天狗の帰郷

藩主の息子、敦重(あつしげ)は酷く混乱し、悩んでいた。三日前、自分が天狗だと知らされてから。
その日の夕方、誰も居ない中庭で一人佇んでいた敦重は何かが羽ばたく音を聞いたように感じた。そして足元の手前に落ちた影法師を追い、瓦の上に立つ何者かを見上げた。
翼を背中に背負った何者かが告げた。自身は天狗であり、お前もまた天狗であると。
敦重は目の前の奇人を訝った。いや、訝るべきだった。しかし彼は理性を失ったかのように、当たり前にその者の言葉を受け入れた。
常人であれば人を呼び捕らえさせるところを、彼は疑問を返してしまった。彼自身の出自、その詳細を。
天狗は朗々とよく響き渡る声で応じる。
敦重は、本来敦重であるべき赤子と時を同じくして生まれ、入れ替えられたという。そして兄弟達を呪い殺し、三男にして跡継ぎを定められた。
天狗の語る真実に心を抉られ、彼は怖れた。自らを。
来訪者はその心境を想うことなく淡々と続ける。一月後山に帰る、その準備をしろと。
返事を待たず、嵐は過ぎ去った。
残された孤児はただ黄昏るばかりだった。
秋の風が撫でるように、慰めるように吹き付ける。

朝起きて着替える時も、意識は悩みに向けられ、衣擦れの音を聞く耳は心に繋がらなかった。
教育係である成久(なりひさ)がこちらへ向かって歩くのが見える。床が柔らかく軋む音をたてる。
なに食わぬ顔で近付く見慣れた顔がどこか変わって見える。
「若、御気分が優れないのですか?」
最近増え始めた白髪を気にする男が言う。
常日頃から敦重を見ているだけあって、異常にはよく気付く。おそらくもっと前から声をかけたかったのだろう。その声は小さな決意を秘めていた。
「成久、俺が普通の人に見えるか?」
成久の様子も、返すべき尋常な答えも分かっていながら、口は勝手に心を表す。
成久は瞬間的に深刻な顔をになりながらも、柔らかい表情を作る。
「いえ、若は由緒正しき家に生まれ、文武ともに並みよりも遥かに優れております。只人などと同じとは口が裂けても言えませぬ。」
いささか大袈裟な身振りを交えて世辞を言う。
もしかしたら本心かもしれない。敦重の評判はそれこそ町でも聞こえる程である。優れているのが事実ならば、受け止め方もそれぞれなのだから。
もっともその常人離れした才能の由来に目下悩まされているのだが。
「そんな大袈裟なことを言わなくても良い。まあ言われる分には悪くないがな!」
腕を振り、着物を揺らしながら照れる。
ここは相手に合わせるべきだろう。こちらも笑顔を繕ってみせる。
しかし反応は予想外。
「若、元服のことでお悩みで?」
むしろ直接斬り込まれてしまった。
もしかすると表情作りは人並以下なのかもしれない。これは困った。
表情を元に戻しながら言う。
「まあ……その、な!……元服してこれから藩を背負っていくと思うとな」
嘘だ。天狗として山に帰るなら、藩を背負うはずがない。募る罪悪感が余計に顔を深刻にする。
「一月後、実際に元服してみれば腹も決まるでしょう。難しい話だとは思いますが、こればかりは」
成久なりの励ましを受ける。これ以上心配はかけさせたくない。
「今日は何か変わったことはないか?」
無理矢理な話題変更。
「そう言えば昨晩、京の姫君が訪れたとか!挨拶に回りましょうか!」
良い気分転換の材料を見つけ、成久ははしゃぐようにして連れていく。
「なんでもとびきりの美人だそうですよ!ほら、若もぼうっとしていないで行きましょう!」
既に押しやってるのに何を言うんだか。
だが、悩みはしばらく捨て置いても良いだろう。
若者らしい頭空っぽ具合で廊下を走り出す。
「成久ぁ!行くぞぉ!」
「はい!お供します!」
騒がしさが駆け抜ける。
「で、どこに居るんだその姫君は…?」
「えっと……それはですね……」
馬鹿の話し声が廊下でしぼむ。

