エーテルの水面 第六話

霧島が深夜の道路を揺られて辿り着いたのは、東京の中心地から外れた都市学園の研究所だった。誰でも想像はつくだろう。装備の研究を行いかつ襲撃頻度の高い都市に近い場所、そこが彼ら超常科学対策局の在処なのだ。この手の都市が東京だけで八つあることが特定を妨げる要因だろう。
霧島がボヤッとしている間に袴田は下車し、降りるよう促す。
ハッとしながら急いで扉を開けて車外に足を踏み出す。あまり力を入れないようにして扉を閉め、目の前の建物に歩きだす。背後では袴田が車に鍵をかける音がした。
少し駆け足で袴田が追いつくと、今度は彼が先導し始めた。人口密集地から若干離れているからなのか、街灯の寂しく弱い光だけが路上の暗闇に浮かんでいた。
それとは対照的に、研究所側からの光は煌々として闇そのものを文明が拒否しているような印象を受ける。
自動扉が何の抵抗もなく彼ら二人を迎え入れる。あまりにすんなり入場を果たしたせいで、霧島はここが本当に対策局のある場所なのか疑問に感じさえした。
少し進めばエントランス奥の案内係の前に出る。そこでは二人の若い女性が座って待っていた。夜勤専従なのか彼女らが眠そうにしている気配はない。
「こんばんは」
二人とも礼儀正しく挨拶をする。夜勤と言えばもっと適当な態度でもおかしくないだろうに。やはり背後の組織の規模や性質に由来するのだろうか。
「こんばんはですね!」
袴田は屈託なく笑いかけるようにして返事をする。こいつは一体いつから起きてこの元気さなのだろうか。
「どうもこんばんは」
最後に霧島がぎこちなく会釈する。あまり意識していなかったが、どうも緊張しているらしい。それも身構える方向で。
「それにしても良い夜ですね。雲が無くて見晴らしが良い」
今までそんな風に空模様を気にした様子があっただろうかと霧島は内心首を傾げる。
「袴田さん、局長がお待ちしているそうですよ。そちらの新しい人のことをね」
黒髪で切れ長の目をした女性はまったく取り合うそぶりもない。一方の短髪赤毛の女性は既に事務仕事か何かに戻っているのか、ディスプレイに向かいこちらに関心を示さない。
「ええっ?!そうなんですか!」
袴田は少々大仰に反応して見せる。もしかしたら本当に驚いているのかもしれない。
「凄いじゃないですか、霧島さん!局長が関心を寄せる…こと自体は珍しいかどうかは分かりませんが、とにかく凄いですよ!」
地位の高い人間が新参者に関心を抱くというのは実際珍しいことだが、この場合霧島は予め大きな事件を起こしているので妥当なところである。
問題があるとすれば、関心の向き方がプラスかマイナスかという点だろう。ここに属すると決めた以上、出来ればプラスの方向であってほしい。
テンションの高さをそのままに、袴田は霧島を案内していく。
施設の内装は綺麗だった。そもそもの話、霧島に施設を評価するような素養は無い。せいぜい戦闘痕の有無を見分ける程度だろう。
施設のスタッフと何度かすれ違い、その度に低姿勢気味に会釈をする。奥へ奥へと入り込むことで、引き返せない所まで連れていかれるような錯覚を覚える。
下り階段へ辿り着く手前で人影が明らかに霧島達を待っていた。
「こんばんはだね、霧島くん、袴田くん」
「こんばんは、局長」
予想通りの相手ではあったものの、霧島は少しひるんだ。局長の姿に。
局長の肌の張りは四十弱程度であるものの、その色は病的な程白く、末期の患者を思わせる。そしてその髪も老人のような、染めたものとは明らかに異なる色をしていた。
受ける印象は死そのものだった。
だがそんな死がこちらに向かって柔和な笑みを浮かべている。背筋がゾクりとするような思いを顔に出さないように堪える。
「初めまして。先程こちらに移籍しました、霧島真也です」
