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埼玉県狭山市 鎌倉・南北朝時代に思いを馳せる 2024年6月【2】

私の住む新所沢から2駅7分。西武新宿線・狭山市駅で下車。入間川に向かって歩く。

この街は2010年頃の再開発で大きく変わった。かつては小さなロータリーしかなく、そこを渡るとすぐに急な下り坂になった。

再開発は地形を変えた。平地を増やして大きなロータリーをつくり、公園や広場が設けられた。高台なので眺めもいい。

駅から続くペデストリアンデッキからの眺め。2020年12月撮影。

市民交流センターという施設もできた。誰でも利用できて、ゆっくりすることができる。椅子や机があり、勉強する中高生も目に付く。

再開発前の雑然とした風景が懐かしい。でも私は今の狭山市のほうが好きだ。

歴史の香る街でもある。駅近くの狭山八幡神社は新田義貞ゆかりの地。1333年5月の鎌倉攻めの際、ここに立ち寄ったという。愛馬を繋いだという松が残されている。

狭山八幡神社

その近くにある徳林寺には、室町幕府の機関が設置されていた。鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は京都に幕府を開くが、関東の政情は未だ不安定。鎌倉に鎌倉府を設け、四男の基氏を長官として赴任させた。当時まだ12~13歳だった。

1353年、その鎌倉府の機能を、北関東平定のため、武蔵国入間川(現・埼玉県狭山市)に移す。ここに築かれた陣所を「入間川御陣」あるいは「入間川御所」といい、基氏は「入間川殿」と呼ばれた。

9年もの間、滞陣していたという。6年とする資料もあるが、いずれにしても、基氏にとっては青春時代を過ごした土地と言える。

陣所の正確な位置はわかっていない。徳林寺も候補のひとつに過ぎない上、当時の所在地は現在よりも北に位置していたという。

手元に本の資料がないため、あれこれググる。いずれも市井の歴史愛好家による記事だ。ある方は現在の狭山市民会館向かいの高台ではないかと推定している。

またある方は、陣所には全国の軍が駐屯していたのだから、広範囲に及んでいたはずだと指摘している。なるほど。そう考えると、ピンポイントで場所を特定できなくてもいいという気になった。

徳林寺

前述の狭山八幡神社も候補地のひとつ。このあたりの高台一帯が陣所であったとみなし、往時に思いを馳せることとする。

調べているうちに、足利尊氏はこの地を訪れたのかどうか、知りたくなった。1352年の武蔵野合戦で、彼の軍は新田軍と入間河原で戦っている。これは今の狭山市にあたる。

しかし尊氏は直前の府中で軍を二手に分け、鎌倉に南下したとする記事を見つけた。尊氏軍は入間河原で戦をしたが、本人はそこにいなかったというのだ。

石浜で軍備を調えた尊氏は、25日に武蔵国府中へと出陣した。武蔵国の内陸部に勢力基盤を有する新田勢と鎌倉の間を扼し、新田勢の兵站線を断つ戦略である。尊氏はここで軍勢を二手に分け、北方には薬師寺公義・仁木頼長らを送り、尊氏自身は鎌倉を目指して南下した。

これが確かなら、小手指原(所沢市)での戦いにも尊氏はいなかったことになる。同市民の私としては残念。彼が軍を引き連れて市内を訪れ、戦をしたと信じて胸を踊らせてきたからだ。

このサイト以外に、尊氏が入間河原、小手指原の戦いに不在であったとする記述を見つけることはできなかった。私としては、彼が狭山市や所沢市を訪れていたことを願っている。ググるだけで真相にたどり着くのは難しい。いずれ文献にあたりたい。

入間川の河川敷を散歩した後、2023年に開店した商業施設「そよら武蔵狭山」でひと休み。それから駅に戻った。帰りは上り坂なので、苦しかった。

そよら武蔵狭山

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3年半前に、同種の記事を書いていた。狭山八幡神社については、当記事よりも詳しく書いてある。

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