聞き込みを経てようやく……部屋ではなく、その近くの塀から顔を出していた。
「直接乗り込む前にまずは偵察をだな……」
「ふふふ……若も風流な趣味がおありで……」
部屋は見えにくいが、城にいた家臣達がぞろぞろと集まっているのが見える。どれもこれも鼻の下が伸びている気がする。いつもしかめっ面な倉永(くらなが)さえ柔和な笑みを浮かべている。
「あーあー……我が藩の男達のみっともない姿があんなにも並んで……」
顔を渋くしながら敦重は呟く。
「いえ……我々も大概みっともないかと……」
今さら冷静になった成久が塀から顔下ろしながら言う。
敦重もすたっと飛び降りる。塀からついた汚れを着物を叩いて落とす。
「美人なんだろうか……そんなに」
何か警戒心に近いものを、何故か感じる。
「挨拶しない訳にもいきませんし、行きましょうか」
成久も準備できたらしい。

正面から見る姫君は本当に驚くほどの美人であった。顔の全てが調和して美しさを現す。
しかし敦重は何かが引っ掛かり、素直に驚嘆の色を表すことはない。
その身構えた様子は端から見れば冷静さの極致であり、家臣達は敦重の心の不動を胸で讃えた。
姫君の名前は咲耶(さくや)。今は京を離れ、旅をしているという。勿論お忍びの類いなので広く話してはならないという。
その他にも多少の世辞を言い合い、手短に済ませた。

昼も過ぎ、美人への謁見という行事も冷め、城が落ち着きを取り戻した頃、敦重はその平静が恨めしいほどだった。
考えることが最も合う時間、何も考えたくない自分はきっと一人ぼっちだった。
だからこうして歩き回っている。何もない部屋を渡ってはそこで寝転がったり、正座したり、あぐらをかいたり。
今は誰にも会いたくなかった。自分を「敦重」と呼んで迎え入れてくれる環境そのものに申し訳が立たなかった。
自分は「敦重」の成り代わりでしかない。本当の敦重はどうしているのだろう。
そして自分は敦重の兄弟を殺した。
長男は落馬、長女は病で、次男は市中のいざこざに巻き込まれ幼いうちに死んだ。最後に残った我が子を母は特に溺愛した。

