々作曲しています。
 1790年にはモーツァルトの最後の住居となる現在のデパート・シュテッフルの裏手のラウエンシュタインガッセの建物の2階に引っ越し、翌91年には、歌劇「魔笛」をヴィーデン劇場で初演します。ヴィーデン劇場はシカネーダーが興行主で庶民の娯楽のためのドイツ語劇や歌劇を娯楽として上演していました。「魔笛」初演後、モーツァルトは亡くなりますが、「魔笛」はその後大ヒットし、1800年までの8年間に200回の公演が行われ、これにより蓄財したシカネーダーはウィーン川の河畔にアン・デア・ウィーン劇場を建設することになります。
 なお、モーツァルトが死去したころの状況をコンスタンツェの妹のゾフィーが手記に残しており、それによればモーツァルトがなくなった後、ミューラーさんがモーツァルトのデスマスクを取りに来たことが記されています。このミューラーさんですが本名はダイム伯爵でミューラー美術館を経営していました。ミューラー美術館には蝋人形で作られたラウドン将軍の霊廟があり、当時のウィーンの観光名所となっていたようです。ダイム伯爵はのちにベート―ヴェンと関係が深まるヨゼフィーネ・ブルンスヴィクと結婚することとなります。
 その他のウィーンの演奏会場では、宮廷劇場のブルク劇場、ケルントナートーア劇場で歌劇などが初演され、またヨーゼフプラッツの正面の宮廷図書館の右手の舞踏会場の大レドゥーテンザールでも演奏会が行われています。ノイアーマルクトのメールグルーベではモーツァルトは、ウィーンに到着したばかりの父レオポルト同席のもとピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466を初演し、最後の住居の近くのイグナツ・ヤーンのレストラン(現カフェ・フラウエンフーバー)ではピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595を初演しています。今後、これらの演奏会場と初演状況について順次見て行きます。

【音楽史年表より】
1762年10/6、モーツァルト(6)
午後3時、モーツアルト一家ウィーンに到着する。(1)
10/9、モーツァルト(6)
トーマス・ヴィンチグエッラ・コラルト伯爵邸(現在のアム・ホーフ13番地)で音楽会が催され、モーツァルトは初めてウィーンの聴衆の前で演奏を行う。マリアンナ・ビアンキが歌う。(2)
10/13、モーツァルト(6)
モーツァルト、シェーンブルン宮殿に伺候し、女帝マリア・テレジア、皇帝フランツ1世に拝謁し、御前でクラヴィーアを演奏し神童ぶりを発揮したといわれる。(1)
小さな魔法使いモーツァルトはマリア・テレジアの夫である皇帝フランツ・シュテファンの冗談から出た所望を喜んでかなえ、覆いをかけられた鍵盤の上を、しかも1本指だけで巧みに演奏した。この天才児の率直で、無邪気なふるまいに魅せられた女帝は、シェーンブルンの宮殿に3時間もの間、モーツァルト一家を留めて、彼らと戯れ、笑いあった。(3)
1781年3/12、モーツァルト(25)
モーツァルト、ミュンヘンからウィーンへ出発する。(1)
3/16、モーツァルト、ウィーンに到着する。モーツァルトはザルツブルク大司教の父ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード侯爵邸であるドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)に宿泊する。(1)
5月初旬、モーツァルト(25)
モーツァルト、ドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)を出てウェーバー家に寄宿する。(1)
5/9、モーツァルト(25)
モーツァルトと大司教が決裂する。帰郷命令を無視したモーツァルトを大司教が激しく罵り、腹を立てたモーツァルトは辞表を出すと言い放つ。(1)
1782年8/4、モーツァルト(26)
モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーがモーツァルトの父レオポルトの同意を得ないまま、シュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。モーツァルトの父レオポルトはマンハイムでのアロイジア・ウェーバーとの一件以来ウェーバー家を嫌っており、コンスタンツェとの結婚にも当然大反対であった。レオポルトはお人好しの息子がやり手のウェーバー夫人にはめられたのではないかと疑っていたが、実際ウェーバー夫人は娘のコンスタンツェと交際を続けたければ、3年以内に必ずコンスタンツェと結婚し、もしそれが履行できなければ、彼女に300フローリン(約300万円)を支払うという結婚契約書を結ばせていた。(1)
1784年1/23、モーツァルト(27)
モーツァルト、ウィーンの中心地グラーベンのトラットナーホーフの4階へ引っ越す。トラットナーホーフ(トラットナー館)はウィーンの出版社トラットナーがグラーベンに建てた巨大な建物でトラットナーの自宅と書店のほか、数多くの店舗や600人を収容できる集合住宅を備えていた。この建物の中にあるカジノ(今日の集会所やクラブに近いもの)はさまざまな催しの会場として使われており、モーツァルトもここを自分の予約演奏会の会場に選んだ。なお、トラットナー夫人はモーツァルトのクラヴィーアの弟子であった。(4)
9/29、モーツァルト(28)
モーツァルト、グローセ・シューラ―・シュトラッセ846番地(現シューラ―・シュトラッセ8番地、ドームガッセ5番地)の2階、現モーツァルトハウス(旧フィガロハウス)に移る。モーツァルトはこのドームガッセの高級住宅に約2年半住むことになるが、この時期年収はおそらく軽く1億円を超え、高額の家賃を支払い、2人のメイドと下僕を雇っていた。この間、まだ幼いフンメルを寄宿させクラヴィーアを教え、ハイドンに献呈した6曲のハイドン四重奏曲がハイドンと共に試演され、オペラ「フィガロの結婚」他多数の名曲が生まれる。また、16歳のベートーヴェンが訪れたのもこの住宅であった。(1)
1790年9/30、モーツァルト(34)
コンスタンツェと息子カールがラウエンシュタインガッセ970番地のクラインガーシュタインハウスの2階へ引っ越す(1)。なお、モーツァルトはこのときフランクフルトに滞在していた。
1791年12/5、モーツァルト(35)
午前0:55、妻コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはその生涯を閉じる。(1)
12/6、モーツァルト(没後)
おそらく12/6モーツァルトの葬儀が聖シュテファン大聖堂で執り行われる。参列者は親族のほか、ヴァン・スヴィーテン男爵、サリエリ、宮廷オルガン奏者のアルブレヒツベルガー、弟子のジュースマイヤーとフライシュテットラー、シカネーダー一座のベネディクト・シャックとシカネーダー夫人ゲルルなどであった。棺はそののち、市壁外にある聖マルクス墓地へと運ばれたが、親族とその他の参列者は当時の慣例に従って墓地まで付き添わず、市壁の門の一つシュトーベントーアで別れを告げた。モーツァルトの死はヨーロッパ中に伝えられ、各地の新聞にこの偉大な音楽家の死を報じる記事が掲載された。(5)
12/10初演、モーツァルト(没後)、レクイエム ニ短調K.626、「イントロイトゥス」「キリエ」?
聖ミヒャエル教会のモーツァルトを追悼するミサで初演される。モーツァルトは「魔笛」初演後10月からレクイエムの本格的な作曲を始めたが、12/5亡くなったとき完成していたのは「イントロイトゥス」のみで、「キリエ」「セクエンツィア」「オッフェルトリウム」は歌唱声部とバス、器楽声部の主要音型が書かれ、「ラクリモサ」は8小節のみ作曲されていた。コンスタンツェはこの後ジュースマイヤーに依頼してレクイエムを完成させ、ヴァルゼック伯爵から残りの報酬を受け取った。(5)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.アイブル編・武川寛海訳、モーツァルト年譜(音楽之友社)
3.ベルモンテ著・海老沢敏、栗原雪代共訳、モーツァルトと女性(音楽之友社)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
5.西川尚久著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)

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