癖で敬礼をしながら霧島は挨拶をする。敬礼したことに気付き、今ここでは何が適切なのか分からない自分の無知を自覚した。
一方の局長は霧島を見て微笑んでいた。その不慣れさに微笑ましさを見出だしたのだろうか。霧島には底知れぬ存在への畏怖があった。
「君のことは事前に調べてあるよ、霧島くん。経歴も功績も、昨日の出来事も」
特に圧力をかけるような声音ではないが、重苦しいほどの圧を感じる。一挙手一投足を見逃してはならない、そんな危険とも言えるような圧を。
「あまり固くならなくてもいい。まあ難しい話だとは思うがね。そのうち慣れるさ」
局長は霧島を落ち着かせようとするが、効果は微妙だった。忘れていた呼吸をしだしたこと以外変わらない。
「ああそうだそうだ。名前を言ってなかったね。私は呉中弘蔵(くれなかこうぞう)、この超常科学対策局の局長を勤めている。」
握手を求め、呉中局長は手を差し出す。
「今は真夜中だからね、ここの全体像がまったく見えないと思うが許してほしい」
握手に応じた霧島はこれまた驚かされる。握った手に力が加わっていないにも関わらず、武道を修めた者特有の何かを、強く感じた。
相当な手練れの予感だけを残し、手を離す。
「ここから先は私が案内するとしよう。袴田くん、他の業務に移ってくれるかね?」
「はい、それではこれで失礼します」
袴田は一礼してその場を離れていった。遠のいていく足音に待ったをかけたいところだが、そうもいかない。呉中局長が直々に案内をするというならそれに従わなければ。未だその意図を測ることができないが、何かしら考えがあると見ていいはずだ。
「それでは施設案内、と言うほどでもないが、とにかく向かうとしようか」
霧島は短く頷いて呉中局長に続く。階段を下っていくことを考えると、どうやら目的地は地下のようだ。
階段の次に待ち構えていたのはエレベーターだった。
「階段もあるんだがね、君もこの後のことを考えれば疲れることは避けた方が良いだろう」
二人揃って乗り込む。局長が何階かを押したのを見ながら霧島は話し出す。
「この後のこととは一体なんでしょう?」
「検査だよ」
霧島は納得するような、何処か引っかかるような思いだった。強いて言うならあまりにも当たり前で簡素な答えにがっかりしたというところだろう。
霧島はこの組織にお呼びがかかってから困惑し続けていた。確かに必要とされながら、その具体的な必要性と自分が何をすればいいのかが不明だった。流されるまま。これからも流され続けるのだろうか。
霧島には受動的な行動は似合わない。本人はそう思っている。やるべきことがあるならばそれに邁進していくべきだと。
この居心地の悪さのせいか、エレベーターの真っ白な壁にすら苛立ちを覚える。
「不安かね?」
局長が急に問いかけてくる。
「……はい」
気が進まないがここは素直に答える。何かを簡単に隠せる相手ではない。
「手持ちぶさただと顔に書いてあるよ」
さらりと見透かしてくる局長に気味の悪さを感じる。細い目が瞳の動きを感じさせず、外見的にも気味が悪い。だが決して悪意を感じはしない。混乱と困惑は彼にも原因があるのではないか。
霧島は結局返す言葉を見付けられずにいた。
「こういうことを先に言うのはよろしくないんだがね」
局長の方から切り出す。
「君はまたあの力で戦うことになるだろう」
「貴方の命令で、ですか」
霧島はある種の安心感を得ながら答える。
「いいや、どちらかと言えば私は要請に許可を出す立場だ。ただ君が戦う必要性があるだろうというだけの話さ」
ちょうど会話の切れ目でエレベーターの音がチーンと鳴る。
「さあ、ここが君の主に出入りすることになる研究セクターだ」
といってもただの幅広い廊下が左右に横断しているだけだった。
局長は霧島の苦笑いを気にせず右折し、歩いていく。霧島も急いで続く。
