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音楽史年表記事編86.ウィーン・ラウドン廟(ミューラー美術館)

 ラトビアに生まれた軍人のラウドンはスウェーデンなどに仕官したのち、オーストリア軍に仕え最高位の元帥となり、7年戦争ではプロイセンと戦い大きな戦果を挙げオーストリア国民からは絶大な人気を得ていました。ハイドンは1775年頃に交響曲第69番変ロ長調を作曲し、自ら「ラウドン」というニックネームをつけて出版していますが、当時人気を得ていたラウドン将軍にあやかって名付けたようです。(1)
 ラウドン将軍は1790年7月に亡くなり、ウィーンのモーツァルトの最後の家の近くのヒンメルプフォルトガッセにあったダイム伯爵が経営するミューラー美術館には、蝋人形によるラウドン廟が新たに作られウィーンの観光名所となったようです。おそらくモーツァルトはダイム伯爵の依頼によってラウドン廟にあった自動オルガンのためのファンタジーK.608を作曲したものと見られています。モーツァルトは幼いころからパイプオルガンの即興演奏を行った記録がありますが、この壮大なファンタジーは知られざるモーツァルトのオルガン音楽の一端を見せているだけではなく、セバスティアン・バッハとブルックナーをつなぐオルガン音楽史の貴重な作品となっています。
 ダイム伯爵のミューラー美術館はヒンメルプフォルトガッセにあったとされています。ミューラー美術館はケルントナー通りから城壁までわずか200mほどの小路のどこにあったのか、不明でしたが、洋書のGraet   ComposerBeethovenにミューラー美術館の図版が掲載されており、この図版によれば右に城壁が見えているところから、ヒンメルプフォルトガッセの城壁との突き当りの左側であるように見えます。美術館は3階建てで、壮麗な建物のようです。
 コンスタンツェの妹のゾフィーの手記よれば、モーツァルトが亡くなったとき、ミューラーさんがモーツァルトのデスマスクを取りに来たとされています。ミューラーさんとはダイム伯爵のことで、ダイム伯爵は禁止されていた決闘事件を引き起こし、それ以来ミューラーと名乗っていたとされます。
 また、1799年5月、ハンガリーのブルンスヴィク姉妹がウィーンを訪れベートーヴェンにピアノのレッスンを受けていますが、この折に姉妹は母とともにダイム伯爵のミューラー美術館を観光に訪れ、ここで妹のヨゼフィーネはダイム伯爵に見初められ、翌月には早々と結婚しています。ベートーヴェンはヨゼフィーネの結婚後もダイム伯爵邸の夜会に招かれ、またヨゼフィーネへのピアノのレッスンも続けていました。ダイム伯爵はヨゼフィーネの母親と同年齢でしたがヨゼフィーネとの間に4人の子を儲け急死します。
 ダイム伯爵の死後、ベートーヴェンとヨゼフィーネとの間は急速に縮まり、ベートーヴェンはヨゼフィーネのために傑作の森と呼ばれる名曲を次々と作曲します。ベートーヴェンとヨゼフィーネは相思相愛でしたが、ヨゼフィーネは子供たちがベートーヴェンとの結婚によって貴族の身分を失うことを懸念しベートーヴェンから離れ、スイスで出会ったシュタッケルベルク男爵と再婚します。しかし、シュタッケルベルクとの結婚はヨゼフィーネにとって不幸の始まりとなります。経済力のないシュタッケルベルクはダイム伯爵が子供たちのために残した財産まですべて使い果たし、行方をくらまします。生活費にも事欠くヨゼフィーネを見るに見かねてベートーヴェンは経済支援を行うものの、このときベートーヴェンは不滅の恋人アントーニアとの将来を夢想していました。結局はベートーヴェンとアントーニアの関係は破綻し、ベートーヴェンは人生最悪のどん底にたたき落され、一方のヨゼフィーネはダイム伯爵との間の4人の子をハンガリーの実家の姉のテレーゼに預け、シュタッケルベルクとの子供たちとも別れ、ウィーンで一人で暮らすものの精神を患い1921年に亡くなります。すべてを失ったヨゼフィーネにとって頼りになるのは結局はベートーヴェンだけであったのでしょう。この間のベートーヴェンの会話帳はシントラーによって破棄されており、状況はわかっていませんが、おそらくハンガリーのブルンスヴィク伯爵家の意向によって破棄されたものと思われます。ベートーヴェンはヨゼフィーネが亡くなるまで経済的援助を行っていた可能性があります。ヨゼフィーネの姉のテレーゼは日記に、ヨゼフィーネとベートーヴェンが一緒になっていれば2人とも不幸にはならなかったのにと、繰り返し述べています。(4)

