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巡禮セレクション 31

2014年12月07日(日)

火土

火土1

火土2

最近、ネット上で虹に関するつぶやきなどをよく目にします。

昨日、豊川で三度にわたる完全なアーチ状の濃い色をした虹を見たとメールをいただきました。
その虹の場所は、最近遺跡が発掘され、羊の形をした硯が見つかったそうです。

来年は、未年です。
羊が気になったので少し調べてみました。

干支の未は、
「"未"は『漢書』律暦志によると「昧」(まい:「暗い」の意)で、植物が鬱蒼と茂って暗く覆うこととされ、『説文解字』によると「味」(み:「あじ」の意味)で、果実が熟して滋味が生じた状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために動物の羊が割り当てられた。」
ということです。
樹木が生い茂る鬱蒼としている反面、それは繁栄がピークに達している状態ともとれそうです。
元々、未と羊は関係なく、十二支はそれぞれに動物を割り振って覚えやすくするために未年は羊年になりました。


さて、豊川の羊形硯は、三河国府跡出土しており国司が使っていたのではないかと言われています。

この羊形硯というのは珍しく、他に検索してみると、
備前国府の関連遺跡とみられるハガ遺跡で出土したものにヒットしました。
ハガ遺跡(はがいせき)は岡山市中区国府市場(こくふいちば)の遺跡ですが、岡山に繋がったことに驚きました。
これも国府と関係あるようです。

「羊形硯(ようけいけん)は頭の部分のみの破片ですが、羊ををかたどった焼き物の硯です。全国でほかに奈良県・平城京跡の2例、三重県・斎宮跡、愛知県白鳥遺跡、京都府樋ノ口遺跡の5例しか知られておらず、国府などの国の役所などの関連遺跡から出土すると言われています。」

奈良時代の遺物となります。

この羊ですが、古代より中国をはじめ世界の文明の中で家畜として飼われていたのですが、日本での記録は乏しいようです。
そもそも、
3世紀前半から中期にかけての日本について記述した
『魏志倭人伝』では
「倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」
と記述されています。

倭国には、馬や牛、羊などは居なかったのです。
これらは、後の外来ということになります。
(「あの時、馬はいなかった。」参照)

文献に現れる記録では、599年には、推古天皇に対し百済からの朝貢物として駱駝、驢馬各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が、
嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には新羅からの朝貢物として鵞鳥2羽、山羊1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭、との記録があり、
醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が”羊、鵞鳥を献ず”とあり、
他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。

幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。

明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。

1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品だったが、化学繊維にとってかわられた。

と、羊の飼育は近代に入ってからということです。
ということは、奈良時代の硯に見られる羊は、象徴的なものだと考えられそうです。
おそらく中国からの輸入品のように考えられます。

では、羊にはどんな意味があるのだろうか・・・
鄭高咏氏の「羊に関するイメージ一考察」を参考にするなら、

「古代中国において, 羊は単なる家畜ではなく, 大切な供え物であり,ありがたい瑞獣でもあった。
羊への神聖視は何も古代に限ったことではなく,後漢の許慎が撰した 『説文解字』 に(羊は祥なり)とあるように, 羊と吉祥は同一と見なされ,(上々吉) のことを古くは″大吉羊″といっていた。 」

羊は、神へ捧げる神聖な動物であり、羊の文字を使った文字も多数存在し、それらは、善や美といった良い印象をもたらすものばかりだそうです。
羊の字は言葉にも強い影響をもたらしているようです。

「中国語には 「羊」 を部首とする字が数多くあり, 現在出版されている字書の中でも豊富な収録字数を誇る 『漢語大字典』 の「羊部」 には204字が掲載されている。」

羊の字は、牛と同じく角を表しています。
しかし、その角は、渦を巻いている角だというのが特徴です。

「姜羌族は羊を山の神としていたが, 現在でも古代羌族をルーツとする民族の間で, 山の神, 土の神, 石の神が氏神, 守り神としてあがめられているのは,遠い昔に山の神・土の神・石の神・羊の神が同一視されていたことの名残である。」

羌(きょう)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。
『後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏の別種」とあり、とても古い時代から中国の人に知られていたようである。
紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。

三苗(さんびょう)とは、中国神話に登場する悪神。
蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(苗族の祖先といわれる。)と巨体の夸父族でした。
戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗となった。
とありますが、現代のミャオ族と三苗との関りは深いと考えられていますが、学術的な証明には至っていないようです。

だけど、西域に漢族に侵略された古い遊牧民がいたのは間違いなさそうで、彼らは山の神・土の神・石の神・羊の神を信仰していたのだと思われます。

「清代初期の文学者, 屈大均は 『広東新語』 という著作の中で次のようなことを述べている。
東南の沿海地域では魚には恵まれていたものの羊の数は少なく, 人々はまず羊肉を味わうことができなかった。 片や北西の黄土高原では羊こそたくさんいたが, 魚となるとめったにお目に掛かれるものではなく, 従って人々が魚を口にする機会はほとんどなかった。 そこで古代人たちは両地で手に入りにくかった 「魚」 と 「羊」 を組み合わせて″鮮″なる漢字を編み出した」

日本では海幸彦山幸彦の話がありますが、山幸とは羊のことだったのかもしれませんね。

ところで、未は、十二支の第八位で, 中国人にとって 「八」は安定と繁栄の象徴であるそうなので、来年は良い年になる可能性もありますね。

「漢代の董仲舒は, 『春秋繁露・執贄』 の中で,
(子羊には角があるが, それで危害を加えるようなことはしない。 持ってはいても使わないのだ。 まるで仁を好む人のようである。
捕らえても鳴かず, 殺しても声を上げない。 まるで義に殉じる人のようである。
子羊は母から乳をもらう時, 必ずひざまずいて飲む。 まるで礼を知る人のようである。
羊と祥がほぼ同義とされるゆえんはここにある)
と羊を絶賛している。 この美質ゆえに, 羊は美, 祥, 仁, 義, 礼といった象徴的な意味を付与されたのであり, いにしえの士大夫たちは羊を進物とし, 子羊の皮衣を着て朝廷に出仕していたが, これはその徳が子羊のようであることを示していた。
十二支の動物の中でも, 羊が持つ象徴的意味はとりわけ素晴らしく, その多さは群を抜いている。
ところが他方で, 羊は軟弱, 臆病, 弱者の代名詞で, 哀れなスケープゴートでもあるのだ。」

これらの美徳ゆえ、奈良時代の国司は羊形の硯を愛用したのかもしれませんね。
硯とは文字を書く墨をするものです。
羊が漢字にもたらした影響を考えると、羊を硯に結びつけたのも納得です。

来年の未年は、羊の美徳を発生させるなら繁栄をもたらすのかもしれません。
反面、欠点を曝け出すと、強者に虐げられる臆病者の年になるのだと思います。

良い年にするも悪い年にするもいつも我々次第です。
ああ、選挙が重要な意味を持ってきます・・・・

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