努力できる才能
もう20年以上も前の話です。
高校の時、友人とどんな才能が欲しいか話したことがありました。その友人は、間髪入れず「努力できる才能」と言いました。
当時の自分は、「なんだか、わかりにくいな」と、違和感を持ちました。
もっとわかりやすく「東大に合格できる才能」「アスリートになれる才能」「異性にもてる才能」などを思い描いていたからでしょうか。
その後、10年ほど前、五木寛之さんの本を読んだとき、こんな言葉に出会いました。
「努力ができることも才能のひとつ。だとするならば、生まれ持った才能がすべてということになり、人間、何をしても虚しくなる」と。
高校の時、言葉にはできませんでしたが、自分が抱いた違和感も、これだったのかもしれません。
「努力って、誰にでもできる、そして誰もが持っている才能。だからこそ、人間いくつになっても夢や目標を持つことができる。一発逆転の可能性は、努力こそがすべてなのだ」
すべてが才能と言い切ってしまうことの後ろめたさと残酷さ。夢のなさ。
自分も、この年になって、やっと「努力できる才能」のことを少しずつ認知しつつあるように思います。
もう少し補足するならば、「ある分野に限れば努力できる才能」と、言うことができるでしょうか。
ヒトには向き不向きがあり、それを知り、目標にすえること。
そうすれば、誰でも努力できる才能が目覚めることができるのかなと。夢や目標を持つことだって可能だと思います。
うまく言えたのかわかりませんが、「努力できる才能」について書き記しました。
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