もう少し、あなたのとなりで

朝起きて顔を洗う。これが高梨結子(たかなしゆいこ)の日常だ。おそらくどこの誰だろうと大して変わらないだろう。
「結子~。制服用意したから早く着替えなよ~」
少年の声が寝室から聞こえる。世話焼きな同居人が気を利かせてくれたようだ。
「はいは~い。すぐ行くから待ってて~」
歯を磨いて宣言通りすぐに寝室に向かう。
そこには焦げ茶色の異形があぐらをかいて待っていた。
「まったく、あんまり時間ないよ?昨日夜更かしするからこうなるんだよ?」
異形がガミガミと叱る。
結子はそれを聞き流しながら着替え始める。
「あーはいはい、分かった分かった」
「結子はボクがいなかったら一人暮らしなんてできなかったんじゃないの?」
「はは~!今日平穏無事に生きていられるのも、遅刻を何度も回避したのも、すべて木陰(こかげ)様のおかげでございま~す!」
結子は大仰に言ってみせる。
「調子に乗らない」
木陰は呆れを隠さず言う。
「早く出ないと遅刻するよ」
着替え終わった結子を置いて木陰は先に玄関へ向かう。
「ちょっと待ってよ!」
結子はようやく掴んだ一切れのレーズンパンと共にその背中を追いかける。鞄は既に木陰が持って行った。教科書なら昨日眠気混じりに揃えたから多分大丈夫。

鍵をかけて振り向いたところに木陰の姿がある。
「それでどうする?」
「……特急でいっちょお願いします!」
木陰が屈み、背中を見せる。
「一名様ご案内ってね」
結子はその背中に乗る。いわゆるおんぶだ。
その姿勢のまま、木陰は勢いよく飛び出す。マンションの五階から。
焦げ茶色の異形が少女を背に家屋の上を駆けていく。空を走らんとばかりに跳びながら。
歩いて十分の距離を一分もせずに済ませる。
駅前に結子を降ろす。
「これで間に合うかな」
「うう…毎度すいません…」
木陰から鞄を受け取りながら結子は謝る。今月に入って彼の力を借りるのは三回目なのだ。
「別に良いから。ほら、電車そろそろ来るんじゃないの?」
結子は時刻表を確認する。
「あ、ホントだ。ありがとね、木陰」
畳みかけるようにして礼を言いながら結子はホームに走る。
「それじゃあボクはこれで~」
結子を見送り終わると木陰は姿をかき消すように透明化する。周りの人間たちが少しぎょっとする。透明化した亜人による犯罪は今もなお問題になっている。

電車の中で結子は音楽を聴きながらドアに寄りかかっていた。
この曲は三日前に配信が始まったばかりの新曲だ。
昨夜はこの曲について通話で盛り上がってしまい。寝るのが遅くなった。
だが就寝前に木陰がチェスに誘ってこなければ一時間は早く眠れたのではないだろうか。このことについて帰ったら木陰と話そう。
車窓から眺める景色には、見えていなくとも人と亜人があふれていた。
何世紀も前から。

