ホドロフスキー監督に会いたいと思ってやれることを全てやったら会えた話
この映画を観て、「監督に会いたい!」と思った私が何をしたか。その結果何が起きたか。こんなことが起きました。ちょっと書いてみます。
『ホドロフスキーのDUNE』を、私は東京国際映画祭のスクリーンで観た。当時は都内で映画制作のワークショップに通っていて、その講義の一環だった。私は先の記事にも書いたように、"DUNE"のプロジェクトチームのメンバーを集めるくだりでその成り行きに釘付けになった。
映画のエンドロールの後、その結末に感動した私は、強烈に「この人に会ってみたい」と思った。聞けば、ホドロフスキー監督の23年ぶりの新作映画の配給担当はワークショップの主宰の会社で、その公開に合わせたプロモーションで来日する監督のアテンドもするという。それなら、と、ワークショップに呼んでほしいと主宰に言ってみた。主宰の返事は、「えぇ?」と、生ぬるいものだった。ホドロフスキー監督はチリ出身で母国語はスペイン語なのだけど、今はパリで暮らしていて、奥様はベトナム系のフランス人だった。私はフランス語ができたので、「コミュニケーションは取れます!」と押したのだけど、大して相手にされなかった。
アレハンドロ・ホドロフスキー監督はカルト映画界では伝説的な存在。さらに60年以上タロットを研究していて、マルセイユ版を復刻するほどの人物。来日当時で85歳。会えるとしたら最大で最後のチャンスだと思った。来日まで半年。私は「監督に会う」ことにコミットして、できることを全てやることにした。
会いたいと強く思ったものの、私は監督の映画の一つも観たことがなかった。会えたとしてもそれではあまりにも失礼すぎる。まず三部作と言われた『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ』くらいは観ておかなければ。そこで、いつもDVDをレンタルしていた代官山の蔦屋書店に行った。が、当時ホドロフスキー監督のDVDはまだ作られていなかった。「VHSなら倉庫にあるんですが…」すぐに家に電話をかけてビデオ機器がまだ使えるか確認すると大丈夫とのことだったので、「借ります!」と言って倉庫からVHSを出してもらった。
それから、母国語がスペイン語だということを理由にワークショップに呼ぶことをはぐらかされていたので、なら勉強しようと思った。ちょうどタイミングよくスペイン語を教えているスペイン人と知り合ったところで、その人もホドロフスキー監督のことが好きだった。監督がどういう人か、観客の立場とはいえ私よりもよく知っている彼は、監督が喜びそうな単語や言い回しを選んで教えてくれた。そのことを主宰に伝えると、なんと「俺も習おうかな」と言って、一度か二度、主宰もレッスンに参加した。だんだん私が本気だということが伝わり始めたのか、「そんなに会いたいんだったら、来日の時タロットのイベントでカードを持つ役とかあるけど」と主宰のほうから言ってくれたことがあった。ただ「話せるとかはないけどね」そう言われたので、私は納得しなかった。
私は監督をただ拝みたいというわけではなかった。まだできることがあるはずと思っていた時、ワークショップの帰りに『リアリティのダンス』という監督の自伝が目に入った。これだけ会いたいと言っていながらその人生について何も知らないなんて。リソースがあるなら手に取らないという選択はない。とても丁寧に、きっと監督のことが大好きな翻訳者の方に訳された言葉を噛み締めながら、監督の人となりを理解しようと努めた。
私はその時できることを全てやった。やり尽くすと、なんだか達成感を感じてしまい、「会えても会えなくてもまぁいいか、やりきったわ!」という気分になった。すると、ある日。主宰から電話があって、「来日中に密着のドキュメンタリー撮るんだけど、マイク持つ?」と言われたのである。断るわけがない。「持ちます!」と即答した。
こうして、2014年の4月、都内のホテルのスイートルームで私はアレハンドロ・ホドロフスキー監督に会うことができた。穏やかで、優しげな人だった。一週間ほど、ホテルの部屋でのインタビューやイベントの会場での撮影に参加して、監督の言葉を全て拾うことができたのは、とても貴重で幸せな時間だった。
月曜日から撮影が始まり、火曜日の撮影が終わって家に帰ってからだったと思う。急に、監督に手紙を書きたくなった。筆不精でそんなことは滅多にないから、棚の奥の方にあった手紙用の紙を引っ張り出して書いたのだけど、この時ほどフランス語を勉強していて良かったと思ったことはなかった。監督の母国語ではなかったけど、身近な言語の一つだったと思う。私にとっても母国語の次に身近な言語で、伝えたいことを自由に書くことができた。「私にも叶えたい夢があって、それはとても壮大なもので、”DUNE”にまつわるあなたの身に起きた出来事とあなたの情熱に非常に感銘を受けて、とても勇気をもらった」というようなことを書いた。「あなたと一緒に仕事がしたい」という文はスペイン語で書いた。「私も魂の戦士です」という文も。(きっと喜ぶよ、と教えてもらった表現だ)スペイン語で書いたのは一番伝えたいことだったからだけど、何を伝えたかったかというと、情熱のほう、パッションの部分だ。たぶん、私は宣言したかったのだと思う。どうしても本人に。「私もやります」と。実際に一緒に作業するかどうかは重要ではなかった。
翌日の朝、封筒を探していたら、いつどこで買ったのか全く覚えていない封筒が出てきた。真っ赤で表に金色の細いリボンが箔押ししてある。ホドロフスキー監督に渡すのに、これ以上ぴったりな封筒はなかった。手の平サイズなのもよかった。象徴的な色とシンボルが描かれた封筒に入れた手紙を、水曜日の朝、ホテルの部屋に一番最後に入る時、監督の奥様にこっそり渡した。
家に帰ってから読んでもらえたらいいな、くらいに考えていたその手紙を、監督はすぐに読んでくれた。その日は午後の早い時間にインタビューが終わり、ゆっくり片付けをしていると、奥様に「アレハンドロがタロットを読んでくれるって」と言われたのだ。「読んでくれたんですか?」と小声で聞くと、奥様は「ええ」とウインクしてくれた。あぁ気持ちは伝わったんだな、と思って嬉しかった。アテンドを担当していた女性と私に監督はタロットのリーディングをプレゼントしてくれた。穏やかな春の午後。私はこの上なく幸せな気持ちだった。
会いたいと思った人に実際に会って、私は心の交流をしたかったんだな、と思った。叶えた後にそれがわかった。自分の言葉で伝えたいと思ったことを伝えることもできた。これは”完全にコミットしたら、叶えたいことは叶う”ということの数少ない私の成功体験である。この先の人生で何があっても、この時のことを思い出せばきっと大丈夫だと思える。そんな指標になるような経験だった。『ホドロフスキーのDUNE』にまつわる私のエピソードはこれくらいだけど、この先にはもっと壮大で心踊る経験が待っていると、私は信じている。
皆さんの叶えたいことは何ですか?どうせ叶わないとか思ってませんか?その願い、叶いますから。この言葉にもっと説得力がこもるように。楽しんでこ、と思う今日この頃です。
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