また考え込みそうになる頭を振り、部屋を出ていく。そして廊下に顔を出した時、咲耶にばったりと出会った。
「あ、こんなところに居たんだ」
妙に砕けた口調で咲耶が話しかけてくる。
「これはどうも咲耶殿」
一瞬の硬直を経て短く挨拶する。
「どうかしましたか?あまり出歩くと迷いますよ」
咲耶は悪戯っぽく笑いってみせる。
「いえいえ、わたくし話し相手を探しておりましてよ。それも年の近い人を」
ずいっと近付いてくる。その動きに気圧され、上半身を少し反らして顔を遠ざける。それに合わせて咲耶は顔を息がかかるほどまで近付ける。
「ここに丁度良い人がいるじゃない。立ち話もなんだから、ほら、部屋に戻って戻って」
咲耶姫の手に押され、また同じ部屋に押し込まれる。
昼前に会った時は人の目があったとはいえ、今は砕けすぎではないだろうか。あまりにも軽卒に感じる。
二人とも改めて対面し、正座している。
「あの、咲耶殿。一体何を……」
おずおずと話しかける。
「貴方、さっき緊張してたでしょう?今もちょっと緊張してるみたいだけど」
どうやらもっと砕けた話がお望みらしい。
「周りに大勢いたもので」
「まあ次の藩主として示しをつけなきゃいけないでしょうしねぇ」
次の藩主という言葉が胸に刺さる。そう、山に帰れば……
「でも藩主にはなれない……かも?」
咲耶の言葉はさらに突き刺すというよりは、大太刀で斬りつけるようなものだった。
「何を言い出すのですか!」
語気を荒げる敦重だが、その口調にも顔にも怒りではなく困惑が表れている。
「いえ、ちょっとお山のことを考えて言っただけなのだけど」
わざとらしく申し訳なさそうな顔を作ってみせるが、敦重の頭にはそんなものは残らない。
「お山って、まさか貴女も」
「え、貴女も?」
これまたわざとらしく疑問を覚えたように小首を傾げる。
「いえ、なんでもございません」
目を若干反らし、質問を避ける。
「わたくしも貴方もなんなのかしらぁ……まったく分からないわねぇ?」
意地悪く無理矢理目を合わせるようにして顔を覗き込む。
沈黙が続く。
「ぷっ、うふふふあははは!ごめんなさいね!そこまでからかうつもりはなかったのよ」
吹き出して笑いながら、本心から悪びれる。
「貴方も天狗なんでしょう?そうなんでしょう?」
敦重はより一層唇を噛むようにして口を閉ざす。
「ああ!なんて酷いのかしら!これじゃ私だけ正体を現して馬鹿みたいじゃない!折角貴方の言い出し易いようにしてあげたのに、あんまりでなくて?」
今度は少し膨れながら問い詰める。
敦重も流石に隠し通すのを諦める。
「申し訳ありません。実はと言うよりお察しの通り、私も天狗なのです」
咲耶も少し安心しながら、
「ほらやっぱり。貴方も天狗なのね」
と言う。
「いつからお気付きに?」
どうしてもと言うように敦重は聞く。
「色々なお侍様が代わる代わる挨拶に来る途中で、少ぉしだけ奇妙な雰囲気の視線がね。まさか塀から覗いてるとは思わなかったけど」
自らの奇行を言い当てられ、敦重は羞恥に顔を赤くしながら俯く。
「それは大変失礼しました。私も他の者同様、好奇心に流されて」
「良いのよ別に、慣れっこだから。顔立ちは生来だからね」
特段気分を害した風はなく、さらりと水に流す。
「最初はどんな助平が覗いてるかと思ったら、こんなに可愛い顔した子が仏頂面で来るなんてね」
実際のところ敦重の顔も整っており、そのことも評判に拍車をかけている。
「そんな滅相もない」
「しかも天狗なんですもの!」
敦重の顔がまたチクりと刺されたように歪む。
「咲耶殿、ここはあまり使われていませんが、それでも誰が聞いているか分かりません。だから天狗の話は控えて頂けませんか」
咲耶はなんでもないような顔をする。
「平気よ、ここなら私の力で閉ざしてあるから。だから人目を気にせず話してちょうだい」
妖しい表情を作り、顔を近付ける。
「それに、年頃の美男美女が同じ部屋で二人きりなんて知れたら大変ですものね?」
敦重は耳先を赤くし、別の話題を探す。
「えぇと……そ、そう!咲耶殿は天狗の力を使い慣れているのですかっ?」
ここは遠慮無く天狗について聞かなければ。
「使い慣れてると言う程でもないわ。そもそも使おうなんて思うこと滅多にないし。まあ強いて言うならあれかしら?使おうと思えば使える程度?」
どことなく才能を思わせる発言に自分はどうだろうかと敦重は考える。
「貴方も自覚的になれば簡単に使いこなせるんじゃないかしら?だって藩主の子に入れ替えられるくらいだし」
話題は天狗の暗部へと踏み込む。
直に正座している畳が剣山にでも変わったように感じる。咲耶は既に足を崩し、楽な姿勢をとっている。姫君が人前でとっていい姿ではないが、言及するのも野暮な話だ。
「天狗は皆このようなことを?」
知っているかはともかく、聞いてみる。
「私もよく知らないわ。お山に帰るのはまだ先の話ですし」
隠すつもりはないという顔と手振り。
「でも聞いた話じゃ頭領の系譜だけみたいなのよね」
「天狗の……頭領……」
実の親にあたる存在を思い描く。しかし分からない。何も分からない。あの時の天狗さえ夕日の逆光で顔も分からなかった。
「咲耶殿が山に帰るのはいつなのでしょう」
「うーんとね、丁度来年の今頃かしらね。知らされたのは去年だったかしら」
指を唇に当てながら答える。
「私は三日前に一月後と言われました」
同情を買おうとしてる自分がいるような気がして、敦重はまた俯く。
「あーそうなの?それだと気持ちの整理はついてなかったり?関係無く帰る羽目にはなると思うけれど」
咲耶は残酷にも当たり前と割り切っているようだ。未練が有るかも怪しい。
「咲耶殿はこの入れ替わりをどう思いますか」
同じ意見が欲しい。折角出会った罪深き同胞なのだから。
「もう少し人間の世界を見て回りたいかしら?お山に帰ったらどれくらい里に下りられるか分からないし」
全くの予想外。敦重は更に聞く。
「そういうことではなく、この習慣そのもののことです。私達は偽りの家で育ち、しかもその家族を呪い殺している。貴女にも兄弟はいなかったのですか?」
顔を必死の色に染めて問う。
咲耶は面倒くさいといった表情をしながら言う。
「それは……仕方のないことだと私は思うの。今どうであれ、生まれは選べないのだから。私達の負える責じゃないわ」
若干の諦めを表情にしたためる。
「それでも人を殺してるんですよ?生まれながらの人殺し。そんな風に私は……俺は生まれたくなかった……そこまでして大切に育てられたい訳じゃない……」
食い下がろうとしながらも、己の感情を吐露してしまう。
「大切にね……確かに大切に育てられたわね私も。でも少しがっかりかも」
「何ががっかりだったと?もっと大切にと?」
分からない相手の心に牙を剥く。
「だって言うじゃない?『親子の縁』とか。でもあの親達は実の子供でないのにも関わらず溺愛した。だからきっと私には違和感があったのよ」
咲耶なりのわだかまりが見え隠れする。
「そもそも人の世にだってこういうことはあるのよ?」
「一体何のことですか」
敦重には分からない。
「世の中ね、おぼこさんが私みたいに勝手に出歩くとね、たまにあるの。そして本来と違う種子を連れて帰ってきちゃう」
咲耶の顔に愉悦の色が浮かぶ。
「特に許嫁が居ながらにして、他の男の子を身籠る輩、その話を聞くたびに醜い出生ってもののことを考える」
愉悦は失せ、失意の色が染める。
「ちゃんとした家族でいたいなら、守らなくちゃいけないのよ。でも人間って愚かだから忘れちゃうの。大切なものを。本当に大切だった咲耶って娘のことを」
畳を撫でながら言葉を紡いでいく。
「確かにね、人の世は楽しいことや興味深いことがいくらでもあって好きなのよ。でもあそこで、あの家で生きていくのは嫌なの。あそこは私の居場所じゃないの」
敦重と目を真っ向から合わせる。
「だから山に帰るのが私の当たり前。私の運命なの」
敦重も自分の想いをはっきりと告げる。
「俺はここで唯一の跡継ぎとして生まれ育った。この藩を善く治めるために努力してきた。だから……天狗だったとしてもそれでもここから簡単には出ていけない。そしたら藩は……」
「分家の子が継ぐんじゃないかしら?」
咲耶は残酷な人の世の成り行きを語る。
敦重も気付いていない訳ではなかった。だがそれでよしとしたくなかった。
いつの間にか握りしめていた拳は真っ白だった。
咲耶の顔はすまなそうに歪む。
「ごめんなさいね本当に。本当にごめんなさい。傷付けるとかそういう話がしたかった訳じゃないの」
敦重もそのことは重々承知だった。
「私も熱くなり過ぎました。申し訳ありません」
気まずい空気が流れる。
咲耶はもじもじとしてから正座し直す。
「色々と嫌なこと言ったかもしれないけれど、私達が山に帰るのは必然だと思うの。そして決して悪いことじゃない。たとえこの生まれに業があったとしても、この先に何を成すかはそこに縛られない。そう思う」
祈るような目を送りながら言う。
「だから、天狗として生きることにまで否定的にならなくていいのよ」
きっとこれが彼女なりの励ましなのだろうと敦重は受け止めた。
その先は天狗の話をやめ、他愛もない話をし、同年代の子供どうしで笑い合った。
夕日に染まった廊下で別れ際に咲耶は振り返る。
「貴方は好きな部類の男よ。貴方の方が天狗になる。もしその時天狗として貴方と出会えたら、天狗のこと手取り足取り教えて下さいな!」
明るく、そして悪戯っぽく笑う咲耶の顔に眩しさを覚えた。
「部屋まで案内しましょうか?」
「いらないわ、覚えてるもの!」
咲耶は駆け出していく。きっと彼女にとって姫としてじっとして暮らすより、天狗として山を駆ける方が似合っているのかもしれない。