結子が眺める景色の中に、木陰がいた。
木陰は相変わらず透明化したまま空を跳んでいた。
結子が遅刻しそうになったらまたおぶって学校に連れていくつもりだった。

難無く学校に着いた結子は一限の準備をしていた。
二つ前の席ではろくろ首の川品永歌が他の生徒たちとファッション誌について話していた。
彼女は学年一の美人と言われており、男女人亜人問わず人気だった。
結子もすっぴん枠では人気の高い方だが、あまり大人数で話をする性格ではないため永歌ほど人を寄せ付けなかった。
「おはよー結子」
 狼男の関根まゆが挨拶してくる。
「おはよ」
狼男といっても女である。長いこと狼男と呼ばれた結果、人間社会に馴染んだにも関わらずこう呼ばれ続けている。
「ねぇ~聞いてよぉ」
「どうしたのよ朝っぱらから」
まゆが前の席からもたれかかり、話しかけてくる。
「いやぁ~そろそろ満月なんですよ結子せんせぇ~」
「そっかもう一週間切ってるんだっけ」
狼男が月の周期に敏感なのは常識だった。
「本当にそれよ。もう数日でまた…」
「耳と尻尾生えてきちゃうか」
じぃ~っとまゆが見つめてくる。
「そろそろ誰か可愛い娘襲っちゃうかもなぁ~!」
そう言いながら後ろに回り込んで抱きついてくる。似たやり取りをした時にいつも思うが、彼女たち狼男はその性別によらず力が強い。
「もう狼なんじゃないのまゆは?」
隣の席から元井康介がツッコミを入れる。
「出たな、変態人間!」
康介は透明人間にしてまゆの幼馴染である。この問答無用の暴言もそれ由来だ。
「透明人間がみんな変質者みたいに言うなよ」
康介が言い返す。
「へぇ~自分が変態じゃないって言わないんだぁ~」
まゆがつつき回す。その間肩の辺りをさわさわと触られ、結子は少し身じろぎする。
「その手の誘導尋問みたいな言い回しには取り合いません」
「でもあんたの右手消えてるけど?」
まゆが結子の反応に気付き、腕をほどきながら指摘する。
「嘘、またかよ……」
「動揺するとどっか消えちゃうのは相変わらずよね」
「成長期が終われば安定するんだって!」
「本当ぉ?」
二人のやり取りを聞いて、結子の口から思わず笑みがこぼれる。
「ほらー席つけー。ホームルーム始めるぞー。」
担任の教師が入ってくる。
「これ川品、むやみに頭を飛ばすんじゃない」
調子に乗って首を外していた川品が赤面しながら席につく。
前にまゆが狼化した時にジロジロ見られるのを嫌がっていたように、最近の亜人は自分たちの人でない部分を見せるのを恥ずかしがる傾向がある。
彼らは人に近いが故に人との違いを気にする。いくら社会に馴染んだとは言え、時折それが問題の種になることもある。それが亜人。
しかし、社会に紛れ込む者にはそれ以外もいる。
明らかに人とかけ離れた姿をしている者。彼らは時に受け入れられ、時に虐げられる。
その形態も様々で、系統分けもはっきりしていない。本人たちも異種同種の違いが見分けられないこともある。
その一人が木陰だった。

木陰は結子が定刻前に到着したのを見届けてから、彼自身の用事を済ませるためにまた長距離移動をしていた。
彼はスーパーなどで出る廃棄予定の食品などをもらっていた。特に契約があるわけではない。ただその日訪れて自分が食べられる分を受け取り、立ち去る。
彼はその周辺にとどまったりしない。そういう条件が言い渡されていた。
彼が従う必要はない。だが都合が良いのだ。店の従業員が渡さなければ彼は自分で残飯を漁る。でもそれは面倒だし、体が余計に汚れる。結子のマンションの部屋に置いてもらえないかもしれない。長いこと一緒にいる友人だった。そう簡単に離れたくはない。

木陰が店に行った時、他にも異形が裏口で待機していた。何やら口論しているらしい。
「誰にやっても変わんねぇんだからいいだろ!俺たちにも飯を寄越せ!」
「そうだそうだ!」
 一メートルにも満たないちっぽけな怪物が文句を言い、催促していた。
「君たちねぇ、ここにたむろしないって条件だったのにそれ破ったでしょ!お客さんに迷惑だからそういうのに飯はやれないんだって!」
 餌付けされたハトのような図々しさの異形に、従業員が辟易とした態度で対応する。これが店の表で行われていたら、たちまち店の評判は失墜するだろう。
「君たち邪魔だから出て行ってくれない?」
 木陰が後ろから声をかける。高圧的な声音と二メートル強の体躯が二匹の野良犬もどきを威圧する。
その姿は相手を圧倒したようで、すぐに二匹は逃げて行った。
「ありがとう、助かったよ」
 従業員の声には親しみが滲んでいた。あまり好ましいことではないが、節度をわきまえた異形と人間との付き合いはままよくあることだった。
「別にいいよ、本当に邪魔だったから。それより食べるものある?」
従業員が一度店内に入ってまた戻ってくる。
「これをどうぞ。昨日は売れ行き悪くてね。ちょっと多いけど平気かな」
「これくらいで十分。ボクはそんなにいっぱい食べるつもりじゃないし」
 店としては廃棄量をできるだけ抑えたい。化け物としてもできれば多めにもらいたい。そんなやり取りもまた日常のひとつだった。