【音楽史年表より】
1790年7/14、モーツァルト(34)
ラウドン将軍が亡くなる。ラトビアに生まれたラウドンは7年戦争でオーストリアの将軍として戦い、オーストリア国民から絶大な人気を得ていた。(1)
1790年末作曲?モーツァルト(34)、自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調K.594
1791年3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥廟で鳴らされた葬送音楽であると推定される。(2)
1791年3/3作曲、モーツァルト(35)、自動オルガンのためのアレグロとアンダンテヘ短調K.608
3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥廟でミューラーの自動オルガンで鳴らされた葬送音楽であろうと推定される。1799年にクラヴィーアのための4手用幻想曲として出版される。(2)
12/5午前0:55、モーツァルト(35)
モーツァルト、妻コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られ、その生涯を閉じる。コンスタンツェの妹のゾフィーは、モーツァルトの死にあたり、美術館のミューラーさんにモーツァルトのデスマスクを採るよう頼んだことを伝えている。(2)
1799年5月、ベートーヴェン(28)
ハンガリー貴族のブルンスヴィク家のテレーゼとヨゼフィーネが婿選びの準備のために母アンナに連れられウィーンに来る。母アンナは二人の音楽的才能を大事にしていたので、ニコラウス・ズメスカルを仲介にして、ベートーヴェンにピアノのレッスンを受けさせようとした。ハンガリー出身で当時ベートーヴェンの最も身近におり、最も気のおけない友人であったズメスカルはブルンスヴィク令嬢の叔父にあたるといわれるが、系図としては明瞭ではない。(3)
6/29、ベートーヴェン(28)
ウィーンを訪れたブルンスヴィク伯爵令嬢ヨゼフィーネはミューラー美術館館主であるヨーゼフ・ダイム・フォン・ストリッテッツ伯爵に見初められ、強引な求婚の末、早くも6/29に結婚する。ダイム伯爵はミューラー美術館でオルゴールなどの展示を行っていたが、1791年ヒンメルプフォルト通りに開設した蝋人形によるラウドン元帥廟のために、モーツァルトに葬送音楽である自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ ヘ短調K.608の作曲を依頼している。ダイム伯爵のこれらの美術館は当時ウィーンでも人気の展示施設であったという。結婚直後は派手にダイム邸で音楽会を毎週催し、ベートーヴェンをはじめいずれもベートーヴェンと親密な音楽家が集まっていた。(3)
1821年3/31、ベート―ヴェン(50)
ヨゼフィーネ・シュタッケルベルク、ウィーンにて死去する。前夫ダイム伯爵の4人の遺児はハンガリーのマルトンヴァシャールで姉のテレーゼが養育、シュタッケルベルクの遺児はエストニアにて養育され、ヨゼフィーネはウィーンで孤独に生きていた。テレーゼの日記には「このすばらしい女性は破滅の淵で無心に花とたわむれていた」と記している。なお、ベートーヴェンのヨゼフィーネに宛てた恋文13通はテレーゼによって末娘のミノナに託されていたが、ミノナは自身の出自も含めて生涯公表しなかった。これらの恋文はミノナの家政婦によってアメリカに持ち逃げされ、失われていたが、1949年競売で世に現れ、1958年解説付きでボンのベートーヴェンハウスから刊行される。(4)

【参考文献】
1.中野博詞著・ハイドン復活(春秋社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.小松雄一郎編訳・ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
4.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)

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