しばらく歩くと、白衣の男女がせわしない様子で往復する姿が増える。おおよその者が局長に会釈ないしは挨拶をするが、中には気付いてか気付かないでか素通りする者もいる。眼鏡のボサボサ頭の男が霧島を興味深げにジロジロと見る。
妙な視線を幾つか感じ、自然と早足になる。

局長が入った部屋には白衣姿の研究者が、白い働き蟻のように蠢いていた。ある者は激しく討論し、またある者はデータを照らし合わせ付箋紙をファイルに貼り付ける。
「ここで君の検査を受け持つはずなんだがね……おーい、世平(よのひら)くーん!」
威厳を利かせたというには程遠い軽い口調で担当者を呼んでいるらしい。
「あーはいはいはい!ちょちょちょっとお待ち下さい、局長!」
こちらもこちらで馴れ馴れしい返事だ。
三十秒もしないうちに奥から一人の研究者が飛び出してくる。
「えー、ただ今参上しました、世平久嗣(よのひらひさつぐ)です!」
前髪の毛先が青、後ろ髪の毛先が赤に染まった金髪、側頭部にはオレンジのまだら模様の、見ているだけで頭が痛くなるような男が現れた。
霧島の顔に困惑の影が射すものの、男は気にせず自己紹介を続ける。
「統括研究員の世平久嗣です。役職の名前通り、ここの研究全体を統括・処理して技術の発展を促すのが私の仕事だよ。あ、漢字はこんな感じ……なんてね」
出来の悪い冗談を言いながらグイグイとネームプレートを見せてくる。
「霧島真也です。これからよろしくお願いします」
定型文を切って貼り付けながら、霧島は世平に求められた握手に応える。興奮気味なのか握った手を軽くブンブンと振る。
「個人的に聞きたいこととか山ほどあるんだけどね、その前に今の君の体を調べさせてもらうよ」
世平は今にも駆け出しそうな足取りで研究室の一角に向かう。霧島は当然ついていくが、呉中局長もついてくるらしい。後ろから聞こえる革靴のカツカツという音に威圧感を感じてしまう。
刃物を背に当てられるような緊張感と共に検査室らしき区画に到着する。
「準備終わってるかーい?」
世平ののびのびとした声音が響く。
「とっくのとうに終わってますよ、主任」
待機していたとおぼしき研究員が返事をする。随分待たされたらしく、退屈そうな響きだ。
「それじゃあちゃっちゃと済ませようか。といっても時間のかかる検査も多いからすぐには終わんないんだけど、そこは勘弁してくれ」
ウキウキと声を弾ませながら世平主任は制御室へ向かう。霧島も着替えを済ませるために検査室の一角へ歩く。

検査は約一時間半に渡って行われた。一つ一つは大した時間はかからないが、とにかく検査の種類が多かった。十数分かかる検査では退屈極まるほど。
霧島は落ち着きのない方ではないが、長時間じっとしているのは性に合わない。今は身体測定の方が恋しいくらいだ。
「これでこちらが取りたいと思っていたデータは一通り揃った……」
世平の言葉に霧島はホッとした。これ以上の検査などしたくはない。
「というのは真っ赤な嘘なんだけど」
顔が青ざめ、辟易とした態度を隠そうともしない。拳が軽く握り込まれる。周りからすればさながら病院へ行くのを嫌がる飼い犬のようだ。
「そんなに嫌がらなくても……ほらほら今度は体動かせるからさ」
機嫌を取るような言い回しと内心を見透かされたことに若干ムッとする。しかしここで意地を張ればそれこそ子供じみている。霧島は溜め息をつきながら立ち上がる。
「溜め息ばかりついていると、幸せが風船から抜ける空気みたいに逃げてくよ?」
検査中にしばしば溜め息をついていたのを思い出したのだろう。世平主任が冗談めかして指摘する。
「この程度で逃げてく幸せが気にならないくらいの幸せ者なんですよ、俺は」
口答えしながら主任についていく。本人は無自覚だが、足取りは少し軽かった。