夕暮れ時になって結子は友人たちとのおしゃべりを終え、帰路についていた。
 何となく寄り道したい。
 結子は途中の駅で降りた。スマホで新しいグッズの情報を確認してから、道なりに店のありそうな方へ歩いていった。
 降りた駅は様々な店が集まった有名な駅。売り切れてなければグッズがないということはないだろう。
 道を迷いながらようやく目当ての商品に辿り着いた。所持金もバッチリ、購入可能。暗くなったにも関わらず人の多い店内を出た。
 しかし最大の問題がここで結子の前に立ちはだかった。
 帰り道が分からない。分かるはずがない。スマホは無駄に使って地図を検索することもできない。そして通りはどちらに流れる人も多く、簡単に駅への人の流れも掴めない。
 迷い続けて十数分が経った。
「そこの君、迷子かい?」
 突然若い男の声が結子にぶつかってきた。
「あ、いやぁその……」
「駅までならすぐに送れるよ」
 男が近づいてくる身なりはいたって普通だった。だが結子の不安を拭ってくれるような要素は何ひとつ無かった。
「駅までちゃんと送る、約束する。だから……」
 男の歩みは止まらない。それが余計に結子を威圧し、身動きできなくする。
「血を吸わせてくれないか」
「え?」
 男はどうやら吸血鬼らしい。しかしいきなり路上で血を求める吸血鬼など聞いた覚えがない。
「配給の分を盗まれて大変なんだ。俺を助けると思って、ね?」
「いえ、自分で帰れますっ!」
 ようやく動き出した体で逃げ出す結子。しかしその手を掴まれる。
「そう言わずにさ」
「嫌!放してよ!」
 掴まれた手の甲に爪が立てられ、僅かに出血する。
 その瞬間だった。
「結子を放せ、汚物野郎」
木陰の声が上から降り注ぐ。
次の瞬間、吸血鬼は腕を放し、蹴り飛ばされていた。
木陰は焦げ茶色の体をこわばらせながら威嚇する。光る瞳が明るく暗い街並みに浮かぶ。
「なんだよお前!ぶっ飛ばすぞこの野郎!」
 爪を伸ばし、牙を剥き、吸血鬼も威嚇してくる。
「下がってて結子」
 吸血鬼が向かって走りこんでくる。木陰も向かう。
 吸血鬼の右手が木陰の肩に届くも、木陰の左手が胸を打ち、少し吹き飛ばす。
 木陰は走り込み、さらに攻撃を加える。ギリギリでかわした吸血鬼が背後に回り飛びついて木陰の胸を切りつける。
 身悶えした木陰は腕を背後回し、吸血鬼の頭を掴み投げる。
 再び距離をとった二者がまた向き合う。
 吸血鬼の隣の路地からまた何者かが彼に向って攻撃を仕掛ける。
 吸血鬼はあまり傷ついたような素振りはしなかったが、敵の多さに逃げ出す。
「大丈夫でしたか?」
 紳士的な声が現れた玉虫色の異形から発せられた。
「結子大丈夫だった?」
 木陰はよく似た異形を無視して結子のもとに近づく。
「うん、大丈夫。ちょっと怪我しただけ」
「早く帰ろう」
「あのぉ……」
 玉虫色の異形がまた声をかけてくる。
「大丈夫でしたか?」
「何なの君?何か用なの?」
 木陰は今しがた助けられたとは思えないよそよそしさで返答する。
「いえいえ、私はただあなたの心配をしているだけでして……」
「あっそう。見りゃわかるでしょ。ボクは平気だよ。君みたいな軟弱ものと違って」
相手の異形は少し怯む。
「木陰、あんまり失礼なこと言わない」
「いいんだよあんな奴。それよりおぶってくから乗って」
 木陰はすぐにとでも言うように素早く背を向けて結子を迎える。
 結子は躊躇うが、こちらに向かってくる玉虫色の異形の姿が恐ろしく見え、咄嗟に乗ってしまった。
 闇夜に跳び去る彼を追う者はいなかった。