床を軋ませながら自室へと向かう。その突き当たりから現れたのは成久。
「若、こちらにおられましたか」
「城内を散歩してた」
軽く嘘をつく。
「先ほど咲耶殿が天狗がどうとか叫んでいるのが聞こえました。若がお相手なさっていたのでは?」
痛いところをずぶずぶと刺してくる。
「それはその……だな」
「それにしても天狗ですか」
敦重は硬直する。
「天狗と言えば私、昔天狗に助けられたことがありまして」
「え?」
予想外の答えに間の抜けた声が出る。
「幼い頃、家を飛び出して山で友人と遊んでいた時のことです。私が足を滑らせて落ちるっと思ったその時です、なんと翼の生えた御仁がこの成久めの着物を背中から掴み、こう、ぐわぁぁっと滑空したのです」
懐かしむと同時にいささか興奮しながら語ってみせる。
「天狗殿は私を山の麓まで連れていき、こんなところで死ぬくらいならここへくるな、と私を叱って飛んでいったのです」
どうだと言わんばかりに敦重を見る成久は笑っていた。そして敦重も笑っていた。
「そうか、良い話を聞いた!ありがとうな、成久!」

一月後、元服の前夜に敦重は頼もしい跡継ぎとして城にいた。しかし翌朝にはその自室に黒い羽根を残し消え去っていたと言う。
また、その後人里で天狗を見たという話が大いに増えたという。