「あんな風に邪険にしてよかったの?」
 結子は珍しく出会った木陰の同類に少し関心があった。それ故に木陰の対応が気になった。
「あいつボクがあの下衆蝙蝠とかち合う前からボクに気付いてた」
 結子は少し驚く。
「あいつはさ、目の前でカッコつけたいだけだったんだよ」
「でも仲良くなれるなら良いんじゃない?少しくらいカッコつけても」
結子はそれでも解せなかった。確かに初対面が恩着せがましくカッコつけてきたらいい気分ではないだろうが、暴言を吐くほどではないような気がする。
「仲良く?冗談じゃないよ。あいつは……あのクソ下衆ゴキブリ野郎はボクとつがいになりたかったんだよ」
 予想外の返しに木陰の背中の結子はうっかり手を緩める。緩めた分、木陰の手が強く結子を引き戻す。
「な、なんで分かるの?」
「人間だって何となく相手から好意を向けられてるとか分かるでしょ。そんな感じ」
 なるほどと思う結子だが少し引っかかる。
 まだ問いかけたいことがあったが、マンションが目の前だった。

「結子の方が怖い思いしたんだから、そんなにボクのこと気にしなくてもいいんだよ」
 風呂の準備を真っ先にしながら木陰は言う。
「だって木陰のことだもん……気にはなるよ」
「はぁ……そっか……」
 木陰は結子が座るベッドの向かいに座る。
「お風呂沸くまで話そっか」
 木陰から切り出す。
「あの細いやつはあんたと付き合いたかったってことなの?」
「違うよ。あいつは子供が欲しいだけ。残念ながらあいつら同類に人間みたいなロマンスはなかなか理解できない。もしあいつができてたなら、あんな目をギラギラさせないよ」
 結子にはその状態が見分けられなかったが、言うのはよした。
「しかもあいつ、めちゃくちゃ気持ち悪いんだ。なんかおしゃれと勘違いしてニスとか体に塗ってた」
「うわぁ、流石にキモい」
 これには結子も同意する。
「人が痛めつけたばっかの相手を不意打ちでろくに怯ませもしないで紳士面するのってないでしょ。少なくともボクは嫌いだよあいつ。しかもそんな奴の子供産むなんて絶対嫌だ」
 結子は聞き捨てならない発言を受信した。
「子供を産む?あんたが?」
「ん?どうかした?」
 結子は突如として閃く。
「あんた女だったの!?」
「え、知らなかったの?」
 結子はベッドの上でひっくり返り、壁に頭をぶつける。
「知るわけないでしょ~も~!」
 結子はとても、とても恥ずかしかった。今まで男だと思って何年付き合いを持っていただろうか。自分は大切な友達のことを何も知らなかったのではないか。思いは後悔に近づいていく。
「だって~だってだって~~」
 枕に顔をうずめながら足をジタバタさせる。
「声が男の子っぽいんだもん!」
 木陰の声は確かに誰が聞いても少年のそれだった。そこで判別はつかないだろう。
「そっか気付かないか。多分ボクたちが一番近いのって、虫なんだよね」
 木陰はよく分からない話をする。話しながらいつの間にか取り出していた救急箱で結子の手の甲を治療する。消毒液が沁みる。
「例外もあるけど、虫って雌の方が大きくて色が地味なんだ」
「そう言われてみるとそうかも」
結子は色々と納得する。
「でもなんて言うか、木陰って男らしいよね」
「結子は大切な友達なんだから助けるのは当たり前でしょ」
 木陰はさらりと言ってのける。
 結子は顔が真っ赤になりまともに木陰が見れない。
 風呂の湯が沸いた音が鳴る。
「私、お風呂入ってくる!」
「傷に沁みないよう気を付けなよ」
 木陰は結子の気持ちがよく分からなかったが、結子とずっと一緒にいたいという自らの気持ちだけは確かに理解していた。

あとがき

初めての女主人公に挑戦しました。内容としてはかなり尻切れトンボって感じですが、これは期限をちゃんと確認していなかったためです。
読んでいただき、ありがとうございます。